女性の吃音者と男性の吃音者〜見た目問題としての吃音〜

吃音がある女性と男性とで何か違うところがあるだろうか、と思っていた。吃音の男:女比は3~5:1なので、女性はマイノリティになる、以外には特にないと思っていた。

しかし、先日、吃音のある小中高生を対象にした合宿に参加した友人が、「女の子の方が男の子よりもちゃんと考えているように見えるなぁ」と言っていた。ほんとだろうかと思ったが、同時期に、別の、女性の身体をした人から、「女性のほぼすべての人が、外見にコンプレックスがあると思う」と聞いた。だいたい8~9割くらいかなと思っていたが、ほぼ全員というのに少し驚き、しばらくたってたしかにそうかもしれない、と思った。そして、それでつながった。特に女性の場合、吃音が見た目問題につながるのではないか、と。

あるていど重い吃音の人がどもるとき、顔をゆがませたりすることは多い。また、声も一種の見た目である。女性の身体の人は今の社会では、外見が「評価」されることが、男性の身体の人に比べて格段に多い。声もまた、「萌え要素」のようによく見られる。ある女性身体の友人は、性に対する嫌悪感があると言っていたが、それも社会に置かれている女性身体の地位によるところがおおきいようだ。

そのような社会において、女性が安心してどもることができるだろうか。どもるときの外見は、男性身体のぼく自身、いくらかは気になっていたのだが、女性の場合それが何倍も気になることは、ありえると思った。

押見修造の『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』という漫画があるが、そこでは女性の主人公の「志乃ちゃん」が顔をゆがませてどもる場面がある。押見修造もそのような意識から、主人公を女性にしたのかもしれないと思った。

女性の吃音の人が、「恋愛が不安」と語るのを聞くことが多かったが、今まではよくわからなかった。恋愛は人と人とがほんとうに結びつくことなのだから、どもるかどもらないか、という全人格のほんの一端の現象を気にしなくていいのではないか、と思っていた。しかしやはり、男性がアホすぎて女性の外見しか見ていないという現実があるのだった。そして、女性がどもっていると「外見的にアウト」と思う男性もいるのだろうと思った。あるいは、どもっていて「萌え」と、アニメの登場人物のようにしか受けいれられないこともありうるだろう。「男性がアホすぎて」と先に書いたが、社会構造的な問題でもあるから、しゅうと・しゅうとめなどで吃音の「嫁」を嫌がる人もいるかもしれない。

友人が参加した合宿は、「吃音を受けいれよう」ということが前提になっているものだった。ぼくも何年か前に参加したのだが、その時も今回も、小中高の参加者は女性が多かったようだ。男性にとってよりも女性にとっての方が、吃音を受けいれるのは難しく、しかし同時に必要性のあることなのかもしれないと思った。

『天気の子』の国家論——近代を抱いたまま沈む東京と日本——

 『天気の子』のラストで帆高は、「ぼくらが世界の形を変えてしまったんだ」と言う。しかし実際、帆高と陽菜が変えたのは世界全部ではなく、日本の東京という一地域である。単に地域の天気を変える話であれば、例えば大阪や岡山や小豆島なんかでも成りたつ。しかし本作では、東京の新宿が選ばれた。そこが日本の近代を象徴する場所だからだ、というのが本稿の趣旨である。

 物語の最後に、東京は沈む。いけにえを捧げなかった神罰である。むかしの日本にはどこの村にも天気を操る巫女がいて、最後はいけにえとして死んでいったと、気象神社の神主は語る。それが天気に関するものであったかはともかく、日本の村々で若い女性をいけにえに捧げたということは、史実である[1]

 近代日本において、東京の天気は穏やかであった。だから、劇中におばあさんが語るように、二百年かけて海だった場所を陸にし、街を作ることができた。そこに神話的な意味を見いだすならば、太陽神で女性神である天照大神の地上における体現者、天皇が移ってきたことがいえるだろう。天皇を戴く東京は太陽神に微笑まれ、安定した天候に恵まれた。

 かつて村々にいた巫女が近代にいなくなった理由は、国家による神道の中央管理化が進んだことがいえるだろう。明治6年には巫女を禁じる法令が発せられている。[2]天皇の威光が日本全土を照らし、いけにえを村々という小さな単位で行う必要がなくなった。太陽神が全国をおおった。

 東京の長雨が意味するのは、近代の終焉ではないだろうか。劇中で天皇は登場しないが、もしかしたら天皇制は終わっているかもしれない。あるいは、天皇制は形としては続きつつも、中身が死んでしまっているのかもしれない。いずれにせよ、東京は太陽神から見放されている。

 天皇制それ自体が、いけにえのシステムだといえた。皇室に生まれたというだけで、一般の日本「国民」が享受する人権を奪われる。東京は、日本は、いけにえを中心に発展してきた。近代天皇制という大きないけにえが、村々の少女が巫女として捧げられることから解放したのかもしれない。

 だが、天皇ではもうだめになった。新たないけにえが求められ、陽菜が選ばれた。陽菜が祈った場所が、代々木という明治神宮の所在地であることは象徴的である。近代日本最初のいけにえが眠る場所を見下ろして、陽菜は祈る。願いは、晴れること。明治天皇天照大神の力が働く。それは、陽菜が祈って晴れにした一番大きな仕事が、明治神宮外苑の花火大会という祭りであることにも示されている[3]

 しかし陽菜は結局、地上に戻ってきてしまう。いけにえを捧げなかったむくいとして、東京は毎日雨が降り、徐々に沈んでいく。帆高が高校を卒業して3年ぶりに東京に行くとき、東京の鳥瞰図が写される。そこでは、皇居の森はかろうじて残っているものの、その東の下町エリアはほぼ沈んでいる。そして、水上バスが行き交っている。

 私は、水上バスがせわしなく行き交う東京を見て、意外に思った。東京を放棄するという選択肢は選ばれなかったのか!と思ったのである。根拠はないが、あの賑やかさから、東京は首都のままかもしれない、と感じた。

 首都東京が徐々に沈みゆく運命にあるとき、遷都は当然考えられる選択肢である。日本において首都とは天皇のいるところである。天皇が東京にいては太陽神は輝き給わないのだから、他の地(おそらく京都や大阪になるだろう)に移して、輝きを取り戻していただく、と考えることができる。

 それはすなわち、近代の終焉となる。東京遷都とともにはじまった日本の近代だが、神に見放されたのだから、首都移転によって近代を断ち切って、ポストモダン日本として再生する。そうした歯切れのいい方法を、劇中の日本人は選ばなかった。選んだのは、神に見放された東京と近代を抱きながら、冷たく沈んでいくことだった。

 物語の最後に帆高は、「世界がどれだけ狂っても、ぼくらふたりは大丈夫だ」と言う。「東京と日本、そして近代が沈んでいこうとも、ぼくらは大丈夫だ」という意味である。もちろん、となりに陽菜がいるから。陽菜にとってはとなりに帆高がいるからである。

 「世界なんてもともと狂ってたんだ」と須賀も言うように、東京も日本も本来はわけのわからない世界だった(東京の下町はかつて海だった)。そこに秩序を与えたのが、村々にいた巫女=いけにえであり、天皇(=いけにえ)を中心とした国家体制だった。秩序が失われようと、おばあさんが言ったように、「元に戻っただけ」だ。我が友人の小峰くんは、帆高と陽菜という二者の結びつきこそが本当の公共なのだと述べている。映画では、児童相談所や警察といった近代の「公共(秩序)」を名乗るものが、実際は形のみのものであり、陽菜と凪の二者、帆高も加えて三者(あるいは編プロのふたりも加えてもよいか)の生み出していた公共を破壊する働きとなっていたことが示された。近代が終わりつつあるいま、身近な関係(それは必ずしも恋愛関係でなくてよいだろう)から個々人が公共を作っていく。そういうメッセージがあるのではないだろうか。

 さて、新海誠はなぜ今のタイミングでこの、東京が太陽神に見放され、いけにえに陽菜という女性が選ばれる物語を作ったのか、考察したい。太陽神を地上に体現する天皇制は、まもなく終わろうとしている。皇位継承者を男系男子に限るという今のシステムでは、悠仁親王に男子のお世継ぎが生まれなかったら、天皇制は終了となる。女性(女系)天皇を公認するかどうかが目下の問題である。今まで男子のみが天皇といういけにえになったのだが、天皇制を続けるには、今後は女子もいけにえとしなくてはならない。つまり、陽菜は今後生まれる女性天皇を象徴する。劇中では帆高が、近代日本が終わろうともあなたが必要だといって、地上に戻してくれた。しかし未来の女性天皇がそのように、社会の犠牲ではなく個人としての結びつきを得ることができるのだろうか、そのような問いが発見されるのである。

 最後に、『天気の子』の性風俗描写について、記しておきたい。はじめに、「バーニラ バニラ バーニラ 求人」と性風俗の宣伝車が新宿の町を走るが、これは陽菜という巫女との出会いの伏線となっている。というのも、巫女はかつて、性を売る者でもあったからである。日本の遊郭は神社を中心に発達してきたが[4]、ここでは明治神宮と歌舞伎町(陽菜)がセットになっているだろう。

 古来、巫女は処女であることが求められた。陽菜がラブホテルでエロビデオの撮影をされそうになり、結局帆高くんの(無用な?)活躍で逃げられたが、もしあのまま撮影していた場合、天気の巫女としての働きはその後も有効だったのだろうか、と気になる。また、「されそう」と書いたが陽菜は、貧困のためやむにやまれずとはいえ、撮影に合意しているのであり、大きな抵抗は見られない。性を売る巫女としての姿がここにも見えた。巫女が処女であらねばならないということと、性を売る巫女というのは当然矛盾するのだが、巫女にも色々な形態があったようである[5]。ラブホで最後の夜を過ごす、帆高、陽菜、凪はとても楽しそうである。そこにも、性の場所に輝く巫女の姿がある。

 

[1]日本巫女史』(初版は昭和五年 2012年国書刊行会より復刊)p225 第二節 人身御供となった巫女 「現在ではこの民俗の存したことは、単なる文献や伝説ばかりでなく、考古学的に遺物の上からも証明されるまでに研究が進んできた。」「人身御供に上げられる女性のうちに、巫女がその多数を占めている」

[2]日本巫女史』p640

     達第二号       府 県

従来梓巫市子並憑祈禱狐下ケ杯ト相唱玉占口寄等ノ所業ヲ以テ人民ヲ眩惑セシメ候儀自今一切禁止候条於各地官此旨相心得取締厳重可相立候事

   明治六年一月一五日  教部省

[3] 第1回は1980年に明治神宮鎮座60年記念としてはじまった 神宮外苑花火大会 - Wikipedia 

[4]日本巫女史』p425に例が多数挙げられている。伊勢神宮と古市遊郭にはじまり、「奈良の木辻と春日社、摂津住吉社と乳守、広田社と神崎、下関の赤間社と稲荷町筑前の筥﨑宮と博多柳町、讃州金毘羅社と新町、日吉神社と大津の紫屋町、出雲の美保神社と同地の遊里、越後の弥彦神社と寺泊、敦賀気比神宮と六軒町、熱田神宮と宮ノ宿、静岡市浅間神社弥勒町、伊豆の三島神社と三島女郎衆、常陸の鹿島社と潮来遊郭、武蔵府中の国魂神社と同所の遊女町、信州の諏訪社と高嶋遊郭、陸前の塩竈神社と門前の遊郭などを重なるものとして、ほとんど枚挙に遑あらずという多数である。」

[5]日本巫女史』p422「人妻であっても、娼婦であっても、物忌だに済せば、再び元の処女として、神に仕える事を許されたのである。しかしてこの思想は、巫女と娼婦の境界線を撤廃するに、大きな力となって、社会的に動いていたのである。」また同書の一番はじめ(p18~35)には、様々な種類の巫女が一覧になっている。

台湾の障害者施設でボランティアするため語学留学をします・費用をクラウドファンディングで募ります

 昨年(2018年)12月から今年1月まで、台南郊外の知的障害者の施設でボランティアとして1カ月間滞在しました。以下、その日々の記録です。

台湾ボランティア記・第1週 - マイル日記

 その滞在の終わりに、元ハンセン病療養所であり今は知的障害のある子どもたちが住む場所になっている楽山院を訪れました。そして、そこでボランティアをしたいと申し出たところ、中国語がもっとうまくなったらしてもいいとお答えをいただきました。その訪問の記録は以下です。

台湾の元・ハンセン病療養所「楽山教養院」訪問記 - マイル日記

 私は日本および旧植民地におけるハンセン病の歴史にも、障害者のおかれている現状に関しても関心があり、ここの施設でボランティアができればすばらしいだろうと思います。そのために、台湾に語学留学をして中国語の力をつけ、より充実した滞在にしたいです。

 留学場所としては、風光明媚であり、日本の知人もいる花蓮を考えています。台湾東部の町です。そこの慈濟大學という仏教系の大学の中国語センターを希望しています(先日Skype面接を受け、合格と言われました)。慈濟は台湾でも大きな仏教組織で、花蓮に本部があり、ボランティア活動も盛んです。語学留学をしながら、慈濟のボランティアにも参加し、台湾社会を肌で感じ、中国語(や台湾語)も覚えたいです。

 留学期間は、今年9月から来年(2020年)2月まで(授業は9月2日から2月14日まで)と考えています。その費用に全体で55万円ほどかかります。これを、クラウドファンディングでご支援いただきたいと思っています。

 費用の内訳は

・授業料 6万3千元=22万500円

・宿舎 1万5千元=5万2500円

・飛行機(1往復) 3万円

台北花蓮の往復電車賃 880元=3080円

・食費(1日千円と換算 ×170日)17万円

・書籍代(教科書等含む) 3万円

・台湾でのその他交通費 2万円

花蓮の移動で使う自転車 5000円

スマホ通信費 7500円

・ビザ 1万500円(取るか未定)

全て足すと54万9080円です。

 

ハンセン病や障害に関心を持っているのは、ひとつにぼく自身に吃音という障害があることが理由だと思います。

吃音当事者として、吃音に関する活動をしてきました。NHKのバリバラという番組に出たり

奈良言友会という吃音当事者団体主催の「吃音シンポジウム」に出たり

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京都市東大阪市の小学校の「ことばの教室」という、吃音の子が通う通級教室で、吃音のある学生と子どもの交流会に出たり、会を企画したりしました。 

 他に、障害やマイノリティ性について語り学び合う会、ユニバーサル哲学カフェを友人と一緒に開催しています。

 台湾については、日本が植民地支配をしたという点で関心を持ってきました。友人と高1と高2の間の春休みに鉄道で台湾を一周してから、前回の滞在を含めると8回、台湾を訪れました。大学のプランで新竹の清華大学に2週間滞在したり、金門島という中国は廈門との国境にある、かつての国共内戦の激戦地を訪れたり、東アジア共同ワークショップという、日本の植民地支配を様々な地に赴いて考える会に参加するため、台湾南部の原住民の集落に滞在したり、

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花蓮から台東まで200kmを自転車で4日かけて走り、日本時代の史跡を尋ねたりしました。

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林田神社跡(2014年に再整備されたばかり)

 今回の留学および将来のボランティアにおいても、台湾の歴史の中で、弱い立場に置かれた人たちのことを学んでいきたいと思います。

クラウドファンディングのページは現在申請中です。ページができましたら、ご支援のほどよろしくお願いします。

台湾の元・ハンセン病療養所「楽山教養院」訪問記

 2018年12月から1月にかけて一カ月間、台湾は台南の郊外の知的障害者の施設でボランティアをしていた。ボランティアといっても、障害者の人たちと同じような生活をしていたのみであるが。その日々はnoteに記した。

 ボランティアの滞在が終わってから、東回りに北上し、台北に行った。そして、日本の植民地時代からハンセン病者の療養所であり、1971年からは障害のある児童が住む場所となっている「楽山教養院」を訪れることにした。

 楽山教養院を知ったのは、東京は清瀬と東村山の境にある「国立ハンセン病資料館」を訪れてのことだった。御殿場の私立神山復生病院(1889~)と国立駿河療養所(1944~)*1は行ったことがあったが、旧植民地にハンセン病療養所が作られたということは知らなかった。しかし冷静に考えれば、決しておかしいことではない。

 台湾には、旧台北州(戦後は台北県、2010年に新北市と改称)にふたつあった。ひとつは台湾総督府立の「楽生院」(1930年~)、もうひとつは宣教師であり医師であったカナダ人、グッシュテイラー(George Gushue-Taylor)が建設した私立「楽山院」(1934年~)である。

 楽生院は新北市桃園市の境の山際にありますが、2000年代になってから、MRT(地下鉄)建設のため、古い建物が取り壊されることになり、その反対運動が盛り上がって話題になった。運動の結果、取り壊されたのは一部分にとどまった。

 もうひとつ楽山院は、台北のかつての外港として有名な観光地・淡水の対岸の、八里という場所にある。こちらは、楽生院ほどは有名ではない。楽生院が現在も(元)ハンセン病患者の住まう場所であるのに対して、楽山院にいたハンセン病患者は楽生院に移動し、楽山院は1971年から、障害のある子どもたちの住まう場所になっている。

 「ひょっとしたらボランティアという形で滞在させてもらえるかもしれない」と、楽山院に関心を覚えた私は、台南にいたときからメールで訪問のアポを取っていた。そして、帰国する前日の1月11日の木曜日、あいにく時々ポツポツ雨が降るような天気だったが、訪れることができた。

 台北からはいくつかの行き方があるが、MRTで中和新蘆線の終点蘆洲駅に行き、バスに乗りかえ、八里の終着駅に着き、20分ほど歩くルートをとった。

 

  門に着くと守衛の人がいて、話を通してくれていたようで、数分すると女性の方が案内しに来てくれた。建設当時から使われていた赤煉瓦の建物が「戴仁壽醫師紀念館」という資料館になっていて(戴仁壽はグッシュテイラーのこと)、鍵を開けて入れてくれ、詳しく説明してくれた。

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療養所の土地を購入する証書 昭和六年とある

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左:gushue taylor 右はおそらく奥さん

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当時のカルテ もう亡くなっているので公開しても構わないとのことだった

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当時の医療器具も

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建物外観

 記念館を出て、院内の教会へ。Gushue-Taylorは医師であると同時に宣教師でもあった。宣教師たちはハンセン病者の救済に活躍し、日本でも多くの療養所を開設している。国立療養所が整備されはじめるのは1909年ごろからだが、御殿場の私立神山復生病院が1889年に開設されるのを皮切りに、1890年代に東京の目黒や熊本などに宣教師によるハンセン病療養所が開設されている。また、国立の療養所では、その目的を治療というよりは収容としたように思えるくらい、非人道的な生活を送らされたのに対し、これら私立の療養所では、自分たちで畑を耕し、余暇の時間もあり、キリスト教の精神に基づいた、比較的に人道的な生活が営まれたようである。当時発展途上国であった日本や台湾という異国におもむき、社会から最も差別されたハンセン病者と共に生きた宣教師たちを尊敬する。

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教会

上の写真が院内の教会であるが、特徴的な点がひとつある。それは、祭壇と一般信徒の立ち入る場所が、小さな壁で仕切られているところだ。感染を防ぐため、壁を作って行き来できないようにしたのだろう。

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低い壁がある

院内を散策させてもらった。数年前に新棟が完成するまで、戦前からの建物に障害児たちが住んでいたらしい。台湾や日本、西洋の実業家、銀行、政府関係、教会など数多くの機関・個人から寄付を受けたようで、その名前が部屋の上に刻まれている。

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辜顯榮氏の文字が見える 台湾総督府と結んだ台北の実業家で戦後は漢奸とも言われた その孫であるリチャード・クー氏は野村総研の主席研究員として活躍している

 

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トロントの聖アンドリュース教会の寄付

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ハンセン病者と障害児が住んだと思われる部屋が並ぶ 今は使われておらず 廊下もこの通り掃除されていない

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日本語の詩が壁に書かれていた いつの時代のものだろう 消えかかっている

上の写真の日本語の詩であるが、1980年から84年に堀田久子(崛田久子?)という宣教師が滞在していた('82年までは院長代理)と資料館に書かれており、その人の詩かとも思ったが、にしては新しすぎるようにも感じた。日本の詩人が立ち寄って書いたのだろうか。

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公園(今はあまり使われていないように見えた)

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小さな畑もあった

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少し行くと山

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ベトナムから働きに来た女性たちが住んでいるところ 台湾では東南アジアの女性たちを介護労働者として大勢受けいれている

その後、数年前にできた新しいビルにお邪魔して、院長の方などとお話しすることができた。楽山院についての漫画や本もいただいた。

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楽山院でいただいた漫画と絵本 George Gushue-Taylor(戴仁壽)医師について

台南の障害者施設でボランティアをしたことを伝え、ダメ元で「ここにも滞在してボランティアのような形で関わりたい」と言うと、「うーん、前例がないけど…住む場所がなぁ…でも部屋に空きが出ることもある。部屋が空いていて、そしてあなたの中国語がもっとうまくなったら、来ていいよ」と言われた。

中国語ができるようになるために、語学留学をすることにします。その費用をクラウドファンディングで集める予定です。ご協力いただけますと幸いです。

*1:現存する日本最古のハンセン病療養所。院内に博物館があるので事前連絡の上ぜひ行ってみてください

台湾ボランティア記・第4週

22~23日目 12月24日(月)〜25日(火)
 24日は朝はひとついいことがあったが、基本的にだるかった。その前の日、夜中の0時半までにアニメの「ハイスクール・フリート」(女子高生が軍艦でドンパチやるやつ)を見たせいだろうか。本を読もうとしても入ってこない。
 午後は住友化学ゆるキャラと思しき「sumikaちゃん」が来て、プレゼントを障害者の人たちに渡していた。sumikaちゃんはググっても出てこなかったからよくわからない。住友化学がお金をくれているのだろう。しかしアホみたいだからスマホをさわっていた。
 だるいから早めに帰って、今日はもうダメだなと観念して、そのアニメを最後まで見た。海軍の号令はカッコいいなあ。数字をひと、ふたと呼んだりとか、取り舵いっぱいとか。
 夜はクリスマスイブということでカトリック教会でごはん会があった。施設の人に誘われて行ったが、ずいぶんと高齢化していた。となりの長老派教会はいろんな世代がいたのだが。少し拝んで帰った。前日に果たせなかった約束である将棋を、同居人のドイツ人と指した。ヨーロッパ大会にドイツ代表として出たというからどんなもんかと思ったが、弱かった。だるいので日誌も書かずに寝た。
 そして翌日の今日は、ゆっくり起きてシャワーをあびた。時間を気にせずシャワーを浴びられるのはすばらしいが、贅沢をいえば湯船に浸かりたいものだ。ボスが昼ご飯に連れて行けるかもと昨夜言っていたから、ずっとたまっていたメールを出すなどの仕事をする。お昼に連絡があり、食べに行こうということである。車で迎えに来てくれる。近くの店だろうと思っていたら、麻豆という30kmくらい離れたところまで連れて行かれた。ボスは女性だが、制限速度90kmの道を時速140kmくらいで、しかも施設の名前がどーんと入った車でぶっ飛ばしていて、豪快である。今まで乗った車で一番速かった。新快速ですら時速130kmなのだからすごいと思った。
 麻豆について名物のものを食べた。やわらかいお餅がご飯の器いっぱいに入っているもの。特別うまいというわけでもないのと、炭水化物が少ししか食べられない体なので、残してしまう。他はきれいに食べたのだが。それですぐ帰る。台湾人は○○は食べたかということをめっちゃ聞いてくるし、食べ物へのこだわりがすごい。食べるの好きなことを中国語で吃貨というらしい。帰りに旧糖廠のアイスを買って食べようということで入ったが、休みだった。旧糖廠は台湾の至る所にあり、どこもかしこも文化センターになっている。どれも日本時代に明治製糖などが作っているから、日本時代をしのぶよすがともなっている。ここ麻豆の糖廠跡も、当時の宿舎などがきれいに残っている。和服を着た台湾人の子どもたちが写真撮影をしていて、ここは日本なりやと一瞬まがいそうになる。あいにく休館日で建物の中には入れなかったが、外から見物できてよかった。少し寄り道しながら帰る。近くの店だと思って水を持たずに出たので、喉が渇いて困った。
 帰ってからも、ずっと出そうと思っていたメールやwechatやらを送る。テレビでこち亀ドラえもんを見た後、2度ほど行った店で夕食にしようと出るが、その店は閉まっており、しばらくうろついて、他の店に入る。いささか汚そうで賑わっている店にした。あらかじめ、「飯 湯 菜」とノートに書いておいて見せた。それぞれご飯、スープ、野菜の意味である。「リップンナ」と店の人たちが言っているが、これは台湾語で日本人の意味である。台湾語わからないけど、これとドゥオシャー(ありがとう)だけはわかる。ちなみに「日本人」は北京語では「リーベンレン」なので全然違う。台湾語と北京語はドイツ語と英語よりも離れているらしい。さて、何の飯や、何のスープや、何の野菜やと聞かれ、これがあるで、あれがあるで、ということで、炒飯と魚のスープと青い野菜を注文する。持ち帰るか中で食べるか迷うが、中で食べる。隣りに座っていたおっちゃんに店の人が、リップンナと、つまり日本人だと言い、隣のおっちゃんは簡単な日本語で話しかけてくれた。店の人とも、どのくらいいるのかとか、日本のどこからかとか話す。炒飯が食べきれなかったので持ち帰る。全部で150元(500円くらい)であった。やはりそんなに安いわけでもない。
 その隣のセブンイレブンに、台湾版アマゾンの博客來で注文した本が届いたとメールがあったので取りに行く。店の同い年くらいの女性に話しかけると、英語で答えてくれた。台湾コンビニは荷物が受け取れたりsimが買えたりですごい。買ったのは、『伊沢修二と台湾』という出たばかりの本である。ふつうに買うと1200元(4000円くらい)とおそろしく高いが、博客來で22%オフになっていた。台湾大学の出版センターが出しているが、中身はすべて日本語である。伊沢修二は日本領台湾の近代教育の先駆けとなった人であり、また近代日本の吃音治療の先駆けの人である。吃音と台湾というぼくの関心事はふつうつながりそうにないが、伊沢修二においてつながるのである。というわけで22%オフでも高いけれど、日本で手に入らなさそうだし、買ったのだ。
 夜もメールを出したり、今後の予定を確認したりした。こういう日も必要である。これから『伊沢修二と台湾』を読もうと思う。

24~25日目 12月26日(水)~27日(木)
 明日結婚のセレモニーをするとかで、紅白の湯圓(台湾式ぜんざい)の準備をする。ぼくはひたすら紅白の餅をまるくした。
 夜市で揚げ物を食べたせいでビールが飲みたくなり、同居人の障害者の人を前に「我想喝啤酒!(ビールが飲みたい!)」と子どもみたいに飛び跳ねながら言っていたら、おじいさんに買いに行けと言われて、ドイツ人の分も買った。同居人の障害者の人は実年齢40くらいだけど精神年齢が12歳くらいに見える。施設の障害者の人たちの多くがそんな感じである。彼らを前にすると気兼ねなく子どもに戻れて楽なのだ。
 ビールを飲みながらドイツ人と将棋を指して、相変わらずボロ勝ちしてしまった。次やるときは飛車落ちか二枚落ちにしよう。ビールのせいで日記が書けなかった。
 AKB48から派生した上海のアイドルグループSNH48youtubeで見て、中国語の勉強に歌を覚えようかなと思った。SNH48は日本の本部に反乱を起こして独立しているらしい。だからか、中国のはやりの歌(小蘋果)を歌っていたり、愛国的な歌(歌唱祖国)を歌っていておもしろい。台北TPE48も日本の本部とごたごたがあったとかで、AKB48 Team Tp として再出発したらしい。なんか権利関係たいへんだな。チームタイペイの新しいPVが昨日出たとかで見た。阿里山で踊っていた。日本人のアイドルが中国語で歌っているのはおもろい。時代が変わったな〜と思う。
 今日は朝8時に施設に行く。元職員が結婚するらしく、みなで写真を撮ったりした。終わってから、リョウタツがドイツ人とふたりで写真を撮っていて、「あ〜、やっぱりイケメンの白人が好きなんやな…」としょんぼりしていたら、「ともひろ!一緒に写真を撮ってくれる?」と聞いてくれ、リョウタツはなんと優しい女なのだろうかと、感銘を受けたのであった。楊くんに「彼女いる?」と聞かれ、いないと答えると、「ぼくもいないんだよ、23年間ずっといない」ということであった。しかし楊くんはとてもいい男である。
 そういえばリョウタツについては先日、「どこかに一緒に遊びに行く時間はありますか?」と聞いたところ、4連休は台南にいないから、一緒に出かけるのは都合があわないけど、どこかで晩ご飯を一緒に食べましょうと返事をもらった。楽しみだ。
(公開設定を変えたので【裏】じゃないです 無印と裏とふたつ書くのめんどくなった)

26日目 12月28日(金) 孤独なりフライデーナイト〜発達障害っぽい行動記〜
 少し風邪ぎみで起きる。台湾の家は防寒対策がされていないから、早朝、外の空気が冷えるとそのまま部屋の中まで寒くなる。午前はひとりで布を切る作業をする。午後は「人在囧途-Lost on Journey-」なる人情ものコメディをみなで見る。大陸のものである。台湾人は大陸の作品もふつうに見るのだろうか。言語が(ほぼ)同じだから見るんじゃないかな、ぼくだったら見るなと思う。にしても囧なんてはじめて見たと思い調べると、大陸で使われる顔文字らしい。映画はとてもおもしろかった。
 障害者の人たちが帰ってから、彼らが手洗いや歯磨きを毎日したというチェックシートを、何日分もまとめて書く作業をする。一日につき何項目もあるが、出席の日はすべてに✓を、欠席の日はすべてに△を入れるので、ようは出席か欠席かだけでいいはずである。市役所にでも出すのだろうか。なんにせよ、おそろしく意味のない仕事である。
 金曜は同居人の障害者の人たちもおじいさんも実家に帰る。帰っても寂しいから施設に残っていたが、点検があるから早く帰るように言われる。帰ったがドイツ人はどこかに行っているのかいない。テレビを付けてこち亀を見たがあまりおもしろくない。暇だし腹が減ったからから夕食を食べに出かける。施設の中を通ると、受付の人に明日から4連休だからセキュリティのために施設に入る鍵を返すように言われ、なんじゃそりゃと思いつつしぶしぶ返す。途中、楊くんに遠くから話しかけられたが、楊くん誰かと何かしていたし、返事できずに通り過ぎる。門を出てなじみの店の前まで行ったがなぜか気が進まないので引き返す。思うに、さっき楊くんに話しかけられたのに、返事しなかったのが気にかかっている。確かに少し遠かったが、それなら歩いて楊くんのところへ行けばよかったわけで、つまらないことをしたと思った。施設の裏門はさっきまで持っていた鍵で自由に出入りできるが、表門はインターフォンで名前を言わないと入れない。名前を言って入り、何しに来たのか聞かれたので忘れ物を取りに来たと言う。さきに、楊くんを無視してしまったのが気にかかっていると述べたが、この時点ではそれはしっかりと自覚できていない。綾屋紗月さんが『発達障害当事者研究』で書いていた「意味のまとめあげがゆっくり」が自分にはとても当てはまると思うのだが、何をしたいのかがわかるのに時間がかかり、それまで思考と行動が停止することがある。ちょうどその状態だった。だから、せっかく施設に入ったのに、楊くんを尋ねることができず、ない忘れ物を取りに行き、施設を出てまた店の前に行き、やっぱ違うなと思いまた施設の前に戻ってきた。それでやっと、楊くんを夕ご飯に誘おうかと、現実的な行動を思いついた。しかし施設に入るにはまたインターフォンを押さないといけない。それは不審な感じがする。LINEをしようかと思ったが、対面で言う方がいいと思い、施設と外をわかつ壁が低くなっているところがあるので、そこをのぼって入った。その少し前にパトカーがそばを通っていったので、危なかった。ぶじ施設に入ったものの、受付を通らずに楊くんに会うための道がすでに閉じられていた。いったん落ちつくために家に帰る。家の玄関までたどり着いて、楊くんにLINEをした。しばらくこち亀を見ながら待っていると、OKの返事があり、一緒に食べに行った。実家暮らしだから家でご飯があるなら一緒に食べなくていいよと言ったが、ふだんから外で食べているらしい(台湾では普通)。「今夜はひとりでご飯を食べたくなかったんだよ。だからありがとう」みたいなことを言った。草履の鼻緒が切れたのだが(昨日切れて応急処置したがまた切れた)、直すのを手伝ってくれた。これがうまいよ、とか言って注文もしてくれる。
 ふだんぼくは実家暮らしだから、ひとりでご飯を食べることがあまりない。でもたまに旅をして、ひとりでご飯を食べるのが続くと、親しい人がご飯を作ってくれたり、あるいは誰かと一緒に食べるというのはすばらしいことだなと実感する。
 日本語パートナーズという台湾で日本語教師の助手をする仕事に応募しようと思って、推薦状がいるので施設のボスに書いてくれるよう頼んだが、ボス曰く5ヶ月以上働いた人でないと書けないと理事会の人たちが言っているからダメだということである。なんじゃそりゃと思うが、やむなしである。ボスは「日本はいいところだけど堅苦しいね」と言っていたが、この施設も堅苦しく見える。もちろん様々な事情があることは想像できるのだが。

27~28日目 12月29日(土)〜30(日)
 この日から四連休である。施設は休みで、同居人の障害者の人たちとおじいさんは実家に帰っている。のんびりシャワーを浴びて、出さないといけないメールを出し、今後の予定を考える。今夜は斗六という雲林県(台湾中南部)の町で台湾人の友人Tくんと観劇の予定である。三時前に玉井を出るバスに乗り、約一時間かけて善化に行き、そこから鉄道である。鉄道は距離80kmほどなのに急行で一時間半もかかった。台湾の鉄道は本数が少ない上に遅い。沿線人口や経済規模からしてポテンシャルがあるだけに惜しい。
 斗六駅でTくんと一年四ヶ月ぶりの再会である。彼はアメリカに留学していて、冬休みで帰っているのだ。Airbnbの宿に荷物を置いて、少し夕ご飯を食べてから、劇のシアターに行く。彼は劇のチケットをまだ買っていないという。ギリギリに着く。チケットは日本でやるように現地でメールを見せたらいいのかと思ったが、セブンイレブンで発券しないといけないらしい。発券しようとしたが、ネットで買うときに入力を間違えたのか、それともすでに劇がはじまっているためか、発券できない。シアターに戻る。ボランティアらしきおじいさんおばあさんにメールを見せると、入れ入れと言ってくれて、チケットを買っていないTくんまで入ることができた。劇を見る。台湾語の音楽劇で、日本統治時代の警察が公學校(台湾人用の小学校)の女教師と恋に落ちる話である。結婚するが(日本人と台湾人はある時期まで正式な結婚はできなかったはずだから事実婚か?)、日本の敗戦で夫は帰国せざるをえなくなり、妻が夫を追って密入国してThe Endである。台湾語はさっぱりわからないが、隣でTくんが解説してくれた。この劇のことは台湾の新聞記事をFBの台湾人の友人がシェアしたことで知ったのだった。新聞記事で催しを知って何かに行くというのははじめてだ。日本の新聞記事が紹介している催しは行きたいと思うものが全然ない。さて、この劇は大きなホールにお客さんいっぱいだった。音楽劇であるが、曲がたいへんよかった。
 翌日、つまり今日だが、知人も出るという台北の芝居を見ようかと思ったが、台北は寒いし(この二日ほど急に寒くなった)遠いし雨降りそうだし、Tくんが台南に行くというから、それに同行するために、台北行きはやめる。行啓記念館なるものが斗六の街中にあるので行く。昭和天皇が皇太子時代に訪れたのかと思って行ったが、裕仁皇太子殿下の汽車が斗六駅に一分間停まっただけで、別に斗六の町を歩いたわけではないようである。台湾は同様に、特に皇太子が歩いたわけでもないのに、台湾に来たというだけで建てた記念館がそこらじゅうにあったらしい。盛り上がりが推察される。
 その近くに日本時代の警察の宿舎が保存されていた。これも台湾のいたるところにある。日本領台湾の警察は本土の警察とは違い、地域のなんでも屋さんだったらしい。つまり治安維持以外にも、行政官のような役割も担っていたのだと思う(あんまり正確に覚えていないので調べてください)。
 Tくんと一緒に特急に乗って台南へ向かうが、ぼくは手前で降りて普通に乗りかえ、さらにバスに乗って台南郊外の国立歴史博物館へ向かう。3年ぶりである。14時に入るとちょうどアニメーション映画がやっているということで見る。台中郊外に生まれ、今はアメリカに住む女性が、身ごもって里帰りし、小学生時代のことを思い出すという話しで、現代的な内容だった。アニメーションはアメリカ風であり、中身でもアメリカが、少女時代から現在にいたるまでずっと出てきた。台湾は日本に日本統治下はもちろん戦後も大きく影響を受けている。が、同時に台湾が大きな影響を受けている国として、アメリカがある。アメリカに留学する人の割合は、日本よりもずっと多いと思う(データ調べる元気がない)。
 映画を見終わると16時で、特別展に行く。台湾での学校がテーマで、日本時代から戦後国民党の戒厳令下の学校が詳しく述べられている。日本時代の資料がたくさんあっておもしろい。そうしていると17時の閉館時間になってしまった。入るときに常設展用の100元(360円ほど)の日本語音声ガイドを買ったのだが、全くの無駄になってしまった。
 台南駅のあたりでTくんと彼の友達と一緒にご飯を食べることになっており、バスに乗る。台南駅まで50分ほどである。すると、日本人の知人のAさんから連絡があり、台南に着いたということである。Aさんとは一ヵ月くらい前までは台南に行くから会おうと連絡を取っていたが、その後こちらが連絡しても反応がないので、来ないのかと思っていたが、来られたので一緒にご飯を食べることにする。駅前でみなで待ち合わせる。Aさんは暖かいと言っていたが、ここ二日ほど台南も寒い。Tくんは寒いアメリカから来たから大丈夫らしいが、ぼくは体が冷えてきたので、鍋を食べたいと言って、我が希望より鍋になった。成功大学近くの店で食べる。四連休でみな実家に帰っているのか、学生街はむしろすいているようであった。鍋を食べて暖まり、少し古本屋に寄って、Aさんとバス停で別れ、70分かけて玉井に帰った。Tくんを暫定我が家に泊める。

29日目 12月31日(月)
 Tくんと一緒に玉井の我が家を出る。タパニー事件の記念館を見て、バスに乗り台南へ。台南第一高中でAさんと待ち合わせて、日本時代の台南知事の公邸、古本屋などに行く。途中、テレサ・テンと校園民歌のCDが売っていたので買う。どちらも玉井の夜市に売っていたもので、玉井ではそれぞれ300元だったが、ここでは200元だった。校園民歌とは1970年代、80年代に学生たちが歌ったフォークソングで、中国語で歌われている。
 その後、市の自転車を借りて古い台南の中心部へ行く。BRUTUSで有名になった國華街などである。
 今夜は玉井に帰ろうと思っていたが、Tくんが年越しを台南の友達と一緒にしないかということで、迷ったが行くことにする。Tくんは友達と夕食なので、ぼくは古本屋で高校の歴史の教科書を買い、モスバーガーで時間をつぶすことにする。台南は教科書専門の古本屋があったりして、書き込みの入った教科書を安く買うことができる。モスバーガーで豚汁を頼んでそれを読んでいると、その友人の人たちはやっぱり気心が知れた人たちと過ごしたいようで、やっぱり玉井に帰ることになった。
 玉井に帰ったが小腹が空いたので、コンビニで何か買って食べようかと思うも、前まで行ってやっぱ違うなと思い、引き返してスープがうまそうな店に入った。注文しようとすると日本語が達者な女性が来て、メニューを解説してくれた。食べていると、台北パナソニックで働いていたという、これまた日本語の達者なおじさんが来て、色々と話した。パナソニックと聞いて、ぼくは大阪出身なんですと言うと、三国の工場に研修に行ったとか教えてくれた。玉井のような人口1万4千人の田舎でも、日本語がよくできる人がたくさんいるようである。台湾おそるべし。夜は年越しのためかなかなか寝付けなかった。

第4週終わりです お疲れさまでした 次のページから2019年(民国108年)です

台湾ボランティア記 第3週

第15日目 12月18日(火)
 昨晩早く寝て、5時ごろに目が覚め、短歌を二首ほど作り、スマホこち亀の中文版を一話見て、また寝た。起きるといささか風邪っぽく、鼻水がやたらと出る。しかし気分はそんなに悪くない。昨日シャワーを浴びなくて、今朝浴びたかったが、時間がないのであきらめる。
 今日は果物農家の直営店に、施設に子どもを預けている親たちと一緒に行くことになっている。車で20分くらいのところにある。昨日まで練習していた劇とダンスの本番である。ふつうに楽しく終わった。ぼくとドイツ人は、つまりボランティアふたりは、花束と感謝状をもらった。風邪もひとまず治ったようである。
 夕方、封筒と便箋を買いに文具店に行った帰り道で、施設を辞めると言っていた同い年くらいの男性の職員と、ばったり出くわした。ちょうど辞めたところだという。台南でプロブレムがあって、他の場所で新しい人生をはじめるんだと言っていた。連絡先を交換できてよかった。
 この施設には一ヵ月お世話になりたいと伝えていたが、これはぼくとしてはだいたい一ヵ月という意味であった。やはり着いてからでないと、どのくらいいたいかわからない。先日、1月に新たに障害者の人をいまぼくの住む場所に住まわせるから、終わりの日程を教えてと聞かれ、長くて12日までいていいですか?と伝えたのだが、新しく住まわせる準備をしないといけないからと、ちょうど一ヵ月で帰ることになってしまった。つまり5日までである。ほんとは12日までいたかった。
 台湾は他に、いまの新北市にある日本時代のハンセン病療養所が、障害がある子どもの施設になっていて、そこもボランティアを募集しているので、来年あたり滞在しようと思っている。玉井のこの施設もいいところだったから、遊びに来たいものだ。なんにせよ、人を住まわせるというのはたいへんなことだ。この一ヵ月だけでも部屋をあけてくれたことはありがたい。

【裏】 第15日目 12月18日(火)
 ツイッターの裏垢や学校の裏サイトなど、ネットには裏の世界があるものだが、わたしも裏日記をFBで書くことになるとは思わなかった。それもこれも、母親が我がFBを見ているからである。生存確認のためにFBを見れる設定にせよと言われており、それでも見せたくないものは非公開にしているが、毎日日記を書いているわけでいきなり第15日目だけ飛ぶのは不自然である。であるから、このような措置を取るのやむなきに至ったのである。以下は我が母と、施設の人(彼らは日本語は読めないが翻訳機能を使われると困るので)に非公開で書く。
 台東旅行で施設の同い年くらいの女性職員が話しかけてくれて、ふつうに一瞬で好きになったと書いた。その人とは部署が違ってふだん話す機会がないのだが、今日は果物農家に出かけるということで久しぶりに会うことができた。それで、やっぱこの人かわええな〜と思ったのだった。
 なので明日は仕事終わってからもなんとなく職場に残って、話すきっかけを探すぞ!
 この施設を離れるまであと2週間と少ししかない。職場体験をするには1ヶ月は充分だが、女性と仲良くなることを望む可能性を考えていなかった(当然か)。時間あるときどこかいいところ連れて行ってくださいとか頼むかな。
 これまでは慣れるのに精一杯で、女性のこと考えるひまがなかったが、やはり心惹かれる女性がいるということは、いま生きる上での最重要事項といって差し支えない。
 非モテ研の仲間に相談したところ、的確なアドバイスをいただいた。頼りになる仲間がいてすばらしい。
 恋路は秘すべきものだが、このFBに書いてもいまお世話になっている台湾の人たちにバレる心配はないから、例外的に書くことにする。

第16日目 12月19日(水)
 朝昼といつも通り。夕方にとつぜん、クリスマスの出し物で使うからとダンボールで琵琶を作るように言われる。台湾でも人気な沖縄の音楽、「涙そうそう」を流すらしい。その製作に時間がかかる。
 夜市に行った。キリスト教の人たちがメリークリスマスと言って町を歩いていた。
 夜市に行くために鍵をしめるとき、おじいさんが「window offにして」と言っていた。これを翻訳すると、「窓を閉めて」の意味である。中国語では電気を開ける、または閉める(開、關)というのだが、そのため窓の開け閉めにもon offを使ったものと思われる。これと同じ間違いを、台湾人のお母さんがすると溫又柔(『台湾生まれ 日本語育ち』など)が書いていた。「電気を開けてね」とか言うらしい。
 昨日の夜、台湾に語学留学していたという日本人のブログを見つけて読んだ。そういうものは本当にたくさんあるが、台湾に残りたいと望んでも、ほとんどの人が仕事が見つからないということで帰国している。昨夜読んだ人は中国語はかなりのレベルに達したみたいだったが、それでも帰国してしまっている。外国で働くというのはなかなか難しいことだ。しかしぼくがいましているような形で、団体や何やらのお世話になることなら、そう難しくはないと思われる。第一歩目にはいいのではないかと思う。

【裏】 第16日目 12月19日(水)
 裏こそメインの台湾日誌である。恋愛という最重要事項について記す。
昨日書いた、心惹かれる人の名前を日本語読みすると、リョウタツである。ひとりで考えるときはリョウタツと呼んでいる。これなら皆がいるときに独りごとでも言えて便利である。
 朝から今日はリョウタツに会って話そうと思っていたのだが、いつもの仕事が終わってから、クリスマスの出し物のためにダンボールで琵琶を作るよう言いつけられてしまい、それをやっていると遅い時間になり、少し施設内を探したが、リョウタツはすでに帰ってしまったのか、それとも今日は休みの日だったか、どこにもいなかった。今日はリョウタツに会うのを楽しみに生きていたようなものだったのに!明日こそは話せたらいいのだが…もっとも、話したところでどうなるかなどわからないのだが…悩ましいことだ…
ところで今晩、テレビでクレヨンしんちゃんの中文版を皆で見たが、高校生のしんのすけがボクシングを闘って同級生のななこ(普段は大学生だがこの時は同い年の設定)に認めてもらう話しだった。ぼくはこういうの実は好きだ。それでどれだけお金を稼ぐかにかかわらず、いい仕事や活動をしたい。いい仕事をしていたら人間関係は後からついてくる。ここ数年がそうだった。前までは全然友達いなかったのだが(高校のころの友達を除いたら1人とかだった)、特に友達を作ろうと思ったわけではなく、興味のあることをしていたら、気がついたらたくさん友達ができていた。恋人がいないとかで悩んでいないのも、これだけ友達いたらそのうち恋人的な人もできるだろうと思ってのことだ。逆に友達いないときは、恋人という一対一の関係を強く求めて、得られず苦しんでいた。友達の定義は難しいが、自分にとって大切なことを話せる相手のことかな。
 さて、まったくアホらしい、というかこれを言うと読んだ人から「恋愛相手に属性を求めるな」と怒られそうで怖いのだが、台湾人の女性と結婚できたら楽しそうだと思っている。理由は、ひとつには台湾社会を知るのに、最も効果的な方法だと思うからだ。それに、もし子どもができたら、その子は日本・台湾の両方の文化を受け継ぐわけで、そして生まれながらのマイノリティなわけで、色々悩んでくれそうだ。我が子には、日本・台湾・中国の教養をしっかり仕込みたいと思ってしまうのだが、まさに抑圧的な親だな。子育てって自分との向き合いでもありたいへんそうだ。知らんけど。(まだ先…というか実現するかどうかも不明なことだから無責任)

第17日目 12月20日(木)
 今朝はまた遅刻してしまった。ほんとはみなが集まる8時に着きたかったのに、仕事開始の8時半に着いた。スタッフの人には8時半でいいと言われているのだが…いつも寝るのが遅いのがよくない。しかし台湾日誌を書くのに時間がかかるからな。そして朝は気功の湯あてをするのに時間を取られる。
 今日は気温も高くて気分がよかった。朝の体操の後は、布を切った。昼の休憩時間に庭で本を読んでいると、小楊(楊くん)というかわいい男がやってきて、仕事疲れた〜とか言って少し話した。楊くんめっちゃフレンドリーな人で、みんなからかわいがられている。楊くんが「智大はこうやって外国でボランティアとかできてうらやましい」と言うので、「君は仕事をしないといけないから他の場所に行ったりできない?」と聞くと、「お金ためないと」と言っていた。ぼくは祖父母やパトロンの金を使っているのですまないような気持ちになる。楊くん、廈門に友達がいると言っていた。台湾と廈門はやっぱり交流が盛んなのだろうか。
 さて、17日間もいると中のことがなんとなく見えてくるわけであるが、楽しそうに働いている人と、つらそうに働いている人と、その間の人がいる。障害者の人たちはもっぱら楽しそうにしている。みなが楽しく暮らせたらいいのだが、この地球には色々なことがあるから、そういうわけにもいかない。(『この世界の片隅に』でもすずさんが「みなが笑って暮らせりゃええのにね」と言っていた)
 少し不思議なのは、障害者施設なのに、事務員が多すぎるのではと思えることだ。実際に障害者と関わったり、裁縫や手芸や料理の仕事を障害者と一緒にしている人と、事務員とが、同じくらいの数いるようである。ぼくは障害者の人たちといつも一緒にいるが、スタッフが足りていないように感じる。事務みたいな作業は効率化してできるだけ小さくできたらいいのにと思う。ITの発展に期待をかけよう。
 午後はまた気功をやらせてもらった。その後、ボール遊びをしたのだが、障害があるたぶん同い年くらいの女性と、いいやり取りができた。ぼくは執事みたいに、その子に合わせて球を投げ、あらぬ方向へ行った球を取って…とした。楽しかった。
 昨日言いつけられたダンボールの琵琶も完成させた。琵琶はふたつ作るように言われたけど、ひとつで力つきた。
 その後、キリストの幕屋という日本の新宗教台北支部にあてた手紙を書く。幕屋が台湾に進出していて、訪れてみるつもりである。幕屋はネットではヤバい噂しか見ないが、ぼくがそのクリスチャン性を最も尊敬している友人が幕屋の一員だから、信頼しているのだ。しかし、前に大阪の幕屋の集会に行ってみたが、大声をあげて「天のお父さま!」とか叫ぶとともに、ぼくにもそれを求めるのには閉口した。
 台湾の仏教を調べてみたが、’60年代後半〜’00年代前半にできた新しい組織4つで、人口の半分をしめると中国語のwikiに書いてある。半分とはあまりに多すぎではないだろうか。wikiなのでいまいち信用できない。でも台湾仏教が元気なのはきっと本当だろう。ひとまず、帰りにそのひとつ、花蓮の本山には寄ってみようと思う。関西にもそれぞれ支部があるようなので、行ってみよう。

【裏】 第17日目 12月20日(木)
 恒例の裏日誌である。裏というと暗い感じがするが、要は母ちゃんに見せないということであるから、【母ちゃん以外】とかしてもいいような気がするが、それはそれでなんとなく格好がつかない。
 リョウタツ(昨日読んでない人のために注釈:リョウタツは同い年くらいの女性)に会えるかなと今日も楽しみにしていた。リョウタツは子どもとかかわる部署だと言っていたから、昼にそれとなく、子どもたちがいるところをのぞいたりしたのだが、いなかった。
 明日、クリスマス会があって、ひとりふたつプレゼントを持ってくることになっている。ひとつはクジで決まった人に渡すのだが、もうひとつは自由に好きな人に渡すことができる。ぼくのプレゼントの手持ちは、日本から持ってきた京都銘菓の千寿せんべいと、台南の古書店で買ったが日本語の翻訳だからいらない、トトロと魔女の宅急便のイラスト付き解説である。クジではたまたま楊くんという親しくしている人に当たった。そして、自由に渡す相手はリョウタツにしたいと思うのだが、リョウタツは若くて美人でモテモテだろうから、ライバルが多そうでちょっと気が引ける。楊くんには千寿せんべいを渡して、リョウタツにはトトロと魔女の宅急便の本を渡すかなと考えていた。しかし、リョウタツジブリに特に興味がなかったら、興味がある人に渡した方がいいので、どうなのか聞きたいと思っていた。
 一日のプログラムが終わって時々、リョウタツいないかなと探していたのだが、やっと3階で明日のクリスマス会の準備を手伝っているのを見つける。親しくしてくれる30歳くらいのお兄さんもいたので、その人にHiと挨拶して(台湾人はHiとかHelloとかBye-byeと挨拶する)、自然な感じで作業に加わる。リョウタツにもHiと声をかけ、中国語の名前を呼ぶ。
 話しかけるタイミングをうかがっていたが、どうもなさそうだと、手紙を書いていた部屋にいったん戻ろうと階段を降りたところで、リョウタツも何かものを取りに来て、すれ違いざまに「智大は明日のクリスマス会に出る?」と聞いてくれた。ぼくは話しかけてもらってばっかりだな。それはさておき、そうだと答え、この機を逃すまいと、事前に用意していた紙を見せて(こういうのって外国語だし吃音的にもやむを得ないのだけれど、準備してるのがバレるのが難点だ)、「トトロや魔女の宅急便は好き?」と聞く。「そうね、うん、好きだけど…台湾人はみんな好きよ。わたしは…猫的○○(聞き取れない)が一番好きかな」と答えるので、少し考えて「猫の恩返し?」と日本語で聞くと、そうだということである。なかなかしぶい。なんにせよ、ジブリは台湾人にとって基礎教養らしく、リョウタツもおさえているようだったので、本はリョウタツに渡すことにする。
 「君も明日の会は出る?」と、会話を長くするためにわかりきったアホみたいな質問(しばしば逆効果になるあれだ)をし、いらんことを言ったと後悔したが、リョウタツは「明日はわたし司会するのよ。緊張するわ(笑)」とうまいことつないでくれたので、「この間、果物農家でも司会してたけど、よかったよ」と、褒める機会をいただいた。ありがたい。リョウタツは「それじゃ、これちょっと持って行くから」と言って去っていった。
 リョウタツの話し方が、昭和後期くらいに消滅した「女ことば」なのは、翻訳だから仕方がないと思ってください。そして、いちいち全部会話を全部覚えていることも気持ち悪いと思わないでください。ぼくは小学生のときに好きだった人とのやり取りや会話、いまでもいくつか覚えているからな…

19〜20日目 12月21日(金)〜22日(土)
 昨日(19日目)は夜はクリスマスパーティーで、帰ったら風邪っぽくてすぐ寝たので、日記が書けなかった。これまで毎日書いていたのに…。そして、一日たつとかなり忘れてしまっている。クリスマスパーティーでは楊くんという親しくしている同い年くらいの人がいいものをくれた。
 風邪のためか今朝はずっと寝ていて、起きたら8時半だった。8時半といえば本来着いていないといけない時間である。いまの家から施設までは徒歩2分だが。昨日シャワーも浴びていないが、それでもゆっくり朝ごはんを食べて、9時半に行ったが、特段怒られなかった。水木しげるは小学校を毎朝遅刻したが、必ずゆっくり朝ごはんを食べていたらしいことを思いだした。
裁縫の仕事をして、よく寝たから昼寝はせず庭で『風立ちぬ』の中文版の続きを読み、午後はみなで歌を歌った。歌はyoutubeをプロジェクターで映し、音はスピーカーを鳴らし、カラオケである。いくつかいい歌を知れたのでよかった。ぼくはなんとなく気が向いたので『ラバウル小唄』という軍歌を歌った。軍歌はヤバいかなと思ったが、みな「好聽好聽(いい曲だね)」と言ってくれたからよかった。これはFBに書くと怒られそうだな。
 夜は教会でクリスマス会があって、行きたいのだが体調がいまいちだからやめる。家で19歳のドイツ人の同居人と一緒に残り物を調理する。彼とは英語で話す。彼はこれを食べたら、台南のヨーロッパ人が集まるパブに行くという。一緒に食べながら色々と話しができてよかった。ドイツ政府は海外のボランティアにお金を出すらしく、彼ももらっているようだ。「ドイツは金持ちの国だなぁ」と言うと、「うん、こんな国は世界でもドイツだけだと思う。だからドイツ人はみな海外へ行く。台南で出会った欧米人たちも、8人がドイツ人で、他の国の人は2人か3人だけだ」とかいうことである。大学に行くのかと聞くと、行かないという。少しアルバイトをして、お金が尽きるまで南米を旅行するんだということである。「ドイツの本は一冊だけ読んだことがある。『帰ってきたヒトラー』は日本でもポピュラーで読んだよ」と言うと、微妙な反応であった。グリム童話とかもドイツだよと彼が言い、あーそれ知ってる、などと話す。ミヒャエル・エンデの『モモ』も挙げたが、あまり反応がなかった。そして驚いたことに、将棋を指すという。中国式ではなく日本式の将棋だ。なんと今回も将棋の駒を持ってきているらしい。ドイツで指しているのが300人くらいだから、ヨーロッパ大会に出たよと話していた。明日指すことになった。楽しみである。彼もなかなか変わった男である。
 客家のテレビでドラえもんの映画「のび太と翼の勇者たち」がやっていたので見たが、客家語であった。字幕がついているので内容は理解できる。CMで客家語運動30年ということがたびたび出てくる。客家語スピーカーは、抑圧されていた民主化以前よりも少ないだろう。台湾語ですら廃れていく中、客家語を残すというのはたいへんなことだ。しかし、テレビのキーの電波をひとつ持つくらいなのだから、たいしたものだ。

【裏】 19〜20日目 12月21日(金)〜22日(土)
 クリスマスパーティーでリョウタツにトトロと魔女の宅急便の本を渡そうと思ったが、プレゼント交換の仕組みを勘違いしており、自由に好きな人に渡すことはできなかった。しかし幸運にも、親しくしている同い年くらいの楊くんが交換相手のひとりだったので、彼にトトロと魔女の宅急便の本を渡した。我々は偶然、お互いがプレゼント交換の相手だと事前に知っていた。彼は、ドラえもんの筆箱をくれたが、これは小さい時から行っていたがもうつぶれてしまった文具店で、彼の誕生日に買ったものだという。とても思い入れのあるものをもらってしまった。大切に使うことにする。
 ちなみにもうひとつのプレゼント、千寿せんべいは、同じチーム(成人障害者の係)の人に渡すことになった。また、ある人から来年の手帳をもらった。
 リョウタツに渡せなかったのは残念だが、楊くんと交換できたのは幸運だった。楊くんは『耳を澄ませば』が一番好きらしい。リョウタツは『猫の恩返し』が一番好きである。日本に帰ったら、何かグッズを見つけて送ろうかな。
 今朝はリョウタツとすれ違ったが、出会い頭に「バイバイ」と微笑んで去って行った。どうやら今日は仕事はない日だったらしい。リョウタツにどこかに出かけようと誘いたいが、月曜日に機会を見つけよう。
 今日、誘ってみるつもりだったのに機会を失ったので、ずっと意気消沈していた。ひとりごとでリョウタツに会いたいな〜などと何度もつぶやく。
昼休みにジブリ風立ちぬ』の本を読んでいると、恋愛とはなんとはかないものか…と感じいった。二郎はもともと、菜穗子の侍女であったお絹に惹かれていたのだった。菜穗子にはじめて会ったときは子どもとしか思っていなかっただろう。しかし、お絹とは縁なく、菜穗子とは奇跡的に再会をしたのだった。二郎は菜穗子に、ひと目会ったときから好きでしたと言うのだが、そう思い込んでいるだけであって、事実ではないだろう。
 わたしも、恋をしうる女性はあまたいるはずであり、どの人と結ばれるかは全くの運であり、縁であろう。この人でないといけなかった、ということが本当にあるとは思えないが、運命によって選び取っていくまでである。
この人が好きだと思ったけど、会うことができなくて縁が切れていったという話しはいくらでも聞く。同い年くらいの友人たちなど、そんなことばかりしている。リョウタツが美しいと思っても、はかないものである。どうせ後2週間でここを離れるのであり、大阪に帰ったらいまの気持ちなんて忘れてしまいそうで怖い。気が移るだろうとわかっていながらも、しかしいま気をひかれる女性がいるのだったら、できることはするべきかとも思うし、下手に何かするのは無責任なことかもしれない、とも思う。
 そして、わたしは無力である。特に台湾社会においては無力の極みである。いまも施設の人の好意で生きている。熊谷晋一郎という小児マヒの医師で当事者研究をしている人が、「自立とは依存先を増やすこと」と言っていたが、こと台湾社会においては、わたしの依存できる先はごく少ししかない。日本だと障害者手帳があったり、実家があったり、ネイティブの日本語圏があったりで、仕事に就くのもそう難しくはないし、いざとなっても助けてもらえるが、台湾ではいまのわたしは就労ビザさえ手に入らないし、そもそも3ヶ月たつとビザなし滞在が切れるから出て行かないといけない。このような状態で、台湾人の女性を魅力的だと思ったところで、ほとんど遊びとしかいえない。遊びは遊びでいいと思うが、それより選びようがないのは悲しいことである。
 遊びの恋愛はそれはそれでいい。そこから学べることも多くある。しかし、いつかこの人と家庭を築きたいと思う人と出会う日が来ることと思うし、その日のために準備をしておきたい。やはり、もっと自立しなくてはいけない。熊谷さんの言葉を借りると、依存先を増やすことだ。帰国したらすぐ、障害年金の手続きを進めるつもりである。信頼できる社労士さんをやっと見つけることができた。いまは祖父母とパトロンのお金にしか経済的には頼っていないが、障害年金が手に入ればかなり大きな支えになる。さらには、お金を稼ぐという意味での仕事も、もっと心を入れてできるものを見つけたい。いままでのバイトは、わたしにとっては特に大切なものではなかった。そこからの学びは少なく、お金のためのみでしていたからか、やる気にならなかった。
 「自立とは依存先を増やすこと」と言うが、わたしは日本の国だけに頼るのも嫌なのだ。国がおかしくなって、国と共倒れなんてことは嫌だ。日本以外の選択肢を持ちたい。
 台湾には今後も関わりたいと思うのだ。日本にしか居場所がない状態を考えると、いくらか息がつまる思いがする。しかし、台湾の就労ビザは取るのが(わたしにとっては)おそろしく難しそうである。台湾人と結婚すると自動的に就労ビザがもらえるのだが、そのために結婚するなんてズルのような気もするし、制度なんだからうまく使えばいいじゃないかというような気もする。
 今日のこの文章はあまり考えられていない。普段ならもっと考えてから出すのだが、日記という毎日更新するものの性格上、あまり考えずに出すことにする。それにしても考えがまとまっていない感がある。今日書いたようなことは、台湾に対して真剣に思っている人が書くべきで、自分にその覚悟がありやという疑問もある。
 最後に、ドイツ人の同居人とリョウタツが英語でよく話しているので、今晩彼と一緒にご飯を食べながら、リョウタツのことは好き?(Do you like…)と聞いてみた。しかしリョウタツの中国語読みが通じず、「20代前半の女性で英語を話す…」と言うと、「あー、彼女はいい英語を話すね、この施設で…唯一の英語が話せる人だ(笑)」ということであった。ぼくはこのドイツ人とリョウタツがよく話していることにいささか嫉妬しているのだ。それで、彼がリョウタツをどう思っているか知りたかったのだが、それは聞けなかった。まあその方がよかったのかもしれない。
 そして、楊くんやドイツ人の同居人やら、よい出会いがありながら、美しい女性のことばかり考えているわたしは何なのか。これはしかし生命的反応であって、無理に抗う必要もなしだが、抗うのもまた人間の知性的生理だとも思う。
 追記:途中らへんやっぱ消したいな 明日になったら短くなってるかもです 今日は疲れて編集する元気もなし

12月23日(日) 二度目の台南旅行
 今日は10時から台南の街中の映画館で、国立台湾歴史博物館主催の上映会があるというので、見に行った。日本統治時代の映像を流す。FBの台南日台交流会に玉井に住みますと投稿したのだが、それで連絡をくれた許さんという日本語のよくできる人も観に行くということで、ギリギリになりそうだったので整理券をぼくの分も取ってもらい、見ることができた。内容はよくある記録映画に思えたが、わりと大きな映画館が満員になっていて、人々の関心の高さがうかがい知れた。
 その後、お昼を一緒に食べていたら、日本語のよくできる乞食の人がお金くださいと言ってきたので、15元(50円ほど)だけ差し上げた。乞食の人を見ると前は嫌悪感を覚えたものだが、大学を卒業してニートなどをしているとどうしても親近感がわく。そういえば人間立て看の人もゴザにお椀という乞食スタイルをされていた。最近は見かけたら気持ちだけお金を差し上げている。
 次に古本屋に行き、1990年代の小学校の国語の教科書を手に入れた。この時代までは「挿絵」という言葉が似つかわしい絵がところどころに入った、シンプルなデザインなのだが、2000年代に入ると「イラスト」と写真ばかりでごちゃごちゃしており、全然美しくない。中国語の勉強をするのに、国語の教科書を使いたいのだが、いまの時代のは手に入りやすいものの美しくないから買いたくない。苦労して古い教科書を探すことにする。今日一日目の書店で手に入ったのは幸運だった。
 施設の同い年くらいの親切な青年、楊くんが「集市」なるものに連れて行ってくれるというので、書店まで迎えに来てもらう。集市は路上販売のイベントみたいだった。特に興味がないので、ふーんと見て回る。彼はけっこう興味あるらしい。ひととおり見た後、どこか行きたいところある?と聞かれ、古本屋行っていい?と聞くとすんなりOKしてもらう。この一ヵ月くらい、台南は廟のお祭りらしく、特に今日は街中を仮装した人たちや竜や太鼓や爆竹やらがバンバンドカドカやりながらわーわー歩いていて、バイクの後ろに乗りながら非常におもしろく見た。
 古書店をふたつ行った後、楊くんおなじみのカトリックの教会へ行く。フランス人の神父さんと韓国人の修道士がいた。フランス人が中国語を話していてすごいと思った。夕食においしいおでんを食べた。
 帰りのバスで、暗くて本は読めないがフリーWi-Fiもあることだし、何か動画を見ようと思ってYouTubeを開いていると、「あなたへのオススメ」で「はいふりハイスクール・フリート)」なるアニメが出てきた。女子高生が先の大戦時の海軍の船に乗ってドンパチやる感じの話、つまりガルパンの海軍版らしいが、見るとこれがおもしろい。いいものに出会えてよかった。
帰ったら夜10時で、ドイツ人との将棋の約束は果たせなかった。謝って、明日指そうと言った。

第3週終わりです お疲れさまでした 次のページに続きます

台湾ボランティア記 第2週

台南郊外の知的障害者施設滞在の日記 続きです

第八天 12/11(火)
 昨夜遅くまで起きたため寝不足だった。朝、施設に行くと庭を掃除している人たちがいた。同じ家の他の住人たちが出るのを待って出たが、早く出て掃除をした方がいいかなと思った。工作をして、昼ご飯を食べて、昼寝する。昼寝ができて助かった。施設の職員が利用者の障害者に水を飲まそうとしているのを見る。ぼくに、水をちゃんと全部飲むか見ておいてと言うくらいだから、悪気がない。その職員は決して悪い人ではなく、ぼくにもよく気を遣ってくれる人だ。だからショックを受ける。絵を描いたりして終わる。
朝8時半から15時半までのプログラムだが、正直結構つまらない。朝の掃除や、売るための手芸・工作なんかはやる気が出るが、特に障害者には向いていないように思えるストレッチをしたり、視聴覚室みたいな大きな部屋を運動のためにひたすらぐるぐる歩き続けるのに至っては、もっとやり方があるだろう、と思う。体を使うことは確かに必要だと思うが、それなら楽しいことをすればいいじゃないかと思うのだ。せっかくブランコとかボールとか遊具があるのに、ずっと同じ場所を歩くのはどういうわけなのだろう。苦しいことをするのが訓練と思っているのだろうか。というわけで昨日提案した気功は、明日できることになった。昨日は20分でと言われたのに、今日は10分でと言われたが、まあいいかと思う。
 むかし小学校の先生が、「人間は苦しいこともせなあかんもんや、遊んだら、つらいけど勉強も頑張らな」みたいなことを言っていたが、そんなの嘘なのだ。つらいと思ってすることなんて、身にならない。楽しくする方法を考える方がよほど有意義だ。
 その後、施設の障害者3人と、世話をしてくれるおじいさんと、19歳のドイツ人とぼくとで住んでいる家に帰る。ここが、とても心地いい。障害者のうちのひとりが、親しく話しかけてくれる。ただ、彼は文字が書けなくて、ぼくは文字は読み書きできるが聞き取れないという、コミュニケーションにおいて一番相性が悪い状態で、自分の中国語の勉強不足を嘆く。障害者を相手にする仕事をしていた友人が、「障害者の声って聞き取りにくいから、その施設の人が話す言語に精通しているのは大事なんですよ」と言っていたが、その通りだ。彼はそれでも話しかけてくれる。音を聞いてネットで検索をかけ、画像を見せて確かめるという方法でコミュニケーションをする。おじいさんは我々を孫を見るような目で見てくれる。彼らと一緒にテレビを見るのが大事な時間になっている。今日はアニメのこち亀ドラえもん、「フズリナの記憶」なる日本人も出てくるドラマを見た。仲間とひとつのものを見るのはいいものだ。それに映像作品は中国語の勉強にいい。日本に帰ったら、もっと映像中心に中国語を勉強しようかと思う。

第9日 12/12(水)
 曇っていたため寝覚めは悪かった。しかし早めに行って朝に庭を掃いている人にまざって掃除しようとしたが、あまり歓迎されない様子だった。まあ人の仕事を奪うことになるからな。明日からはいつも通りの時間に行くことにする。
 プログラムはやはり退屈だが、少し気功をやらせてもらうことができた。昨日書いた、水をやたらと飲ませる先生も、気持ちいいと言ってくれた。もうすぐクリスマスということで、その出し物の劇の練習をする。水を飲ませる先生はキーボードだが、叩きつけるようにJoy to the World(諸人こぞりて)を弾くので、聞くのが苦痛である。この先生はやっぱり体の感覚が鈍すぎる。小学校の女の先生にこういうタイプの人が多い。小学校の先生、よく「なよなよするな」って言うけど、人間はなよなよしてなんぼだ。叩きつけずに、やわらかく弾いてほしい。
 終わってから、親しく話しかけてくれた同い年くらいの男の先生が、今週いっぱいで辞めるから、何か施設について思うことがあったら遠慮なく聞いてほしいと言われる。言語や文化の違いがあるのでずいぶん困りながら、「体の感覚をもっと尊重できないか」などと言ってみる。しかし、「体の感覚といっても、彼らがお菓子を食べたいと言ってほしいままに与えるのは違うでしょう」と答えられる。まさにその通りである。中国語や英語もそうだが、障害者教育や、身体への知識が少なすぎて、語る言葉を持たないなということを実感する。
 家に帰ってから、1時間半くらいかけて部屋の掃除をする。もともと見える部分はきれいだったが、ベットの下が2年くらい掃除されてなさそうだった。他にタンスの上などを拭く。ホコリアレルギーなので気になるのだ。
夕飯を食べ終えてから、週に一度の夜市にはじめて行く。人口1万4千人の町なのだが、とても賑やかである。CDがいっぱい売っていたから、帰る前に買おうと思う。台湾は田舎町でも賑やかで、食べるところもたくさんあったりする。

第10日 12/13(木)
 朝起きたらだるくて風邪っぽく、休んで一日寝ていた。仕事なら無理してでも行ったが、ぼくがいなくて迷惑がかかるわけではないのだ。
 気功の先生は風邪のときは目を休ませるように言っていた。だからスマホを見るのはよくないのだが退屈なので、ドラえもんクレヨンしんちゃんの中国語版を見たり、聖書を除いて日本から持ってきた唯一の本である『思春期をめぐる冒険 心理療法村上春樹の世界』を読んでいた。
 お世話になっているおじいさんが、昼ご飯も作ってくれた。
 この家はとても居心地がいい。施設の人たちもひとりひとりはいい人だ。ただ、施設全体をおおっている雰囲気は、学校みたいであまり好きになれない。
 ぼくがなぜのらりくらりと就職をしないでいるかというと、組織の雰囲気に染まるのが嫌だということがある。先日書いた水を無理に飲ますことも、順調に新卒で就職して気功など習わずにいたら、変に思わなかったかもしれない。あるいはこの施設で勤めると決めたら、自分が適応するために、これは必要なことなんだと自分を納得させるかもしれない。抑圧的な中高に通っていたが、そこで不登校になった人のことは、先生やクラスメイトと同様にぼくも軽蔑していた。集団の中にずっといると、どうしてもそこをおおっている空気に染まることになる。すると、世界に対してひどいことでも、してしまえるようになる。水俣湾に水銀を流していた企業の人も、薬害エイズを引き起こした会社の人も、吉田寮自治を壊そうとする京大職員も、ひとりひとり属する組織について何らかの違和感を持ちつつも、しかし賃金という生命線を握られている中、思考停止したのだと思う。そうはなりたくないのだ。もっとも、何かの組織のようなものと深く関わる機会はいつかまた出てくるだろう。しかしそれは、もっと「個」を確立してからにしたいのだ。そうすれば、自分だけは踏みとどまってものを考えられると思うのである。と書いてみたものの違和感が出てきた。個の確立はたぶん幻想だ。それよりも信頼できる人やコミュニティとの多様な関係を築くほうがいい。それによって信頼できる「個」が一時的に成り立つ。それを絶え間なく続けるべきか。
 施設には1ヶ月お世話になると伝えていた。もし居心地がよかったら1ヶ月半いようと思ったが、やはり1ヶ月で終えることにする。その後は台湾を半周しながら、余力があれば離島や大陸にも寄って、帰ることにする。

第11日 12月14日(金)
 夜11時に寝て、目覚ましが鳴る3分前の6:57に起きた。昨日は一日寝ていて、シャワーも浴びていないので、朝ごはんを食べてから浴びる。目や肩の湯あてもする。そんなことをしていると40分遅刻して8:40に行くことになった。
 行くと、台南市知的障害者自己啓発なんとかの集会をするとかで、それが9時半ごろからはじまった。障害者のためというよりは、職員のためのような会に思える。スタッフは相変わらず障害者の人たちに、前を向いて座れとか言っている。アホらし…と思いながら、スマホをさわったり、図書館で借りたジブリ映画『風立ちぬ』の子ども向けの本を読んだり、隣の席の障害者の人としゃべったりして過ごす。
 昼食の後、タオルや靴下の袋詰めをする。障害者の人たちが3時半に帰った後も、少し手伝いをする。おととい、今週で辞めると言っていた人に連絡先を聞こうと会いに行くと、人手が足りないから今月いっぱいはいることになったと言われる。今日の会はどうだったかと聞かれ、どう答えたものか迷いつつ、障害者の人ではなく職員のための会だったと言ったものの、その意は伝わらず、これは障害者の人のための会だとマジレスされる。中国語と英語が下手すぎて議論にならないので、話しを聞いているだけである。
 金曜のプログラムが終わると障害者の人は実家に帰る。世話をしてくれているおじいさんも家に帰る。ドイツ人は台南に派遣先の研修に行っている。というわけで今夜はひとりである。しかし、施設のボスが、友達が来てるから一緒にご飯食べに行こうと言って、車で山の上のレストランに連れて行ってくれた。梅の鍋を食べる。うまかった。
 昨日、休息が取れてよかった。4日に台湾に来たが、それから一日も休みなしだった。台東旅行は楽しかったがハードだった。そもそも台湾に来る直前も大阪でかなり忙しくしていたのだった。明日と明後日は自由である。明日は台南に、明後日は玉井の教会などに行くかと考え中。
 図書館で借りたトトロ(龍貓)をパソコンで見る。映像で勉強するのは効果的だと実感する。

第12日目 12/15(土) 台南旅行
 まずは昨夜金曜日の夜の続きから。ドイツ人は台南で研修、みんなは家に帰っていて一人の夜だったが、ボスが食事に連れて行ってくれた。しかし帰ったら一人である。ぼくは部屋でひとりで寝るのもいつも怖いのだが、建物にひとりとなるともっと怖い。だからぜんぜん寝つけなかった。トトロの中国語版を最後まで見て、心を安心させて、やっと眠ることができた。たぶん午前3時くらいである。
 朝は8時に目覚ましをかけていたが、寝るのが遅かったので、8:45までスマホなどさわりながらだらだらする。しかし、おとといはたくさん寝たためか、意外と大丈夫そうだと思い、支度をする。台南に行くつもりだが、プールに入るべきかどうか迷う。家に湯船はないが、私はお湯に浸かるのが日課なので、少し物足りない。そこで、プールに併設しているお風呂に入ろうという考えである。ちなみに住んでいる玉井には体育館はあってもプールはない。一応バスタオルや水着を持って行く。そんなこんなしていると、10時に家を出ることになった。冷蔵庫にあったりんごをかじりながら歩く。歩いて10分ほどでバスターミナルに着く。そこでバスに乗り、70分である。玉井は人口1万4千人しかいないのに、15分に一本という高頻度で出ている。眠くなって寝ていたら、12時ちょうどくらいに台南駅に着いた。料金は350円くらいである。
 台南に来た一番の目的は本を手に入れることである。玉井には本屋がないのだ。さっそく駅前の金色堂書店に入ると、『台湾歴史地図』という地図を参照しながら台湾史を知れる本を見つける。でも重くなるから今は買わない。最近できた王育徳記念館に行く。王育徳という台湾人は、東京帝大に入ったあと台湾に戻るも、敗戦に続く2.28事件で兄が殺されたりえらいこっちゃということで日本に亡命して、台湾独立運動台湾語研究に活躍した人である。
 王育徳記念館前の公園で、着物を着た人たちが何やらイベントをしており、横で話しを聞いていると、茶道を紹介するために京都から来たそうである。その中の女子学生っぽい人と話したいと思うも、タイミングがつかめずあきらめる。人に話しかけるのってむずい。
 ひとつ書店に行くも収穫なし。次に林百貨に行く。前に行ったときは、屋上に戦前の林百貨の前に立つ少女を描いた萌え絵で彩られた、世間の奇異な目を浴びるという意味で実用性がなさそうな水筒が売っていて、ぼくのロマンティシズムにぴったしはまったのだが、その時は売り切れで買えなかった。それで今回行ってみたが、そもそも売られてすらいなかった。販売は終わったのだろうか。「つながれる人とはつながれるうちにつながっとかないとね」と当事者研究の仲間が言っていたが、その通りである。
 林百貨の隣の慰安婦像を見る。ここに建っているのは、林百貨と土地銀行という日本時代の建物が残るエリアだからだろうか。前に日本人がこれを蹴って、地方選挙で民進党が少し不利になったのではとかいう文章を読んだ気がするが、本当だろうか。
 やはりさっきの茶道の日本人と話したいと思い、また王育徳記念館の前に行く。ご飯をただで振る舞っているので、食べる。茶道の実演を見て、しかし話しかけるの無理やなと思っていると、子ども相手にコマなど日本の遊びを教えるブースにいる30歳くらいの女性が、向こうからこちらに気づいてくれて、「日本からいらっしゃったんですか」と聞いてくれる。それで、ボランティア(事実上の食客)で来ているとか、色々話す。茶道を教えに来ているのは龍谷大の学生が主で、その女性は同志社卒で茶道を生業にしているらしい。少し話した後に、「ぼくは京大卒業してるんですよ」と、身元を明らかにするのと、話しをふくらませるきっかけになるかと思って言うと、「えーすごいですね」とただびっくりされてしまった。意図としては距離を縮めることだったが、逆効果になった。前にもこういうことがあった気がする。ぼくは京大から左京区などの地理の話しになったり、京大にも茶道部があるわけで交流があるかもしれないから、「○○さんもしかしたら知ってたりします」みたいなことがあるかと思って言ったのだが、テレビのクイズ番組で見るような、高学歴=選民の意味になってしまった。関西の外の人にはあまり京大だとかは言わないが、特に京都の人には言いたくなるのだ。だって京大・立命館同志社龍谷・精華・造形などそれぞれの文化や地理があるわけで、話が盛り上がりそうだからだ。なのにうまくいかなかった。むずかしい。
 その女性に別れを告げ、本屋めぐりを再開する。台南駅南の古書街に向かうも、特にほしいものは見つからなかった。教科書の古本を売っている店があって、小学校の国語の教科書を見たが、ぜんぜんほしいと思わない。施設にある’70年代の国語の教科書はシンプルでたいへん美しいのだが、今のはごちゃごちゃしている。
 台南駅東の、成功大学の学生街の本屋へ向かう。日本語の古本を売っている店を知っているので、そこに行く。台南は2ヶ月住んだことがあるから、少し詳しいのだ。日本語世代の台湾人が作った歌集『たんがら台湾』(2000年号)が10元(35円ほど)で売っていて買う。野坂昭如の『軍歌 猥歌』なる80元の本と、1970年発行の女性自身の皇室特集号(100元)も買う(なんでそんなもの売ってるんだ?)。トトロと魔女の宅急便を特集した150元の本もあって買ったが、それのみ袋がしてあって、いま開けると日本語の翻訳ものだとわかった。買った意味がない。施設の誰かジブリ好きな人のクリスマスプレゼントにしよう。主に日本語の本を買っているのは、いま持っていてもうすぐ読み終える本の他に、日本語の本がなかったためである。
 他にもうひとつ古本屋に行くも成果なし。その時点で5時をまわっている。駅前の書店に戻り『台湾歴史地図』を買う。玉井行きのバスに乗り、YouTubeクレヨンしんちゃんドラえもんの中文版を見る。19時半に玉井に着くと、広場でクリスマスの音楽会をしており、それを21時すぎまで聞く。楽しかった。

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玉井 広場でのクリスマスの音楽会

 台南の林百貨(日本時代からの百貨店)などは人気ではあるが、そういう観光スポットにばかり行っても、台南政府や観光局お仕着せの旅行なわけで、少しずつ消耗する感じがする。に対して、玉井のような観光地化されていない場所で、地域にふれあえると、満たされる感じがする。
 家に帰るために鍵を開けようとすると、台湾版セコムの解除を間違えたらしく、警報が鳴り、正しく解除した後に台湾版セコムから電話がかかってきて、吃音&外国語ということで最悪の条件なのだが(吃音者はたいてい電話が苦手)、問題はないことと、名前を聞かれたので名前を答えた。この家の玄関は、3重に鍵をかけた上にセコムをしている。いくら障害者をあずかっているからといって、台湾という世界で最高クラスに治安のいい国の、人口1万4千人の田舎町でそれはやり過ぎだろうと思う。しかし、ボスやおじいさんは、出る前にセコムちゃんとかけといてと言うので、従うことにする。
昨日の夜、店で残して包んでもらったやつの残りと、冷蔵庫のネギやらショウガやらで鍋を作ったが、あまりうまくなかった。料理うまい人はすごい。

第13日目 12月16日(日)
 玉井の長老派の教会に行く。9:45に礼拝がある。朝ごはんを教会近くの朝食店で食べる。肉粽(ちまき)と豆乳の小を頼む。豆乳はたくさん出てきた。たぶんこちらが外国人(日本人)なのでサービスである。それで35元=120円くらい。ぼくは飲み物は日本では、水とハーブティーと酒くらいしか飲めないのだが、台湾や大陸では豆乳が飲めてありがたい。安いしどこででも売っている。ちなみに、日本の豆乳は飲めない。日本のは味が違う。
 教会の礼拝は台湾語で、さっぱりわからなかった。自己紹介の時間があるかと思ったがそれもなく、台湾語の通じないよくわからない若者がひとり来たというだけで終わってしまった。日本人だとわかったらもう少し歓待されたと思うのだが…。去年、花蓮の長老派教会に行ったときは、そこも台湾語での礼拝だったが、かなり歓待された。日本語世代のお年寄りとたくさん話すことができた。
 終わったのが11時で、バスターミナルのあたりを歩いていると、施設のキッチン担当の障害者の人に出会った。どこに住んでるんですかとか、少し話す。それからパタニー事件の記念館に行く。パタニー事件というのは、1915年にここ玉井で起きた、日治台湾最大の死者を出した抗日事件である。しかし、少し見たところで、果物に含まれている何らかの成分が足りないため集中力が落ちていて字が読めないことに気づく。そのため、農協のマンゴーを出す大きな店に行く。150元の、玉井名物のマンゴーとアイスが入ったものを頼むと、マンゴーの下に大量のかき氷である。ぼくはお腹を冷やすのがダメなので、ミスったなと思いつつ、少しずつ溶かしながら食べる。なんにせよ果物を摂取でき、記念館に戻ると字が読めるようになっていた。展示を見る。日本軍は「清郷」といって、敵対する可能性のある集落の皆殺しをしている。満州事変(撫順の抗日への報復)や日中戦争で集落皆殺しをしたことはよく知られているが、その前にもやっていたのだなぁ…と思う。
 記念館を出ると猫がいて、一時間くらい遊んだ。猫との距離感をはかるのが気功っぽいというか恋愛っぽいというかでおもしろい。
 昨日たくさん歩いたためか、疲れたので家に帰る。15時ごろである。少しネットなど見てから、ひと眠りする。起きると18時半であった。ドイツ人が帰ってきていた。聞くと、小琉球に行ったという。ウミガメのいるところで、ぼくも3年前に行った。彼は疲れたから寝るといい、ぼくはご飯を食べに出た。前に入った店の前を通ると、おっちゃんが覚えててくれていて、入る。奥さんがぼくでもわかるようにはっきりと中国語を話してくれたから、すんなり注文する。魚のスープと上に煮込んだ豚の細切れが乗った米と、空心菜を食べる。全部で145元(500円くらい)である。そんなに安いわけではない。が、うまい。9つくらいの娘さんがいて、ティッシュを取ってくれたりなんとなく気にかけてくれる。ぼくが奥さんと中国語でやり取りするのを見てその子は、「彼は国語が話せるのね」みたいなことを奥さんに言ったところ、「せやで〜。勉強しはったんや。あんたもしっかり勉強して日本とか行きなさい」(よく聞き取れなかったので意訳)みたいなことを言っていた。その子が「好吃」は日本語で何というのか聞くと、奥さんは「おいしい」と答え、ぼくが出るときも「さよなら」と言ってくれた。台湾の人はたいていこのくらいの日本語を基礎教養的に話すのですごい。今日は人と話するのが少なかったので、少し暖かい交わりができて助かった。

第14日目 12月17日(月)
 昨日昼寝をしたので7時起きでも大丈夫かと思ったが、目覚ましがなっても起きられなかった。結局8時に起きる。遅刻である。それでもだるい。
もうすぐクリスマスの出し物があるということで、その練習である。子どもがいてかわいい。ぼくは東方の三博士のひとりである。
 昼ご飯を食べてから、部屋に戻り布団のカバーを洗濯する。どうもダニがいるらしく、腕や手を噛まれてかゆい。かけ布団のみ干す。洗濯の待ち時間に、台南で買った歌集<たんがら台湾>(二〇〇〇年号)を読む。日本語世代の台湾人たちが、日本語で短歌を読み続けたことは心動かされる。いくつか心惹かれる短歌をみつける。刺激を受けて、自分でもいくつか詠む。
昼からはジングルベルの歌に合わせたダンスの練習をする。
 家に帰って疲れ気味ながらリビングでパソコンやテレビを見ていると、いつも話しかけてくれる人が話しかけてくる。知的障害などない人だと、疲れているとか、何か作業をしているとかを察してそっとしておいてくれるだろうが、そういうのはおかまいなしで、いささかイライラする。
 今日は疲れたので早めに眠る。

2週目終わりです お疲れさまでした 次のページから3週目です

台湾ボランティア記・第1週

台湾は台南の郊外で、知的障害者の施設に2018年の12月から1月にかけての一ヶ月間滞在した。その日々を「台湾日誌」と名づけて随時Facebookに載せていたのだが、ここにも載せることとする。ほとんど毎日付けていたので長いです。まず第1週目です。

12月4日(火) 台湾一日目
 朝6:36の目覚ましで起きて、昨夜の鍋の残りを食べ、家を出発した。ジャンパーを着ていくつもりだったが、大阪の最高気温が20℃にもなる日だったので、家を出る直前に玄関に放り出してきた。高雄や台南は30℃なので、着いて鞄の中にジャンパーを見るのは、文字通り「見るのも嫌」だろうと思ってのことだ。しかし1月末という一年で一番寒いときに台北や馬祖、福州に行くつもりなので、やはりジャンパーは持ってくるべきであったかもしれない。こちらで買うこともできるが、お金がもったいない。安いのを見つけよう。
 ずっと、現実感がない。朝起きたときからずっと。今日自分が台湾に行くなんてことは信じられなかったし、これを書いている今も台湾にいることが信じられない。信じられなかったけど、乗り慣れたJRに乗って、何度も繰り返した出国手続きをし、座り慣れたピーチの狭い座席にいて、高雄空港から地下鉄と鉄道に乗るという、目の前のひとつひとつの作業をしていたら、本当はとても遠いはずの台湾にすぐに着いてしまった。
 昨日までは世界がリアルだったのに、今は映画を見ているみたいだ。
村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』に、「ぼく」とキキ(「ぼく」の恋人だ)が飛行機で北海道に行ったら、早く着きすぎて(羽田−千歳は一時間だ)気持ちが追いつかず、映画館で時間をムダにするために見たくもない映画を見つづけるというシーンがあった。鉄道ならしっかり時間がかかっていいけれど、「いまはまだ心が福島あたりまでしか来ていない」とか「そろそろ青森」だとか言っていたような気がする。それがすごくよくわかる。ぼくも本当は大阪−台湾はフェリーで移動したいのだが、悲しいことにその便はない。フェリーで3泊くらいかけたら、体と心が一緒に来ることができるのだが…ぼくの心はまだ屋久島あたりである。奄美と沖縄と八重山を経てやっと台湾に来るのだ。
 さて、台湾の障害者施設では思いの外に歓待された。台湾人はやはり優しいし、クリスチャンはホスピタリティが厚い。来る直前はコミュニケーションができるか不安でならなかったが、来てみるとなんとかなりそうに思えてきた。
 なぜ退屈かというと今夜はインターネットがないからで、ネットがないのは泊まっているところにWi-Fiがないからだ。Wi-Fiはあると思って空港でSIMを契約しなかったが、明日携帯会社に行って契約することにした。ネットがないと日本と連絡が取れないので困る。本当はネットなんて邪悪なものはない方がいいのだ。便利さに気を取られ時間も取られる。そういうわけでひょんなことから、何年かぶりのインターネットなしnightである。落ちついて過ごせるかと思ったら、パソコンを開いてこんな文章を打っている。しかしネットがあるよりはやはり落ちついているように思える。

12/5(水) 2日目
 日本を発つ前から少し風邪っぽかったが、やはりいささか風邪っぽい。今日は早めに休むことにする。施設の人々は優しい人たちである。わたしはボランティアというよりは、食客という感じだ。利用者がひとり増えたようなものである。静岡のかなの家でもそうだった。慣れてきたらもう少し手伝おう。
 子ども(幼稚園よりも小さい人たち)のところか大人(18歳より上という印象)のところかどちらで過ごしたいか聞かれ、少し見学して大人にしたが、やはりそれでよかった。人に話しかけるよりも話しかけてもらえるほうが好きだからです。
 1970年代の小学校一・二年生用の国語の教科書を図書室で見つけた。文章が美しくて感動した。日本の小学校の一二年用の国語の教科書も、きっと美しい文章だろうと思った。すっかり忘れているので、帰ったら探して読みたい。竹内敏晴という大正14年生まれの演出家が、小学校の教科書が、自分の時代は白黒だったのがひとつかふたつ下の弟の代で改訂されて、色付きで「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」と桜が一面に広がる絵になっていて、「なんであと少し遅く生まれなかったんだろう」と泣けてきたという話をしていたが、すごくよくわかる。小学校の最初のころの教科書はそれくらい心にまっすぐに入ってきた。教科書って、子どもに伝えたいことを、多くの大人たちが力を合わせて考えたのだから、愛がいっぱいつまっていると思う。国民国家はクソやなって思うことよくあるし、文科省の検定済みの教科書(戦前は国定教科書)なわけで国民国家に都合のいい人物として子どもを「教育」するという面があるから、例えば七〇年代の中華民国台湾の教科書でも国旗に敬礼していたりするわけだけれど、でもやっぱり愛を感じる。間違った愛もあったと思うけれど、書いた人たちの真剣な気持ちが伝わってくる。今日は暇な時間はこの教科書を読んで感動していたのだった。
夜市に行こうかと思ったが疲れたからやめた。

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国語の教科書



3日目 12/6(木)
 昨晩の話から。なかなか眠れず、しかし神経は高ぶって、1時前くらいまで日本語のインターネットサーフィンをした。台湾では中国語や台湾についての勉強をしたいのだが。なぜそうなったというと、昼にもらったお茶をぜんぶ飲んだからだとわかった。600mlくらいのタピオカティーを施設の人がくれて飲んだのだが、わたしはカフェインはダメなのだ。むろんわかっていたが断れなかった。これからは飲まないようにしよう。
 今朝はしかし気持ちよく起きた。晴れていたら多少寝不足でも大丈夫である。気温が最高気温30℃くらいなのだが、わたしはこのくらいの気温が合っているように思える。逆に日本の冬はいつもけっこうきつい。
 一日でわりと慣れたように思える。知的障害の人たちは気軽に話しかけてくれて、楽である。朝は新年のカードを作った。流れ作業で同じものを大量生産であるが。
 昼ご飯の後はいつも昼寝があるようで、わたしはその習慣はないが、寝不足だったからみなと一緒に寝た。机の上に突っ伏して寝る。台湾は小中高でも昼寝の習慣があるらしいが、やはり机に突っ伏して寝ているようだ(最近出た岩波ジュニアの本『台湾の若者を知りたい』に書いてあった)。一眠りするとスッキリした。昼寝の習慣はわたしも取り入れるといいかもしれない。
 3時すぎにプログラムが終わり、後は自由なので、市立の図書館に行った。市立というのは台南市立のことだが、ここ玉井というのは人口1万4千人の小さな町であるから、図書館も一階だけのシンプルなものである。しかし、映像作品がたくさん置いてあって、これを泊まっている家のテレビで見るといい勉強になりそうだ。基本的に夜は暇だから、借りて見たいのだが、日本のパスポートがあるだけで借りられないので、別の日に施設の人にカードを借りるなどしようと思う。
 一緒の家に19歳のドイツ人がいる。彼は今年2月からで、1年間いるらしい。明日からは休みなので、利用者の知的障害の人たちは家に帰っているらしい。障害者の人たちと、ぼくら外国の食客の世話をしてくれるおじいさんがいて、その人と三人である。夕食はいつも施設の人が作ってくれるようだが、今日はないので、外で食べるかなと思っていたら、おじいさんがドイツ人に何か作ってやと無茶振りし、ドイツ人は無茶振りや〜という表情をしつつもわかったと言い、大量のチーズと玉ねぎを炒めた何かを作った。おじいさんはスープと、肉とパプリカの炒め物で、ぼくは野菜を切ったりした。ぼくも料理ができたらいいのにと思う。25歳にもなってろくに作れないというのはなんともつまらない。
 図書館のおもしろそうな映画などを見て、映像を見たくなり、テレビを付けたらドラえもん(多拉A夢)とクレヨンしんちゃん(蠟筆小新)がやっていた。ドラえもんは「もしもボックス(假如電話亭)」の回で、のび太(大雄daxiong)がアメリカに引っ越すという「もしも電話」をかけたら、直後にボックスが壊れてしまい、本当に引っ越す直前までいくという話だった。静香ちゃん(jingxiang)が本気で泣いてるのにうるっと来てしまった。くれシンは2001年ごろの、おもしろい時期のだった。愛ちゃんが出てくる時代だ。
 現在9時で、おじいさんに疲れているだろうからテレビを消して休むように言われた。しかし9時は早くないかと思う。このおじいさんは日本語もけっこうできる。夕方に会ったときは「こんや…料理、ない」と簡素な言葉で、施設の厨房で作る食事が運ばれないことを教えてくれた。「料理、ない」は使いたい日本語だと思った。台湾人はかなり多くの人が簡単な日本語はできる。さきほど行った玉井区の図書館にも、日本の漫画がずらりと置いてあったし、小説も日本のがかなりある。知的障害の人の中にも日本語を勉強していて、日本語能力検定試験4級に何年か前に受かったという人がいた。
 いまテレビを見ていたら、ベトナム語ニュースの時間とインドネシア語ニュースの時間があった。図書館にも東南アジア諸語の本のコーナーがあった。台湾は介護の労働者として東南アジア諸国から多くの女性労働者と移民を受けいれているのだ。2016年現在で移民は14万人、労働者は68万人をこえたらしい。日本も来年から外国人労働者を多く受けいれるようだが、台湾は先を行っているのである。

4日目 12/7(金)
 社員旅行のようなものに混ぜてもらって台東へ。車で4時間もかかってびっくりである。高速道路は屏東県(高雄の東の県)までしかないようで、そこからの山越えはくねくねした道だった。
 東海岸に出て海があったが、みなが泳いでなかったので泳がなかったことを、後になって悔いた。泳ぐべきだったが、波が高かったこともあって躊躇した。仲がいい友人であるFはどこの海でも泳ぐと言って、誰も泳いでいないところでも空気読まずに泳ぎ出すのだが、彼は立派だと改めて思った。夏に東北で震災のボランティアをしたとき、漁港でFと一緒に泳いだのがすごくいい思い出になっている。ぼくはなんでも躊躇して機を逸してしまうから、彼のように素早くやりたいことができるようになりたいものだと思う。
子ども食堂兼勉強を教える場所のようなことをしているところの話を聞いて、台東夜市に行った。台東の夜市ではクリスチャンがもうすぐクリスマスですねのパフォーマンスで踊ったり歌ったりしていて、感動した。今後台湾社会に入り込むにあたって、キリスト教のコミュニティはぜひ活用させていただこうと思う(德蘭中心もキリスト教なのですでに活用させていただいている)。キリスト教は「外の人」にもウェルカムだ。日本のカトリック教会もベトナム人が多くいるらしい。それでこそ宗教だと思う。
 夜市では施設の若者が射的を7発7中あてて、好きなの選んでいいと言われたので、クレヨンしんちゃんのぬいぐるみにした。兵役があるからうまいのかと聞くと、12歳から親父とBB弾で練習してたと言われた。「ハワイで親父に…」(by工藤新一)を思いだした。
 ホテルに温泉があったがお湯が汚くて、上がったら目が赤く腫れていた。
疲れたから今日は短めに終える。

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台東県南部の海

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台東の夜市 クリスチャンたち


5日目 12/8(土) 副題:親切にされるとすぐ好きになります
 朝7時に起きて、朝食を食べて8時にバスで出発する。池上のあたりで自転車に乗るが、風が強くて河原の砂塵が空を舞っていた。このあたりはちょうど去年も自転車で友人Fと来たところでなつかしい。昼ご飯の後、自然公園へ。
 移動はすべてバスだが、バスの中では本が読めず暇なので、昨日からYouTube夏川りみの歌を聴いている。通信制限なしなのでネットし放題である。台湾の風景を見ると沖縄を思い出す。台湾も差別されてきた地域だが、90年代から台湾人は自治を獲得した。沖縄はかつては独立があったが、いまは日本の国内植民地のような状態である。沖縄と台湾は自然も文化も似ているし、距離も近い。近年、沖縄と台湾の間の交流はどんどん盛んになっている。国境線という強力な力での断絶を乗り越えようとしている。そのことを思うと感動する。夏川りみは、雨夜花という台湾の歌を歌ったり、テレサテンの中国語の歌を日本語で歌ったり、与那国と宜蘭の間の見えない国境線を飛び越えて活動している。中国語で夏川里美と検索するとたくさん動画が出てくる。台湾人のファンも多いようである。そういえば3年前に台南にいたとき、台南で夏川りみのコンサートがあって聞きに行ったのであった。沖縄がいつの日か、いまの台湾のように自治や独立を獲得できるように願う。日本人としてその責任を感じる。
 夏川りみをずっと聴いていると、Youtubeの「あなたへのおすすめ」欄でメリッサ・クニヨシという日系(沖縄系)ブラジル人の歌手を見つけた。まだ子どもである。「瀬戸の花嫁」や一青窈の「ハナミズキ」、「涙そうそう」などを歌っていた。広島も移民を多く出した地域だし(by神戸の移住ミュージアム)、一青窈は台湾系日本人だ。中島みゆきの「糸」も歌っていた。日本(沖縄)という縦の糸と、ブラジルという横の糸が組み合わさって彼女がいるのだと思うと、泣けてくる感じがした。
 夕方に台東の糖廠跡に行った。日本時代からの歴史がある。第二次大戦の防空壕跡や記念館やらがあるが、戦前に台湾の原住民研究をした日本の学者の本が置いてあった。ほしいが、日本円で3000円する。買おうか迷っているうちに、バスの時間が来てしまい諦めた。買えばよかったかなとも思うが、そういうときにとっさの判断ができないのだ。綾屋さつきさんが『発達障害当事者研究』で発達障害というのは「(意味の)まとめあげに時間がかかる」ということなのではと書いていたが、発達特性をいくらか感じる身としては、よくわかるのである。昨日の海に入るかどうかについてもそうである。昨日の海については、当事者研究の仲間が詳しいコメントをくれているので、読まれたし。
 その後、旧台東駅のあたりを1時間半くらいぶらつくことになった。それならもう少し糖廠跡にいさせてほしいところだが仕方がない。施設で働いている、同い年くらいの女性と2度すれ違い、どちらからともなく会釈する。いや、会釈というのは日本的な表現で、実際はほほえみかけると言った方が正確である。すみません、そういう西洋的なことをたまにします。障害者施設というのはそういうものなのかしらないが、そこで働いている女性は30代半ばより上くらいがほとんどで、20代なのはごく少数である。その人は今回の旅行ではじめて知り、同い年くらいで気になっていたのだが、同じ家に泊まっていていまホテルの同部屋のベッドにいる19歳のドイツ人と親しげに話していたから、内心ふんと思っていたのだ。しかし、その女性と3回目に会ったとき、話しかけてくれた。それが、かなり親しく話してくれたので、ふつうに一瞬で好きになってしまった。親切にされるとすぐ好きになっちゃうんだよな(サークルクラッシュ同好会の人も同じようなことを言っていた気がする)。
 夕食のあと、みながバスでホテルに行くなか、ぼくはレストランに残って、台東で一年前にAirbnbで泊めてもらった人と待ち合わせた。台湾的ぜんざい屋に行き、湯圓(つまり台湾的ぜんざい)をごちそうになる。キリスト教の話など聞く。明日、教会があるらしいが、ぼくはいまの施設の人と一緒に行動するから行けない。しかし来月、日本に帰る前に寄ろうと思う。台東糖廠跡の本も、その時までにどのくらいレアな本かを調べて、必要があれば買うことにする。ちなみに、夕食のあと知人に会いたいと言うと、快くオッケーしてくれた。台湾人はこういうところ自由ですばらしい。やたらと心配してきたりもしない。
 体が冷えたので、昨夜入っていまいちだったホテルの温泉に、また入ることにする。明石家さんまだか所ジョージだか忘れたがそういう感じの人が、「オレはまぐろが好きなんだけど、うまいまぐろしか食べないってわけじゃないんだよ。本当に好きだからまずいまぐろでも食べるの」と言っていたのが、風呂についてはよくわかるくらい、ぼくは風呂ずきである。旅行先はホテルの部屋の狭い風呂ではなく、銭湯を探して入るし、家でも毎日お湯につかる。お風呂へのこだわりはあるのだが、しかし多少汚くても入れないよりは入れる方がいいのである(お湯やっぱ濁っていた…)。
 夜は当事者研究仲間とチャットしたり、トランプをしたりした。同い年くらいの人たちと話したりするのは楽しい。京大にいたこともあって、中国人にせよ台湾人にせよエリートばかりと付きあう機会があったが、やはりぼくにエリートは合わない。英語があまりできない人もいて、英語できないのかわいいなとか思う(なんかそれって植民地主義的やな。でもぼくもあまりできないからいいか)。
 12月8日といえば先の大戦の開戦の日である。ちょうど一年前のこの日に、台湾に来たのであった。特にそこに意味はない。
 日誌はオチがないことも書けて楽だな。しかし読む方はたいへんじゃないかしらん。

6日目 12/9(日)
 昨夜は眠いのに「台湾日誌」を書いたので、いささか寝不足である。しかし9時出発なので助かった。朝は海が見える「風景区」に行き、昼食である。バスを降りて気づいたが、台東旅行1日目に泳ぎたくて泳げなかった砂浜のあるレストランである。食後に隣の人に何時に出発か聞くと、あと10分という。しかし10分あれば全身海の水に浸すことくらいはできると思い、バスに水着を取りに行こうと思ったが、運転手さんがどこかに行っていて入り口が閉まっていたので、断念せざるを得なかった。せめてもの思いで、足だけ浸かりに入った。台東は3回目だが、3回ともすべて波が高いので、そういう地域なのだろう。時折大きめの波が来る。危険といえば少し危険だが、気をつければ大丈夫にも思える。天命なのか愚かなだけかわからないと思いつつ、その後も6時間くらい後悔しつづけた。バスを降りて、泳げるところと気づいたときに、戻って水着を取ればよかったとか、早く出発時間を聞いていれば早めに食べ終えて泳げたのに、とか何度も考えてしまう。『発達障害当事者研究』の言を借りると、「意味のまとめあげがゆっくり」なので、急に何かの選択をせまられてそれを適切にこなすのは苦手なのだと思う。大学受験とかは得意だったわけだが、あれは瞬時の選択を大量にこなしていくものの、かなりの程度パターン化されているので、パターンを覚えてしまえば大丈夫なのだ。どの状況でなら海に入るかは、経験値が圧倒的に不足しておりパターンなど何も知らないので、固まってしまった。と、発達障害的解釈をしてみる(自分にどのくらい発達特性があるかもよくわからないし、かなりテキトー)。
 バスの中では昨日に引き続き、沖縄系ブラジル人メリッサ・クニヨシの歌を聴いていた。メリッサは8歳のときにブラジルのテレビ番組に出て、有名になったようだが、その時のは本当に神がかっている。子どもは神さまに近いというが、彼女の当時の第一言語ポルトガル語で、おそらく意味がわかっていない日本語の歌詞を歌っているのに、心に響く。言霊が形を成したようである。能楽師の安田登が『神話する身体』で、能は演者が意味わかってなくても、形をなぞれば意味が勝手に立ち上がってくるみたいなことを書いていたが、ちょうどそのようなものだと思った。対して10代になってからのメリッサは、正直かつてのような輝きは見えない。しかし、そのくらいの年は子どもから大人に急激に変わる時期だから、神がかった才能が見えなくなることもあると思う。大人になってから、成長の苦しみを糧にした、以前にも増してすばらしい歌を歌ってくれるのか、それとももうその才能は見ることができないのか、わからない。神さまがほほえむかどうかは神さまにしかわからない。
 近代人はみな望郷の徒だ。ぼくも3世代さかのぼると血縁的に縁のない、大阪のベッドタウンに生まれ育った。近くを流れる川は、上まで一面コンクリートで覆われていて、その水にふれたことは一度もない。故郷は書物などを読んで再発見するしかなくなっている。メリッサのような、日本を離れた人たちに、かつての日本が見える。ぼくが台湾に惹かれているのもそれが大きな理由である。ぼくが愛する日本は、日本の中を探していてもたどり着けないのではないか、そんな思いがする。本当はあるのだろうけれど、深く埋もれてしまっている。日本を探して台湾に行くというのはいかにも色んな人に怒られそうだが、しかし日本人ということに当事者性を見出しているから、台湾(や沖縄や朝鮮)に関心を持っていることは間違いないのである。ぼくがフランス人だったら、ドイツやアルジェリアのことを学ぼうとしていると思う。
 夜6時ごろに玉井に帰ってきた。バスが着くと挨拶もなく解散していく。日本なら集合して一言あるところだけに、文化が違うなと思う。いったん荷物を置きに帰ったら、誰もいなくなっていて、「八方雲集」というチェーンの餃子の店で、ひとりでご飯を食べた。これまで人と一緒に食べてきたので、気づかなかったが、旅行先でひとりでご飯を食べるというのはさびしいものである。旅行で一番苦手なのはそれだ。台湾に来て6日間、すべて他の人と一緒に食事をしていたことに気がつく。それってとてもありがたいことなんだなと気がついた。台湾の店では店内で食べるか、持ち帰るかを選べることが多い。ドイツ人が家でパンケーキを焼くというのに、外で食べると行って出たが、買って持って帰ればよかったなと、食べ終わってから思った。
部屋にいると近くで花火が盛大に打ち上がり、何事かと見に行った。ロケット花火のヒュンヒュンという音もする。見ると、葬式の告知か何かのようで、子どもが3人くらいと大人が2人だけいて、玄関に花と名前が飾ってあり、葬儀の車が泊まっていた。あたりは花火の煙で、デモ隊と機動隊が闘った後のような感じがした。
 3日間、移動しまくりの旅行だったので、かなり疲れた。そして海に入りたかった。台湾いる間に入れたらいいな。

7日目 12/10(月)
 7時に起きる。昨晩疲れていたわりには、目覚めはよい。足湯と首の目の湯あてをする。湯あてとは気功用語で、要はタオルにお湯を浸して絞って、体に当てることです。今朝は朝食が出ないので、買いに行った。60元(約200円)で、魚と米の入ったスープである。うまい。施設の庭で少し気功をしたりする。
 朝のプログラムは、庭の掃除から始まった。掃除って気功になるな〜と思いながら気分よくする。次は庭をぐるぐる歩く。これも気功っぽくやる。次に、体操のようなことをする。ストレッチもやる。こういう西洋式のは嫌いなので、換骨奪胎して力を抜き、気功っぽくやる。気功は週に1回、4年やってるので、知らないうちに身についてきている気がする。人間には、特に障害者や発達特性の強い人には、気功など東洋医学的なものが合うことが多いと思う。発達障害の綾屋紗月さんが『当事者研究当事者研究』で、東洋医学と相性がいいと書いていたけれど、それはよくわかる。
 その後は工作と手芸をする。昼食のとき、天井からつり下げるタイプの扇風機が回っていて、あまり気分が優れなかった。ぼくは風に弱い。しかし台湾では多くのところで扇風機か冷房がかかっている。昼寝の後は、運動の時間で、ぐるぐる歩いた後ストレッチである。障害者の人たちは、ほとんど誰も真面目にやっていない。やってるのは先生たちくらいである。ストレッチなんて体を硬くするだけじゃないか、それより気功とかやって体をゆるめた方がいいのに、と思う。帰る前に、気功を4年やってるから、みんなと一緒にやりたいんですけどどうでしょう、と聞いてみたら、喜ばれた。20分でやってくれと頼まれたので、楽しみである。
 施設では結構暇で、手伝うことないかと聞いても、障害者の人たちと一緒に過ごす他は特に何も求められていないようである。掃除しようとしても、今度するからしなくていいよ、とか言われる。
 SIMの初期契約は短期間しかできなくて、それが切れたので、セブンイレブンで、30日間使い放題900元(約3000円)のSIMを契約し、次に地域の図書館で本をDVDを借りる。しかし泊まってるところのDVDデッキが壊れていて見れない。
 夕食後、一緒にテレビを見た。テレビはいい中国語の勉強になる。それから、ネットで中国語の音楽を流して一緒に歌った。テレサ・テンなんかは、同じ曲を日本語と中国語で歌っていたりする。文化を共有しているのっていいなと思う。

一週間分読んでくださりありがとうございました お疲れさまでした 続き(2週目)は次のページへ

ふれること・ふれられること

ふれることもふれられることも、生きていくのに大切なことだ。赤ちゃんは親や周りの人にふれられて育つ。ある程度大きくなっても子どものうちは、からだがふれることは自然なこととして受けとめている。赤ちゃんや子どもにふれることで、おとなも気持ちよく感じる。気持ちよさは一方ではなくて、両方にある。

ある程度の年齢同士になると、からだがふれる機会は減ってしまう。そこには何か必然性のようなものがあるのだと思う。性的なパートナーとはからだがふれあうが、その他の人とはほとんどふれなくなる。赤ちゃんや子どもとかかわることがなかったり、恋人がいなかったりすると、下手したら何ヶ月も人にふれてなかった、みたいなことが起こる。

ぼくはというと、赤ちゃんや子どもとかかわることはあまりないが、同居している祖父が子どもみたいなものなので、よく頭や背中にふれている。ふれているというのはちょっと嘘で、実際は、ぼけていてリビングの真ん中をうろうろしているので、「邪魔や、のいて」と押している。「調子どう?」と背中を軽くたたくこともある。人にふれるのはそれくらいなもので、だから人のからだを慈しむ機会はほとんどない。まれに、人の赤ちゃんを抱いたりすると、その心地よさに後から気づく。

その心地よさを、自分に対してしようというのが、気功である。信頼している気功の先生がいて、4年ほど通っている。しかし、自分の家では、痛かったり凝っているときに応急処置をするくらいが精いっぱいで、なかなか真面目にやる気になれない。人というのは、自分のからだを大事にするのは苦手で、他人のからだに対する方が丁寧になれるのだろうか、などと思うこともある。

信頼しているマッサージの人と整体の人がいて、それぞれに数ヶ月に一度だけ行く。人に、からだを大切に扱ってもらうのは必要なことだ。先日、マッサージを受けたが、その人は「人はお腹のなかで羊水に包まれているわけでずっとマッサージを受けているということね」と言っていた。赤ちゃんや子どものうちは、からだに大切にふれられることがいつも欠かせないが、おとなになってからも、時々はそういうことを必要とする。

20代の男性が「セックスがしたい」と述べる言説はよく見かけるが、実際に求めているのは、人のからだを慈しむこと、慈しまれることではないかと、我が身をふりかえっても思う。それが結果として、セックスにつながる。結果的にたどり着くセックスを目的化すると、むなしさを感じることになる。

というわけで、恋人がほしいなあと思う。人のからだを愛でたいし、愛でられたいと思う。赤ちゃんや子ども相手とか、あるいはおとな同士でも気功とかマッサージとか、あるいはそういうワークショップとかでふれたりふれられたりはできるし、そこで回復するのだが、性愛の強さにはかなわないな、と先験的に思っている。

吃音になった不思議な理由

先日 吃音の仲間とお泊まり会をした
そこで 当事者研究ばっかりしてるヤバい人が 吃音になったきっかけになってる不思議な記憶 ありません? と言い出した
はじめ何のこっちゃと思っていたが ぼくもあったのを思いだした

小2の夏 祖父母と父と妹と広島の宮島に旅行した 母はたぶんいなかったと思う
祖父母の岡山の家にいたときで 在来線にやたらと長い間乗った記憶がある まさか岡山から在来線で3時間あまりかけて行ったのだろうか さすがに新幹線で広島まで行きそこから在来線に乗りかえたが なにぶん子どものときだから広島宮島口の20分ほどが長く感じたのだろうか それはよくわからないが どこかで快速に乗るべきを間違えて普通に乗ったことを覚えている

宮島はJRの宮島口からフェリーで行く 8月の広島の暑い日差しと 大きなフェリー(実際はそんなに大きくないはずだが小2のときなので大きく感じられたのだろう)が重なる記憶がある

その時なのだ 吃音になったのは
その時何かがあったはずだ

小2のときからずっとそう思ってきた

あまりにわけがわからないので 人に話そうなんて思わなかった しかし実はそう信じているのだ

その時一体何があったのだろう 祖母に話し方について言われたのだろうか 暴力的なことがあったのだろうか それらはありそうなことだが 推論の域を出ない

だが事実 その旅行が終わってほどなく大阪に帰り2学期になると 不思議なくらいどもるようになったのであった 夏休みの宿題としてこの旅行のことを絵日記にしたのも トリガーになっているような気がする

1学期の終わり 7月に国語の教科書の『スイミー』を授業で読んだとき 喉につっかえる感覚があったのは覚えている*1 タイトルの「スイミー」の「ス」がなかなか言えなかった(うまくごまかしたので先生やクラスメイトにはバレなかった) しかしタイトルさえクリアしたら 後はスラスラ読めた

お泊まり会で その宮島旅行の話をしたら 別の友人は「村上春樹の小説みたいに 半身を宮島に忘れてきたんじゃないですか」と言った

宮島に着いて 厳島神社の鳥居に行ったところまでは記憶にある ちょうど潮が引いているときで 鳥居のフジツボをさわったりした しかしそこからどうやって帰ったのかはほとんど覚えていない だから宮島に着くまでがキーなのだと思う ぼくの半身は宮島に行ったまま帰って来れなくなっているのかもしれない 帰りのフェリーに乗せてあげたいが どうしたらいいものかわからない

*1:吃音は3歳からあったが連発型のもので意識せずにすんだ これが難発のはじめでこの時はじめて吃音的現象を意識したように思う