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在日朝鮮人の児童・生徒の「本名を呼び名乗る実践」の限界と今後のあり方

 特に関西圏を中心とした学校で、戦後、在日朝鮮人の児童・生徒の本名を呼び、本名を名乗らせることがされてきた。これは「本名を呼び名乗る実践」とよばれている。このレポートでは、第1章において、その限界と、今後の取り組みのあるべき姿について述べた先行研究を整理する。第2章では、この問題を取り上げた動機と私自身の意見を述べる。第3章では、この問題に関連して、知人に聞いた話を紹介する。

 

第1章 「本名を呼び名のる実践」の限界と、今後のあり方についての先行研究

 「本名を呼び名乗る実践」は、これまで肯定的に語られることが多かった。代表的な例を挙げると、大阪で民族学校民族学級の教員を勤めた朴正恵(1942-)は、「朝鮮人が本名(民族名)を名のり、日本人が本名(民族名)で呼ぶ」のが「当たり前」であると述べ、在日コリアンが本名を使うことを強く勧めている。

 しかし、そのように結論づけていいのだろうかと、疑問を呈する人たちが、20世紀末から、特に今世紀において登場している。朴秋香は、在日コリアンと日本人の「混血児」に注目している。「韓国・朝鮮籍の保持者の8割以上が日本国籍保持者と結婚している現在においてなお、日朝『混血』者の問題を扱ったものはほとんど存在しない、もしくは見つけにくい」と、「朝鮮人と日本人」という二項対立の言説が時代遅れであるにもかかわらず、今も幅をきかせていることに疑問を呈している。親の国籍と子どもの国籍が必ずしも一致しないのが現代なのだ。そのため、「本名を呼び名のる実践」ではなく、「民族名を呼び名のる実践」がされるようになっている。だが、それより大切なのは、「名前をめぐる自己決定権を守りそだてる」ことだと、朴秋香は1999年の全朝教における、日本国籍在日コリアン安田直人の発言から述べ、本名、あるいは民族名を名のることが目的化している現状に警鐘を鳴らしている。

 朴秋香のこれらの意見に影響を受けて、藪田直子は関西地域のP市において、朝鮮半島だけでなく、20世紀末から増えてきた中国とベトナムにルーツのある子どもたちに注目した調査をしている。在日韓国・朝鮮人の児童生徒で通名を使う人は多いが、これは「日本の学校同調圧力による問題なのか。あるいは個人の選択として扱うべきだろうか」と疑問を立て、それを解くために在日コリアンを、他の在日外国人(ここでは在日中国人と、特に在日ベトナム人)の視点を加えて論考している。藪田はP市のZ中学の教師11名にインタビューをした。現状としてZ中学では、外国にルーツをもつ生徒のうち、約6割が日本風の名前を、約4割がエスニックな名乗りを学校で用いている。ベテランの先生には、「本名を呼び名のる実践」の影響を受けた人たちもいて、通名を用いる生徒たちを目の当たりにして「ショックな部分もあった」と述べているが、しかし実際に本名を名のるように強く勧めることはしていない。その背景として藪田は、これまでの在日コリアンの生徒を対象にした「本名を呼び名のる実践」では、「本名を名乗る」というゴールがあったが、中国系やベトナム系など外国系の生徒が多様化した現在、決まったゴールがなくなっていることをあげている。というのも、在日コリアンは本名か通名かの選択を「重いもの」としてとらえたが、ベトナム系の生徒は「あっさりとしたもの」ととらえている。もともと、ベトナムではあだ名や幼名を日常的に使う伝統がある。そういった多様な状況下で、Z中学で大切にされているのは、生徒が本名を使うかどうかではなく、教師が本名を使える雰囲気を作ることである。「名前をめぐる自己決定権」がここでは尊重されている。

 

第2章 在日コリアンの本名・通名の問題に興味を持ったきっかけ

 私自身も、藪田が示したようなZ中学のあり方が、今の在日コリアン自体が国籍やルーツの点で多様化し、また朝鮮半島以外にルーツを持つ外国人が増えていく社会においては望ましいと考えている。さて、この問題を取り上げた動機は、卒業論文執筆の関係で、南葛飾高校という東京都葛飾区にある学校についての本を読んだことだった。その学校は、被差別部落出身の生徒や在日朝鮮人の生徒が多く通った。そこにIという在日朝鮮人で、通名を使っている女子生徒のことが、その担任教師によって語られる。Iはクラスメイトに自身が在日朝鮮人であることを隠していたが、両親ともに日本人である担任は、Iに本名を名乗るように何度も勧める。南葛飾高校は、朝鮮文化研究会もあり、朝鮮語の授業も全学生を対象にされていて、比較的理解のある環境だったが、Iは本名を名乗ることを拒む。担任はIとの10ヶ月の付き合いを経て、「このクラスでIのことを支えていくことはできる」と思い、Iの同意なしに「今までHRで朝鮮問題の討論を続けてきたのには意味がある。このクラスのHさんは本名をIといいます」と、在日朝鮮人であることを明らかにする。Iは「叫び声をあげて教室をとび出した」。担任は「このまま去らせたら取り返しのつなかいことに」なるので、他2名の生徒と追いかけ、校門のところで2時間かけて説得し、教室に連れ戻した。Iはこれをきっかけに「以前の彼女よりずっと明るくなったように私には思えた」と担任は語る。

 この担任がしたことは果たして正しかったのかが私にはわからない。担任が状況から判断して大丈夫だと思いしたことで、結果的にも大丈夫だった。が、Iは「叫び声をあげて教室を飛び出した」くらいの衝撃を受けており、本当にギリギリのところで踏みとどまったにすぎず、一歩間違えていたら不登校になり、多くのことが台無しになっていたのではないか、それまでのリスクを負って本名を、つまりは在日朝鮮人であることを明かすべきなのかと疑問に思っている。しかし一方で、強引な手段ではあるが、みなに在日朝鮮人であると知られてしまえば、もう開き直ることができるというのもわかる。Iはこのケースだろう。

 この場面が印象に残ったのは、それが私自身の吃音のことを思い出させたからだった。吃音は在日コリアンとは違い、カミングアウトしなくてもある程度はわかる。しかし、話さないという手段によって隠そうと思えばある程度隠せてしまうし、これは在日コリアンにおいてもそうだろうが、周囲にばれていても、その話題をタブーにしてしまうことがある。私は小学生のときからすでに吃音があったが、小学校は吃音を明かすことができる雰囲気だった。しかし、その後に進学した私立の中高一貫校では、吃音を恥ずかしいことと思い、できるだけ人前で話さないようにし、周囲の人に対しても吃音の話題はタブーにしていた。もし、そんななかで、中学か高校の先生に、「吃音という言語障害がある」などとクラスメイトに向かって言われたら、私は学校に行くことができなくなったかもしれない。だが一方で、強引にばらされることで、もう吃音を知られているのだからと、どもることをあまりおそれずに、人とかかわれるようになったかもしれない。ちょうどIのように。それはギリギリのところであり、当事者の私自身にもわからない。Iの担任は、Iに本名を名乗るように勧めるなかで、担任自身のことを話しながら、「他人に言えない隠しごとがあると他人と本当の付き合いはできないこと、思いっきり笑うこともできないこと、自分を大切にしない人間になってしまうこと」を話した。それは私にもよくわかる。私が吃音を受けいれることをはじめたのは高校3年からであり、大学に入ってはじめて周囲に明かした。そして今も人と話すときにどもることを受けいれる過程にあると感じる。それは自主的な選択によってなされた。Iが担任にされたように、強引に他人によってされたことはない。しかし、そのために、高校2年までは自身の吃音を否定し続けることとなった。Iにとって、私にとって、どちらがよかったのか言い切ることはできない。

 が、少なくとも私の感覚では、個人のマイノリティ性を明かすかどうかは、当事者の自主決定が何より優先されるべきだと思う。在日コリアンが本名を名のらないのは、日本社会による差別に当人が打ち勝っていないからだという言説が、今まで力を持っていた。もちろんそういう面もあるだろうが、そう言い切ることは、当人の選択の存在を無視することになる。そして、そういう言説が、在日コリアンでそれを明らかにしている人たちや、その支援者たちからなされてきたことも重要である。同じように、吃音を明らかにしている人たちが吃音を隠している人たちに、「吃音を明らかにせよ、正々堂々とどもれ」などと、言うことがある。私自身はどもることを気にしていたら話せないくらいの吃音なので、吃音を周囲に明らかにしているが、隠せる人が隠す気持ちもわかるし、私自身あまりどもらない時もあって、そういうときはいちいち吃音を明かしたりしない。マイノリティ性を明かすことは差別の可能性に向き合うことであり、その行動自体は評価されていいと思うが、それができない、あるいは選択としてしない当事者に、押しつけてはいけないと思うのである。

 

第3章 在日コリアンの美容師と朝鮮文化研究会の先生の話

 在日朝鮮人にかんするレポートを書くに際して、知人に話を聞いた。最後に、そのことをまとめたい。一人は、大阪府東部で美容室を営む男性、Sさんである。Sさんは京都府南部の生まれで、両親ともに在日朝鮮人である。両親は通名を使っており、Sさんもそれを当然として育ってきた。京都府南部には20歳頃まで住み、その後美容師になって東京でひとり暮らしをしたときも、通名を名乗っていた。が、神戸の三宮に移り住んだとき、周囲に外国人や外国系の人が多く、在日コリアンも本名を名乗っているのを見て、36歳にして本名を名乗り、在日コリアンであることを明かすことにする。三宮では店長として美容室をひらいていたが、差別を受けることは仕事上でも日常生活でもほぼ全くなかったという。しかし、家の都合で現在の大阪東部に移り住んだとき、そこでも美容室をひらいて本名を名乗り、在日コリアンであることを積極的に明かしたところ、嫌がるお客が年配の方を中心に多く、方針を変え、本名を名乗りつつも在日コリアンであることはあまり明かさないようにして、現在に至っている。この話を聞いて、地域によって差別されるかどうかが大きく異なるということに驚いた。Z中学は、本名を使える雰囲気であり、かつ本名を使うか通名を使うかどうかは当人に任されているが、三宮もそうだったのだろう。日本の各都市も、三宮のようになればいいと思う。三宮は歴史的に外国人が多いということがそうさせているのだろうが、外国人が増えている日本の各都市も、将来的には差別は減っていくのだと思う。Sさんは2015年にはじめて韓国を旅行し、韓国語ができないことなどから、自分は韓国人ではないと改めて認識し、本名のまま帰化することを考えているという。国籍は日本を選びつつも、親から受け継いだ本名は使うという、従来の枠にとらわれない新たな姿勢がここにも見える。

 また、池田市立池田中学で朝鮮文化研究会の顧問をしていた日本人の先生にも話を聞いた。そこには朝鮮半島にルーツのある生徒だけでなく、特にそれがない日本人の生徒もメンバーになっていた。活動も、朝鮮の太鼓チャンゴをたたくなど朝鮮の文化を学ぶだけでなく、茶道など日本文化も学んでいた。それは、朝鮮半島にルーツのある生徒が、日本人に「朝鮮に帰れ」などと言われたときに、「俺は日本が好きで、日本の伝統文化も勉強してる。お前はどうなんや?」と言い返せるようにと考えてのことだという。朝鮮文化研究会のようなことを日本人の先生がすると、在日コリアンの社会から反発が大きく、活動に理解のある在日コリアンの人たちにも協力を募っていたという。

 

参考文献

 

書籍

朴正恵『この子らに民族の心を----大阪の学校文化と民族学級』(新刊社 2008)

林竹二編『授業による救い 南葛飾高校で起こったこと』(怪書房 1993

 

論文

「在日朝鮮人の「混血」/「ダブル」の考察」(琉球大学法文学部研究報告書『多文化教育における「日本人性」の実証的研究』、2007

「在日外国人教育の課題と可能性――『本名を呼び名のる実践』の応用をめぐって」(『教育社会学研究』92集、2013

自由になりたい

さっき、自由になりたいということを書いて、お風呂に入ってシャワーで髪をゆすいでいて、「あ、ぼく、ほんまに自由になりたくて行動してるわ」と気がついた。

自由とは、今までしてきたことだけじゃなくて、別のやり方も選べるということだろう。

ぼくのメイン楽しみイベントのひとつ、からだとことばのレッスンも、声の出し方やからだの動かし方、さらには朗読やコミュニケーションのオルタナティブ(ふだんとは別のあり方)を求めて参加している。

最近はまっている、当事者研究や哲学カフェなどの対話の場は、思考やことば(概念)の自由を求めている。

本やネット、テレビなどで知識を得ようとすることや、映画や芝居など芸術にふれようとするのも、ふだんの生活を客観視しようとする態度だ。

さっき、京大に入ったのは一流大で社会に認められるのに授業に出なくていいからと書いたが、実際はそれだけでなく、京大に行けば良質な知がたくさん得られると思ったからでもある。

知識は人を自由にする。ふだん地縁や血縁に結びついて生きているが、知という普遍性にふれることで、生活を俯瞰的に見ることができる。そうすることで、新たな一歩に気がつくことができる。

自由を追い求めていけば、どうしてもここは譲れないとか、どうしてもこれが好きだとかいうものが見つかる気がする。そこにその人固有の実存がある。一度そこまで行って、その実存を組み立てて発展させるということがやりたい。井戸の底まで降りて、その人のための石を見つけて、塔を作りたい。

就職しなくても生きていけそう

メディアの仕事に関心があるが、それはあまり知られていないが良いものを世に紹介したいからだ。ぼくは年の割にはけっこうそういうの詳しいという自負があるんです。

これまでは本かなと思っていたけど、先日、出版社で働く人とじっくり話したところ、今の時代は、既に著名な人でないと本を出せないと聞いた。本にこだわったのは歴史に残ると思っていたからだが、ほとんどの本は出たらすぐに消えていくらしい… 本が売れない時代である。

となるとテレビかと思いさっき採用のホームページを見たが、民放はすでに一次採用が終わっていて、夏に二次採用があるらしい。しかしよく見ると、新卒でないと受け付けないというものがちらほら。

「大学を卒業したらすぐに働き始めないといけない」というルールがわりとあるが、いまいち理解できず、結局フリーターやニートをする期間ができてしまった。「卒業したら何するんですか?」と聞かれ、「うーん、バイトとか~」などと答えると、就活うまくいかんかったんやろか…という風に思われることが多いようだが、そもそも一社も受けていないので、受かるはずがないのである。

大学出たのに就職しないというのは社会不適合者っぽいが、京都大学に合格したとなると社会適合者っぽい感じがある。実際、就職のために努力する気にはあまりならないが、京大合格のためにはめっちゃ努力できた。そういうパターンは時々あるようだ。

別に大学に入ったら急に怠け者になったとか、性格が変わったというわけではない。自分の中では連続性を感じている。京大に入るために努力できたのは、社会に認められる範囲で最大限自由になりたかったからだ。一流大学の肩書きを得つつ、授業にそんなに出なくてもいいというのはいいとこ取りですばらしい。

今も自由になりたいと思っている。が、就職となると、そういうわけにはいかない。結構がんばって働かないといけない。がんばりたくないので困ってしまい、ノイローゼになるくらい悩んだ。

だが最近、あんまり働かなくても生きていけるっぽいということに気がついた。週に2日か3日働くとかで楽しくやっている人たちとよく会うのだが、すごく話が合う。社会にはあまり認められていなさそうだが、ありな生き方だ。

そういう生き方は元カリスマニートニート35歳までだから卒業したらしい)のphaさんや、『20代で隠居』の大原扁理さんなど、本やネットでは知っていたが、実際に会うことがなかったので、あまり現実感がなかった。でもここ1年くらいでそういう人たちとたくさん会っている。それですごく充実を感じている。

今のプランは、どこかの社員とか教員とかのメインの働き方をやってみて、無理だったらあきらめてバイトなどして生きていこうという感じだ。前までは「一度就職したら週5や週6、残業ありで働き続けないといけない。たいへんそうや~> <」という感じだったが、今は「トライしてみよう~♪」という気軽な気分になれたのでよかった。

歴史なき「平和教育」を乗り越えて内なるナショナリズムを表明したい

歴史認識

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 小学生のとき、熱心な「平和教育」を受けた。3・4年生で近代日本の朝鮮侵略と、先の大戦で日本が受けた都市空襲、6年の1学期で修学旅行先の広島の原爆について学んだ。

 その結果、「戦前までの日本はひどい国で、アジアの人たちをひどい目に合わせた。中国やロシアとの戦争に勝ったことで調子に乗って、無謀にもアメリカに戦争をしかけ、原爆を落とされ、負けた。敗戦で日本は反省して、平和を60年間守り続ける立派な国になった」という歴史観を持った。

 それがゆさぶられたのは、中3のとき、学校の図書室で小林よしのりの『戦争論』を読んだときだった。そこに述べられていた「大東亜戦争肯定論」に対し、はじめは非常に反発心を持った。だが、気になって読むのをやめることができない。中3から高1にかけて、図書室に置いてあった「ゴーマニズム宣言スペシャル」のシリーズを、何度も繰り返して読んだ。 

新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論

新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論

 

 

 小林よしのりの述べていたことで、一番はっとしたのが、戦争は歴史の中で起こるということだ。それはつまり、戦争は相手があって、原因があって起こるということだ。それは、小学生のときに受けた「平和教育」とあい対するものとして認識させられた。

 「平和教育」での戦争は、歴史がなかった。小3・4年のときは、歴史の授業はされていなかったし、広島の原爆を学んだ6年の1学期は、日本史の授業は平安時代が終わった頃だった。だから、「平和教育」では、日本史のじゅうぶんな知識なしに、近代日本、特に先の大戦のことを学んだことになる。

 6年の時に「平和教育」の授業で暗唱し、今もそらで歌える歌がある。「ヒロシマの有る国で」という歌だ。よく歌った(歌わされた)1番の歌詞は以下である。  

八月の青空に 今もこだまするのは

若き詩人の叫び 遠き被爆者の声

あなたに感じますか 手のひらの温もりが

人の悔し涙が 生き続ける苦しみが

わたしの国とかの国の 人の生命(いのち)は同じ

このあおい大地のうえに同じ生を得たのに

ヒロシマの有る国で 

しなければならないことは

ともるいくさの火種を 消すことだろう 


ヒロシマの有る国で/初音ミク

 素晴らしい詞だと思う。しかし、詞の中に、小6当時の私が、何度歌ってもわからなかったところ、そして、小林よしのりの『戦争論』を読んではじめてわかったところがある。

わたしの国とかの国の 人の生命(いのち)は同じ

このあおい大地のうえに同じ生を得たのに

 というところだ。「わたしの国」はわかる。日本だ。「かの国」はどこか。今なら当然こう答えられる。「アメリカ合衆国」と。でも、当時の私はわからなかった。それが意味するのは、私が受けた「平和教育」では、原爆を落とした主体が消されていたということである。そこでは、原爆を落としたのは、アメリカ合衆国ではなく、戦争そのものであった。あるいは、日本の侵略の罪と、それに対する天罰であった。アメリカ合衆国が登場するときは、その天罰の執行者という匿名的存在としてであった。

 この詞は、「かの国」ということばの存在によって、アメリカ合衆国が加害者の意味で登場している。ここは、現代日本に蔓延する「平和教育」的な視点では、「かの国」ではなく、「他の国」とされるべきところだろう。だが、作詞作曲をてがけた山本さとしは1983年当時*1そうせず、原爆を落とされた国=日本、落とした国=アメリカ合衆国という視点を詞に入れた。

 私の受けた「平和教育」は、原爆を落とした国=アメリカ合衆国という視点を排除した。あくまでも、原爆を落としたのは戦争そのものであった。原爆を落とした国としての合衆国の存在を気づかせると、合衆国に憎しみを持つ児童が出てくるだろう。教師は、それを怖れたのだと思う。憎むべきは戦争であり、合衆国ではないというわけである。

 確かに、それにも一理ある。私も、それが理想だと思う。だが、はじめから合衆国は憎まず戦争を憎むというのは、高度なことを求めすぎているように思う。原爆を落としたのが合衆国であると知り、それを(日本人として)許せない気持ちを持ちつつも、どう乗り越えるかというのが、自然であるように思う。

 (日本人として)と書いた。おそらく、「平和教育」ではそういう視点を排除したかったのだと思う。戦争が原爆を落としたことにすれば、敵は戦争であり、味方は人類全員である。だが、アメリカ合衆国が原爆を落としたことを思い出すと、民族としての日本が想起される。

 今の日本で、ナショナリズム民族主義)を表明するのは、非知性的な態度を示すことのように感じられる。国を超えて世界を見る方がクールという雰囲気だ。だが、私は自身が生まれ育った日本を、数多くの問題のある社会であると思うが、愛しているし、それを自由に表明したい。ナショナリズムの表明は、オリンピックなどスポーツの国際大会などにおいては日本社会に公認されているようだが、私はオリンピックには全然興味を持てないし、そもそも私が表明したいナショナリズムは、もっと本質的な(と私は思う)意味におけるものだ。

 それを述べる。私が大切にしたいのは、記憶としての歴史である。特に、先の大戦の戦死者の記憶が忘れられない。彼らが命をかけて守った日本を守りたいし、より良い方向に変えていきたい。そして、私のナショナリズムは、彼ら戦死者をはじめとした多くの日本人が、歴史的存在の日本を体現すると信じてきた天皇ーー国民のために祈ってくれる完全な公的存在ーーに集約される。

 私のナショナリズムは、権威主義とは違う。私は権威主義が大の嫌いである。私のナショナリズムは、権威主義に抵抗するための、倫理観として働いてくれる。私の内なる公共心が、ナショナリズムに支えられているのを感じる。

 例えば、私が今している竹内敏晴のレッスンを普及する活動にせよ、将来(今のところ)志している小学校教員にせよ、共に主な活動区域が関西であり、関西への愛郷心に支えられているが、同時に、日本をよくしようという愛国心*2にも支えられている。その先には、それが世界をよくすることになるという人類愛的な思想もある。

 結局、愛郷心愛国心も人類愛も、倫理観を求める働きによるものであり、どれがよくてどれが悪いということはないのだ。だが、現代日本では、愛国心だけが悪者になっている。

 それはどうしてか。先の大戦の結果で、愛国心があまりにも強調されすぎた結果だろう。しかし、悪いのは愛国心ではなく、愛国心を乱用することである。

 私が日本社会の成員に望むのは、一度先の大戦から距離を置いて、内にあるナショナリズムを見つめ直すことである。そうすれば、オリンピックや他国との紛争のような喧噪の時だけではなく、自分や家族、故郷、友人から同心円的に広がる、静かな愛国心がいつも存在することに気がつくと思う。その先には、人類、生きとし生けるもの、地球、宇宙、森羅万象への愛がある。それら全てを大切にすればいいと思う。

 だが実際、今の世界でナショナリズムは大きな力を持つ。時に戦争を引き起こしてしまうくらいに。だから、それが加熱しすぎないように常に注意しなくてはいけない。そのために、先の大戦を反省することはとても大切であると思う。だが、愛国心そのものは否定しないでほしい。

*1:

1983年らしい http://www.antiwarsongs.org/canzone.php?lang=en&id=3874 信頼できるソースは見つけられなかった

*2:ナショナリズムを的確に表す日本語はなく、国民主義民族主義愛国心などが当てられる ここでは愛国心を使いたくなった

「からだとことばのレッスン」琵琶湖合宿体験記

7月の三連休に、瀬戸嶋充さん主催の「からだとことばのレッスン」2泊3日の合宿が琵琶湖畔であった。 

宮沢賢治の物語を、3日間かけて芝居に起こすのである。

合宿がはじまる前から不安はほとんどなく、ひたすら楽しみにしていたのは、前回1月の神奈川県三浦海岸での合宿が、僕の今までの常識をひっくり返すくらいに楽しかったからだった。

その時も宮沢賢治の物語を読んだ。はじめは、朗読をするのだが、吃音のためにことばがつまってなかなか声にならない。そのために焦り、なんとか声を出そうともがく。だが、何度も皆でレッスンを重ね、朗読にしだいに動きが入り、それが芝居になっていくとき、どもるかどもらないかという意識を越えることができた。僕にとっていつも、人前で声を出すときにどもるかどもらないかは、とても重要なことであったし、今もそうだ。それは少なくとも僕にとって当たり前のことで、どもると、何せ目立つし、聞いている人もどうしていいか戸惑うことが多く、僕の方も申し訳なくなってしまう。ことばがのどにつまって出てこないことがはじまった、小学2年生の時以来、ずっと人前でつきまとった、「どもらなければいいな」という意識から、この芝居の瞬間はじめて自由になることができた。また、この時は、全然どもらずにセリフが言えたのだが、しかしやはりうれしかったのは、どもらなかったことではなく、どもるかどうかを含めて、ほとんどあらゆる自意識から自由になったことである。最後の3日間の集大成となる芝居では、『どんぐりと山猫』の山猫の小間使いのような役割の、「馬車別当」を演じたのだが、物語の世界に深く入り込んだためか、普段は使わない東北弁がすらすらと自分の生まれ育ったことばのように出てきて、馬車別当が楽しいときは楽しい感情が、悲しいときは悲しい感情が、それを「感情」と客観視する余裕も必要もなく自然とわき上がってきた。そうなると見ている方もおもしろいらしく、爆笑してくれるのだが、特にそれに気を取られることもなく、やはり馬車別当でいられるのであった。他の人も、とても自由で真剣で、30歳をすぎた人が犬や猫になって走り回ったり、喜怒哀楽が全身で表現されていて、それを客側で見るとおもしろくて仕方がなく、笑い転げてしまうのであった。

琵琶湖合宿1日目は、はじめはからだをほぐし、「ららららー」と声を出すことからはじまった。印象に残っているのが、ペアになって、「バカー!」と振り向きざまに叫ぶレッスンだ。ペアの人はIさんという男性。「バカー!」と言っても、言われても、あんまり気持ちよくないなとはじめ感じた。特に言われるときは、Iさんの顔がちょっと怖い。僕も怖い顔をしていたかもしれない。何度か、「バカー」と言い合う。すると、Nさんという女性が、このレッスンは合わないのか、やめて長椅子に座っているのが見えた。僕は特に気にせず続ける。どうすれば声が相手に届くかと考える。瀬戸嶋さんが「みんな、感情を込めて言おうとしている。感情は込めなくていい。音を届けることを考えればいい」と言われ、まずは「バ」だけ次に「カ」だけ、振り向きざまに言い合う。そうすると、さっきまであった嫌な感じがない。続けて、「バカー!」と言い合う。やはり嫌な感じはせず、ただ「バカー!」という音が出ていき、入ってくる。今まで、声をよく出すことは、感情を相手に伝えることだと思ってきたが、そうじゃないものがあるのではないかと気づく。気がつくと、Nさんは稽古場を離れて寝泊まりする建物に戻ってしまっていた。

次に、ペアになって宮沢賢治の『鹿踊りのはじまり』を読むのだが、僕はことばがのどにつまって、はじめは全然出てこなかった。ペアのKさんも、どうしたものかという様子。すると、瀬戸嶋さんが、「足で俺のからだを押してみ」と言う。かなり力を入れないと押せないが、そうすると全然出なかったことばが、とぎれとぎれに出てくる。「そこらが」「まだ」「まるっきり」という様子である。足がつったので手で押すのに切り替えて続ける。「天気のいい日に」「嘉十も出かけていきました」「糧と味噌と」「鍋とをしょって」と、次第に長くなる。そうしているうちに、押さなくてもリズムに乗って読めるようになってくる。実はこれは普段の定例会でも経験していることで、そんなに驚きはしないのだが、やはりおもしろいと思う。声を出すときに、腹から下に重さがかかっていることが大切なのだと思う。

夜は宴会。湖に向けて開けた和室で、お酒を飲む。竹内敏晴で卒論を書いた大学の先輩のKさんが、竹内の代表作『ことばが劈かれるとき』を見せてくれる。付箋やメモがぎっしりで驚く。僕も竹内敏晴で卒論を書くつもりなので、これくらい真面目にやらなくちゃいけないなと思う。

2日目は、2つのグループにわかれ、いよいよ芝居の稽古に入る。『鹿踊りのはじまり』の物語を説明すると、鹿6匹が人間(嘉十)の落とした団子を見つけるが、近くに一緒に落ちている何か生き物のようなものが怖くて団子に近寄れず、したがって食べることができない。まずそれが何かを鹿たちが交互に確かめる。そして、それが手ぬぐいだとわかり喜んで、団子を食べ、そのことを自然の神様に感謝するという話である。まずはナレーターをしたい人を瀬戸嶋さんが呼びかけるが、僕はどもるので、ナレーターをするのはいつも遠慮してしまう。希望者がいてすぐに決まり、たまには挑戦してもいいのかも…と思うが、まあいいか、とも思う。

舞台は大きな和室の部屋で、それを半分は舞台、半分は客席にする。1つのグループが舞台にいるときは、もう1つのグループは客席にいて稽古を見るのだが、別に真面目に見なくてもよくて、たいてい寝転がっており、眠い人は寝ている。「からだとことばのレッスン」を創始した竹内敏晴がよく書いている「したくない自由」は、瀬戸嶋さんも尊重されているようで、したいことをして、したくないことはしなくていい。それはレッスンの内容でもそうである。稽古では、よく瀬戸嶋さんが途中で止めて、アドバイスをし、瀬戸嶋さん自身で演じることもある。瀬戸嶋さんの動きはとてもおもしろく、声をたてて笑ってしまう。

琵琶湖で泳いだことについても書きたい。湖水浴は小学1年以来だったと思う。初日のレッスンの前に泳いだが、水温はぬるかった。奥まで行くと足がつかなくなる。プールにはたまに行くが、プールはどこも足がつく。だから足がつかないのはおそろしく、奥には行かないようにする。水はわりに濁っている。2日目の昼は、川が湖にそそいでいるところに行ったが、川の水はとても冷たくておどろいた。河口はブラックバスがよく釣れるらしく、釣り人がたくさんいる。浜からは、比良山地1000m級の山々が見渡せ、壮観である。

2日目の夕暮れは、皆で琵琶湖畔に行き、「ららららー」と声をだして、セリフを読んだ。波の音(行くまで忘れていたが、琵琶湖も波があるのだ)に負けないように、広大な湖に向かって大きな声が自然と出る。そうしてから稽古場に戻ると、みな声の出方が全然違う。とても大きく、広がりのある声になっている。

その日の夜も宴会。以前から一緒にレッスンを受けている、年上の笑顔の美しい女性Mさんにひざまくらをしてもらっていた。実に幸せな気持ちになる。みなに「男性陣はみな嫉妬してるよ」とか「これは八木くんにしかできないわ」と言われ、少しいい気になる。瀬戸嶋さんが「俺の役割を取られちゃった」と言うので、「どういうことですか?」と聞くと、瀬戸嶋さんも昔はレッスンの後に、女性にひざまくらをしてもらっていたらしい。その点では、師匠の後を継ぐ忠実な弟子になることができている。以前の合宿で知り合ったYさんにもひざまくらをしてもらう。ちなみに、ひざまくらをしてもらうのは、10代以降ではじめてであったように思う。普段は、そうしてもらいたくてもお願いできないのだが、ずいぶんリラックスできたおかげである。その後、野口三千三さんのレッスンの動画を見る。20代後半くらいの瀬戸嶋さんも映っていて、「今と全然違う」「好青年や~」とみんな言うし、僕も思う。でも瀬戸嶋さんは「今と似た部分があっておもしろかった」と言う。瀬戸嶋さんは、「俺は若い頃は人とコミュニケーションが全然取れなかったし、自由に表現することもできなかった」とおっしゃっていて、その瀬戸嶋さんが今、こんなに内のすばらしいものを表現されていることがすごいなと思う。僕は思うのだが、すべての人が、内なるものを自由に表現できる才能を持っていて、その表現はそれぞれに個性があっておもしろいものだ。だが、どうしても常識や自意識にとらわれて、自由な表現ができない。しかし、瀬戸嶋さんのように、そのことに取り組み続けると、自意識の壁を少しずつ乗り越えていくことができる。レッスンでは、どうしても自意識の壁をうまく越えられる人と、うまく越えられない人がでてきてしまうが、後者の人もレッスンに来続けているのがすごいことだと思う。それだけみな、可能性を感じているのだ。

3日目は、午前から昼過ぎまでリハーサルをして、それから本番である。リハーサルまでは、時々ストップが入り瀬戸嶋さんのアドバイスがあるが、もうここまで来ると、かなり物語に入ることができる。疲れがたまっているはずなのだが、いざ舞台に立つととても元気に動くことができる。鹿の役で、ずっとぴょんぴょん飛び跳ねることができる。セリフを言っても、客席の人たちが笑ってくれるようになる。

昼はピラフが出たのだが、3杯も食べてしまった。その後、琵琶湖で泳ぐ。足のつかないところまで行ってみる。おそるおそる進んで行ったが、意外と足がつかなくてもなんとかなるものだった。遊泳区画の一番奥まで行って、戻ってくる。

そして本番。本番は瀬戸嶋さんのストップも入らないし、客席の人たちもわりと真面目に見ている。本番の直前になってはじめて、緊張を感じる。でも心地よい種類の緊張だ。テンションがあがって意味もなくトンビのまねをしたりする。セリフは、決まっているところと、そうでないところとがある。はじめの方は特に決まっていないのだが、自然と言いたくなって言う。今回は前回の合宿とは違い、本番でも、わりとどもりが出る。が、そんなに気にならない。ひたすら、演じることが楽しい時間だった。固定したものはほとんどなく、さっきやったリハーサルともまた違った動きが出てくる。客席の人たちも、よく笑ってくれた。一緒に演じてすごかったのが、NさんとYさんである。ともに、ボディーワークを長く教えられているせいか、からだが物語に深く入り込んでしまっていて、彼女らに僕のからだが動かされる。セリフを言うときも、つい彼女らの顔をみて言う。Nさんは70代前半の女性なのだが、全然年を感じさせない。汗だくになって、本番は終わった。

何かまとめようと思ったが、書くことが思いつかないので、ここで終える。合宿で出会った人たちに感謝する。みなさんの個性が印象に残っている。

ジェンダーの規範から自由になるーー異性装という選択肢ーー

 最近、服を買いに行くのが楽しい。女性服を買うようになったからだ。

 私は身長が150cm代後半、体重が40kg代前半と非常に小柄で、男性服は基本的にどれも大きい。Sサイズでもだいたい大きい。

 それでも、いつも男性服の売り場に行って、その中で一番小さい、それでも少し大きめの服を買って、袖をまくったり裾を折ったりして着ていた。

 でも、あるきっかけで女性服売り場に行くと、自分のからだに合ったサイズばかりで、選択肢が今までとは比べものにならないくらい増えた。女性らしさを強調した服以外にも、ユニセックス的な服はたくさんあり、それらはよく注意しないと女性物とわからない。今まで着ていた服よりからだに合っているので、着心地もいいし、見た目もカッコいい。

 とはいえ、女性服しか売っていない店に行くと、人目が気になってしまう。今は、ユニクロ無印良品に行っているが、これらのいいところは同じフロアに男性服と女性服の売り場があることだ。「男性服売り場に行くつもりだったけど、この店に慣れていなくて迷い込んだ人」とか「男性服売り場に行くつもりだったけど、なんとなくついでに女性服売り場に来てみた人」という設定にして、のびのびと女性服を見ることができる。男性服と女性服でほとんど同じデザインのものも多い。

 でももう少しおしゃれな感じの店にも行きたいので、妹にお願いして、「妹の買い物に付き合っている人」の設定で行ってみようと思う。いつかは自分一人でも女性服専門の店に入れるようになりたいが、もう少し時間がかかる。

 今まで、「男性服しか着ちゃダメだ」と思い込んでいたのが、もったいなかったな~と思う。そういう、自分の利益にも他人の利益にもならない規範意識は取り払ってしまうのがいい。

 女性服を着るようになったきっかけとは、「女性装」という言葉を生み出し、必ずしも男性服にこだわらず、女性服を含めて「私にとって自然な格好」をするという、安富歩さんの『ありのままの私』を読んだことだ。安富さんは、セックスは男性で、従って自動的にジェンダーも男性として生き、京大を出て三井住友銀行に勤め、若くして東大助教になるという、「エリート」の典型のような人生を送ってきた。だが、精神的な違和感は社会的地位が上がるにつれどんどん大きくなり、とうとう危機に至って、それまでの生き方を振り返ることになった。そうすると、自分を縛っていた、本当はいらない価値観に気がついた。その一つが「男らしさ」で、男性の服装をやめることはその象徴のようなものとなった。

 

ありのままの私

ありのままの私

 

 

 安富さんの写真を見ると、性的な意味ではなく、純粋にきれいだな~と思う。男性服を着ていた時の写真よりもずっと自分らしさが出ていて、美しい。

wotopi.jp

(話がそれるが、女性向けネットメディアwotopiは男性の私が見ても参考になる記事が多く、良質なメディアだ)

 

 私は今は男女どちらが着てもいいような服の、女性用サイズを着ているが、安富さんのように女性っぽい格好もできたらいいな~と思う。「今日は男性っぽい感じに」「今日は女性っぽい感じに」と、その日の気分で服装を分けることができたらおもしろそうだ。

 私はいわゆるセクシュアルマイノリティの自覚はない。98%くらいはヘテロセクシュアルと自覚している(私に限らず、たいていの場合100%とは言い切れないものだと思う。少年愛がしばしば見られた古代ギリシアや前近代日本の例を見ても、「ほとんどの人が100%ヘテロセクシュアル」というのは違うんじゃないだろうか)。だが、つきつめれば誰もがセクシュアルマイノリティである。

 「勉強も部活動も頑張っています」というのが日本の中高生の「あるべき姿」であり、特に男子の場合、その「部活動」は運動部のことだ。だが私は、運動そのものはわりに好きだが、前述した体格の小ささのために、同級生の男子に部活動という「競争」で勝つことはできず、中一で入った運動部はすぐにやめてしまった。まずこの時点で「健全な男子生徒」からは外れてしまっているが、幼稚園の頃から男子・男性社会に特有の粗野な感じはとても苦手で、小学生の時は女の子と教室で話をしたり一緒に帰ったりするのが好きだった。中高は男子校に通い女性との交流はほとんどなくなったが、共学の大学に通い、大学外でも活動をして、女性と付き合う機会がある今は、中高と比べて格段に居心地よい人間関係ができている。こう見ればわかるように、私は一般的な男性よりも女性性が強く、「男らしさ」の規範には適応できないし、したくない。そんな中で、安富さんがしたように女性の服を着ることは、「男らしさ」の規範から自分を自由にする象徴になり、希望が持てる。

 今の話は、私自身の吃音にもいえることだった。高校生までは「『普通』に話さなくてはいけない。そうできない自分はダメだ」と思っていた。だが、その「普通」という規範から逃れられた時に、ぐっと楽になることができた。

 私はジェンダーについても、規範からもっと自由でありたい。体格が小さいから、運動部じゃないから、文学部に通って「実学」をやらないから、「男らしくなくてダメだ」と言われるなら、そんな「男らしさ」なんていらない。ジェンダーの男性である前に、私は私なのだ。

「集団的記憶」との向き合い方〜先の大戦と東日本大震災を例にして〜

 一般社会的には異常なことと思われそうだが、私は毎日のように先の大戦のことを考えている。本を読んであれこれ考えることもあるが、ここで言うのはそうではなく、朝起きて歯を磨いているときや、自転車に乗っているときなどにふと、70年前のイメージが浮かんできて「むかし戦争があったなあ~ あの時はたいへんだったなあ~」となんとなく思い出して、すぐに忘れる。それを毎日、10年くらい続けているような気がする。

 ある年配の知人が、「私のからだには、戦争に行った父のPTSD心的外傷後ストレス障害)が引き継がれている」と言っていた。その人は、「人の苦しみは人に伝わっていくものだ。特に、親の苦しみは直接的に子に伝わる。自分に今ある苦しみを、自分で救うことが、世のためにもなる」と続けた。

 先の大戦は当時の日本人全体に深い傷を与えた。だから、今述べた知人のような個人だけでなく、現代の日本社会全体にも、先の大戦のPTSDがあるのだと思う。それは癒やされるべきものだし、戦後の70年間をかけて、徐々に癒やされてきている。

 村上春樹が使っていた言葉だが、私たちは先の大戦の「集団的記憶」を持っているし、それを多くの人、次の世代を担う人と共有しようとしている。だからNHKは毎年いくつもの戦争特番を製作し、学校では「平和教育」が熱心になされる。村上春樹は父が従軍した中国大陸での戦争のことを書き、それを多くの人が読む。集団的記憶はその力強さのために固有性・異端なものを抑圧してしまうという危険な面があるが、人々を結びつける力を持っていて、ある程度の部分は、孤独を解消してくれる。

 私が先の大戦に「異常」なほどに関心を寄せていることも、単に私個人の興味だけではなく、現代日本に生きる一人としての必然性のようなものを感じている。つまり、私が先の大戦のことを考えることは、日本社会が先の大戦のPTSDを癒やそうとすることの一部であるということである。

 私たち現代の日本人が、先の大戦に思いを馳せ、あるいは涙を流す毎に、私たち自身の戦争の傷が癒やされ、社会全体の戦争の傷も癒やされていくことだろう。

 だが同時に忘れてはいけないのは、先の大戦にあまり関心が持てない人がいてもいいということである。それぞれがしたい範囲で、先の大戦のことを考えればいいと思う。同じことが、東日本大震災など他の集団的記憶にもいえる。私自身のことをいえば、東日本大震災の死者には、日本社会がその構成員に求めている(と私が感じている)ほどには、関心を持っていない。NHKなどが多く作る東日本大震災の特番は集団的記憶を強いられているようで、居心地の悪さも感じている。だが一方で、日本社会は東日本大震災で精神、身体、あらゆる面で傷を受けており、東日本大震災のために涙を流す人たちは必要である。人にはそれぞれ事情がある。私が先の大戦に思い入れがあるのにも、先に述べた集団的記憶の他に、個人的な記憶がある。むしろ、こちらの方が影響としては大きいだろう。私は小学校で熱心な「平和教育」を受け、ずっと先の大戦に関する本を読んできたし、岡山大空襲を経験している祖父母と同居し、長崎の郊外出身で兄を原爆で失った祖母が近くにいる。一方、東日本大震災は私が住む関西から遠い東北の出来事で、2011年当時は行ったこともなかったし、知り合いもいなかった。集団的記憶にはそれぞれのやり方で向き合えばいいし、強要するものでもされるものではないと思う。

吃音のドラマ『ラヴソング』が作る「大きな物語」と、それが語り得ない「固有の物語」

 吃音をテーマにした月9のドラマ『ラヴソング』が放送されている。多くの人に吃音を知ってもらうきっかけになることで、吃音当事者としてありがたく思う。こういう人もいるということを、事前に知ってもらっているだけで助かることが多々ある。

www.fujitv.co.jp

 『ラヴソング』は吃音をテーマにした作品の中で、日本ではかつてない影響力を持つことになるだろう。世間の吃音観はこのドラマに大きく即したものとなるだろうし、吃音者自身も、ドラマに自分を重ね合わせるだろう。『ラヴソングは』いわば吃音の「大きな物語」となる。

 だが、そこには常に危険が伴う。「ラヴソング」で語られる吃音は、多くの人が共感できるように、ある程度一般的な吃音となり、ある程度一般的なコミュニケーションの苦しみとなる。

 しかし、一般的な吃音、一般的なコミュニケーションの不全感は実在はしない。本当にあるのは、固有の吃音であり固有の苦しみである。

 一般的なものを否定しているのではない。私自身、吃音に深く悩んでいた高校2年のとき、吃音の人が書いた本を読んで、「吃音で苦しいのは自分だけでない」と知り、大いに救われた。「ラヴソング」も、吃音や、その他の言語障害、あるいはコミュニケーションに悩む、かつてないくらい多くの人々を救うだろう。

 忘れてはいけないのは、『ラヴソング』のような「大きな物語」の後ろに、耳を澄ませないと聞こえないくらい小さな「固有の物語」が、人の数だけあるということだ。ドラマで出てこない、その人自身の、不合理で、万人には共感ができない固有の吃音が、固有のコミュニケーションの苦手意識が、そしてもちろん固有の楽しさやうれしさがあるのだ。

 『ラヴソング』に共感できる多数の吃音者が、個性が強すぎて共感できない少数の吃音者を排除するということがあってはならない。「その吃音は、その苦しみは、『ラヴソング』で描かれたものと違うから、間違ったものだ」などということは絶対にないのである。

 「大きな物語」は、多くの人を情動的に内包できるもので、それ故に力強さを持つ。そして、人は多数派であるときに、自分を「正しい」と思って、それに当てはまらない人を抑圧しがちである。『ラヴソング』でも、同じ事態は、それが目に見えないものでも、起きてしまうと思う。だが、自分を多数派と思っている人も含めて、「大きな物語」に含まれない固有性を誰しも持っている。

 固有性を大切にして生きたい。自分の苦しいことを語るとき、楽しいことを語るとき、「これは『ラヴソング』で描かれなかったものだから語らないでおこう」と思いたくないし、思わないでほしい。堂々と自分の物語を語っていいし、自分の生き方をして固有の物語を作ればいい。私が書いているのも、私の物語に過ぎない。もちろん、一般性を求めて書いている部分もあるが、受けいれられないところがあってもいい。そういう気持ちで書いていくし、そういう気持ちで生きていく。

本当の自分を取り戻す

コミュニケーション

 何か書きたいと思っていたが、ずっと書くことができなかった。台湾から帰ってきてから新しい変化がたくさんあり、気持ちが整理できていないためだが、整理できないままでもいいから書くことが必要と思って、パソコンを開いた。

 2009年に亡くなった演出家に、竹内敏晴という人がいる。旧制高校に上がるまで耳が聞こえなかった竹内は、聞こえるようになってから努力して言葉を話すことを覚えた。私たちは特に意識的な努力なしにことばを話すようになるが、それを意識的にできるようになることは、たいへんなことであると想像できるだろう。だからであろうか、竹内のことばに対する感覚は鋭敏である。

 竹内は、ことばには「情報伝達のことば」と「表現としてのことば」があるという。今の社会は、前者ばかりを重んじているが、ことばの本質は後者である。人が手やからだで誰かに触れるように、ことばで人に触れることができる。

 この竹内のことばは、吃音者である私にとって、深い実感と励ましを与えてくれた。吃音は、もちろん情報伝達には不利である。だが、私にはどもること自体が何か悪いことであるとは思えない。どもるからこそ生まれることばの力や、どもること自体のおもしろさがあるのは、どこかで感じていた。

 竹内は、演劇の手法で人とのかかわり方やことばの使い方を見直すレッスンを開いていた。竹内のレッスンを引き継いでいる人のところにレッスンに行っているが、何度も衝撃を受けている。朗読や芝居をしても、どもっていい読みができたなと思うこともあれば、どもらずいい読みができたと思うこともある。芝居に入り込んでほとんど自我が消えてしまったことも一度だけあって、その時は実に愉快だった。他にも、下半身をゆらしてゆるめると、声が変わったりする。ことばを出すということ、それ自体がとてもおもしろいことだ。

 

ことばが劈(ひら)かれるとき (ちくま文庫)

ことばが劈(ひら)かれるとき (ちくま文庫)

 

 

 吃音のために、社会に適応するのに困難がある人は多くいるようだし、私自身そういう部分もある。できるだけどもらないようにするために言語聴覚士などの元で訓練を受ける人もいる。だが、そういうことばからはその人の個性が消えてしまっているように見える。これは、私がお金に苦労したことがない人間だという罪悪感を持ちながらあえて言うことだが、社会に適応することが、そんなに大切なことだろうか。社会に適応できない部分にこそ、その人の個が見えて、その個が互いにぶつかり合いながら、いかに折り合いをつけるかがおもしろいのではないだろうか。

 金を稼ぐことは大事だが、そればかり追求していくと、社会が求めるものに自分を合わせるだけになる。個の尖った部分をどんどん削っていき、社会が求める「平均的人間」に近づいていく。今、いわゆる「優秀」とされているのは、そういう人が多いのではないだろうか。ペーパーテストでいい点数を取り、東大や京大に入り、大企業に入る。それはシステムの歯車としての優秀さしか示さないのではないだろうか。人間存在の本質は、金を稼げること=社会の求めることができることにとどまらないはずである。もっと混沌としていて、非合理的なところにあるはずである。

 吃音であること、あるいは何らかの障害や困難があることは、ある意味幸せなことであるように思う。社会に適応しづらいという点で幸せである。社会に適応できない中で、個としての自分を考えざるを得ないために幸せである。

 今の社会は、仕事ができることが大切にされすぎているように思う。仕事をすることで、経済的に自立して、社会の役に立つことができると人は言う。経済的自立はわかるような気がする。私もいつまでも親の金で生きていきたくはないし、他の人がそう思うのもわかる。だが、社会の役に立つというのはどうか。水俣病の原因となる水銀を海に出している会社で働いていた人は社会の役に立っていたのか、大東亜戦争の時に児童生徒に国のために死ねと言った教師は社会の役に立っていたのか、発展途上国の子どもを働かせて作った製品を売っている企業で働く人は社会の役に立っているのか。近代社会で金を回すという点では社会の役に立っていただろう。だが、大きく宇宙の調和を考えたときに、それはむしろマイナスになっている。もちろん、消費だって同じである。だから、この近代社会に適応して金を稼ぎ使うことは必ずしもいいことではないのに、働いていることに偉そうになって、働いていない人をさげすむ人が多すぎるように思う。働いていない人の方が、近代文明に寄与しないという点で、宇宙の調和にはプラスになっているかもしれないのに。もちろん、生きていくために仕事は必要である。だが、生きていくためにしていることを、そのまま社会、宇宙のために正しいことをしていると思ってはいけないだろう。

 まだアルバイト以外に働いたことがない私が上記のようなことを述べる資格があるのか疑問だが、大学生活も終わりに近づいて、どういう仕事をしないといけないかを考えたとき、また吃音を持ちながら働いていくことを考えたときに、思い浮かんだことを述べた次第である。

 大学を出て、何の仕事をするか。私は近代の物質文明が積極的には好きになれない(と言っても、そこでしか生きられないのだが)から、それとは直接関係のない、教員にでもなろうかと思いはじめている。何の仕事をするにせよ、どのような生き方をするにせよ、宇宙の一部として自分を捉えるとよいのだろうと思う。

 近頃は、大学を出てからどうするかと思い悩むことが多くなっている。一昨年の終わりもそうで、その時はどうしようもなくなって休学を決めた。今もそうだが、自分の頭の中でぐるぐる考えてしまって、苦しくなってくる。だが、竹内さんの本を読んでレッスンを受けるなどしても思うことだが、結局はからだが知っているということだ。からだが求めることをするしかないのだ。大学生になってからよく読んだ、村上春樹phaさんも、からだを大事にしているし、精神科医の泉谷閑示などもそうだ。私はもともと、そういう考え方が好きなのだと思う。もっとからだのことを知りたいし、そのために竹内レッスンはもちろん、気功や座禅などできることをしていきたい。そういう方法で、思考ばかりで苦しくなってしまっている現状から抜け出して、本来の、からだに根ざした私自身を浮かび上がらせることができると、もっと楽に生きられるだろうし、それが他者や広くは宇宙全体のためになるのだろうと思う。

高校がつらければ中退して自力で勉強して大学を受けるのもありだと思う

学校教育

 中高一貫の女子高生が書いた文章を読んだ。

anond.hatelabo.jp 

 私も中学受験をして、中高一貫男子校に通った。

今は虐められてるわけじゃない。友達も少ないながらもいる。感謝しなくちゃいけない。

でも、居場所がない。宙ぶらりんのまま落ちないように気を張ってる。

 そして、彼女の上の言葉は、私が中高の頃に感じていたものと、似ていると思った。余計なお世話かもしれないし、もしそうだったら無視してくれたらいいのだが、彼女を始めとした、学校に行きにくい中高生に向けて、文章を書きたい。

 私は、吃音が大きなコンプレックスで、中2から高2ごろまで、10名前後の友達を除いて、周囲に心を閉ざしていた。

 特に、授業で当てられるのが嫌だった。当てられるたびに、クラス40名の前でどもるのが嫌だった。だからといって、私だけ当てられないのも嫌だった。吃音については、先生も級友も、誰とも話をしなかった。一人で抱え込んでいた。

 というわけで、授業にはあまり集中できていなかったように思う。初めての大学受験では第一志望の国立大学に落ちて、私立大学に行った。だが、その大学が3カ月で嫌になって、後期は休学して、もう一度第一志望を目指すことにした。

 ちょうど両親が離婚して家庭が暗かったので、祖父母が住む地方の県庁所在都市に移って、県立図書館で一人勉強した。もっと充実した中高生活をすればよかったという強い後悔に苛まれつつ、参考書を使ってかなり真剣に勉強をしたら、成績は急激に上がった。秋からはペースが落ちたが、センターも二次も満足いく点数を取ることができて、受かった。

 何が言いたいかというと、もし増田が、高校に行くのをやめたいが、大学受験のことを心配してそれができないと考えているのだとしたら、受験は独学でも何とかなるだろうということだ。精神的に不安定な状態で授業を受けるよりも、落ち着いて一人で勉強した方が成績は上がるのではないかと思う。少なくとも私の場合は、そうだった。 

 もちろん、受験は過程にすぎない。偏差値の高い大学に行けば、すべてがうまく行くというものではないだろう。少なくとも私は、新たに入った大学でも、主にコミュニケーションで、とても苦しんだ。今も、就職を前にして、不安が大きい。

 だが、人生では、なんとか前に進めているという感覚が、大切なのではないかと思う。初めて入った私立大学で、ほとんど行き詰まったときに、一人で勉強して国立大学を目指すという選択肢を持てたことは、私を助けてくれた。増田が本当に、今の学校の生活に行き詰まったときは、学校をやめて一人で勉強して、高認を取り、受験をすることもありだということを伝えたかった。 

 ブコメに、家庭と学校以外の人間関係を持てばいいという意見があったが、それもかなり有効だと思う。私は高校生の頃は、そういうものはなかったが、大学生になって色々なコミュニティに関わるようになって、人間関係には、家庭やクラスのような閉塞的なものだけでなく、もっと開放的なものもあるのだと知ることができたし、そういう関係の楽さに、心地いいものも感じている。