小学生のときに勉強を教えてくれた近所のT先生のこと

家から歩いて3分くらいのところに、T先生という人がいて、この人に小学4・5年のとき、勉強を教わっていた。先生が近所の小学生を集めて、公民館で小さな勉強会をしていたのだ。授業料は気持ち程度だったから、先生は趣味のような感じでやっていたのだと思う。ぼくはそこに楽しく通っていた。それぞれがもくもくと算数のドリルを解いて、先生に見せて合っているかチェックしてもらうなどしていたと思う。時には先生が「スタンド・バイ・ミー」(感動したのでよく覚えている)などの映画を見せてくれたり、望遠鏡で月や星を見せてくれたりした(月が本当に凸凹していて驚いた)。

だがぼくは、中学受験をするために小5の後半から大手の塾に通い始め、その勉強会に行くことをやめた。勉強会は通う子どもたちがいなくなって、ほどなく終わったらしい。

ぼくは無事私立中学に合格した。それまでは小学校のつながりで近所の同級生とそのお母さんたちとのかかわりがあったが、それもなくなった。そして、ぼくは小学生の時の同級生やその親を避けるようになった。

どうして避けたかというと、ぼくは吃音があって、まだそれが治っていないと知られるのが怖かったからだ。中学2年のとき、同級生に声をかけられたのに、知らないふりをして逃げたことだってある。

昔を知る人に、吃音が治っていないことを知られるのが怖いというのは、今もそうだ。近所の人たちとも、挨拶以上の会話ができない。親戚の人たちの前でも、できるだけ話さないように振る舞ってしまう。もっとも、それは祖母が近所の人や親戚にぼくの吃音を知られたくないと思っていて、ぼくがそれを意識せざるを得ないということがある。

ちなみに、初対面の人と話すのも苦手だ。どもったときに、冗談でやっていると思われたり、「外国人かと思った」などと言われたりするのはすごくつらい。そういうことが時々あるから、ぼくが吃音だと知らない人と話すのを、ついつい避けてしまう。吃音で一番嫌なのは、どもること自体ではなく、どもるのを怖れて人と話せなくなることだ。昔よりはマシになったが、今もそういう気持ちはある。それがなかったら、もっと多くの人と話せ、仲良くなれるのにと思うと、ただただ悔しい。(よくあるのは、京都のバス停などで困っている外国人を見て、助けてあげたいと思っても、英語では吃音がよく出るので、ほとんどの場合見て見ぬふりをする。「どもるのを怖れているだけじゃないか。人のことを考えていたら、どもってもやれるだろう。結局自分のエゴだ」と思ってみたり、「外国人と話してみたいというミーハー心由来だから別にいいだろう」と思ってみたりする。でもやはり心残りになる。言いたいと思って、でもどもるのが怖いという葛藤が起きたら、できるだけ言いたい気持ちを優先するようにしている。でもそうできないことが週に1回くらいはある。)

さて、高校を卒業し一浪を経て、ぼくは京大に受かった。T先生も京大卒で、父は「T先生に挨拶に行くべきだ」と至極まっとうなことを言い、ぼくは気乗りしなかったが父と一緒にT先生のところに行った。そのようにして、6年ぶりくらいにT先生に会った。その時のことは全然覚えていないのだが、父もコミュニケーションの下手な人だし、ぼくはT先生の前でどもるのが怖かったと思うし、すぐに話は終わった。

それからまた、6年経つ。T先生もかなりお年だし、ぼくのことを覚えているか不安がある。でも、せっかくすぐ近所にいるのだし、また会って感謝のことばを述べたい。

昔の知人に会うのが怖いという気持ちも、かつてよりはだいぶ薄らいできたと思う。相変わらずどもっているのが自分だし、大学を卒業して就職していないのが自分だ。もっと時間が経つとT先生と話せなくなるかもしれない。その前にちゃんとお礼を言いたい。勇気を出したいが、できるだろうか。

「死にたい」がふっと生まれすぐに消える

ぼくはすぐに「死にたい」と言う。本気で死にたいわけじゃなくて、むしろ近頃はだいたい毎日楽しいのだが、それでもふと、何もやる気しないな〜というときや、将来不安だな〜考えるのめんどくさいな〜などと思ったときに、「死にたい」と口に出る。口に出てから、「あっ、また言ってしもた」と思うが、自然にすぐ忘れる。「死にたい」は、一瞬だけ発生するもので、言う前にも言う後にもない。夜空に突然小さな花火が光ったような感じだ。

また、過去の恥ずかしいことに対するフラッシュバックがずっとあって、その時も「死にたい」と口に出る。「過去の恥ずかしいこと」は、客観的に見るとしょーもないことなのだけれど、思い出したときのダメージがすごく大きい。道を歩いているときや、お風呂場でシャワーをしているときなどに、パッと花火のように思い出され、「死にたい」と早口で口に出る。外にいるときは、人に聞かれるとまずいとわかっているからか、そんなに大きな声にはならず、ひそひそ声のような大きさで口に出る。でも時々、ちょっと大きくなってしまうことがあって、その時は、近くの人に聞こえたかな…とちょっと焦る。

死にたいと口に出て、そうか、ぼく死にたいんか〜と気づく。死にたいという気持ちはあるけれど、同時に死ぬのが怖いとか、生きてたらもっとおもろいことができるという気持ちがあり、そちらの方が大きいことと、たぶんこれが重要なのだが、死にたいと思ってしまうこと自体が怖い(そう思うことは死に近づくことだから)という気持ちがあって、死にたい気持ちは普段抑圧されているから、無防備なときにパッと出てくるのだと思う。それが、今のつらいことや不安と結びつくのはわかるけれど、過去の恥ずかしいことと結びついているのが不思議で、調べようと思っている。一つには、「存在の危機」ということがあるように思う。「存在の危機」はぼくが最近よく使う言葉で、人間の行動や思考の根源の一つというイメージだ。しかし、これ以上うまく説明できない。

上に述べたような「死にたい」は一瞬で生まれ消えるもので、この文章を書いている今は、死にたいという気持ちは上とは別種類の、いつもある分しかない。死にたい気持ちを推測しても、死んだら全て終わりで楽くらいしか思いつかない。でも、それが大きいようにも感じられる。

ここまで書いて、自分の死にたい気持ちを認めてあげたいなと思った。書けて少し楽になった。

目的意識から離れる

吃音を治したいと小学生の頃から思ってきたし、今もそう思っているのだけれど、実際に治そうとするのは大学生の数年間にしただけで、今はもう疲れたからやめてしまった。治るかどうかわからないのに、色々と病院に行くのは消耗する。知り合いの吃音の人もわりとそんな感じで、若い人は治そうとしてがんばってるけど、おっちゃんおばちゃんはもうええわって感じでいる。

からだとことばのレッスンや気功は、吃音が治ることを期待してはじめたのだった。しかし、やってみると治るとか治らないとか関係なく、それ自体がとても楽しいことだった。

先月のからだとことばのレッスンでは、はじめの自己紹介で、「吃音があってそれで治したいと思ってはじめたんですけど、あんま治りそうにないなあって」と言ったら、ウケた。「楽しいから来てます」と続けた。実際、からだとことばのレッスンや気功をするようになったから吃音が軽くなったという感じはあんまりしない。かといって意味がないという感じもしなくて、このまま続けてたら何年後かに、急に吃音が出なくなる日が来る感じがする。

気功の先生が、「からだは急に変わることがあります。そのために、準備をするといいです。でも、変わろうと思いすぎない方がいい。自意識の働きに、からだは必ず反発するものだからです」ということを言っていた。

からだとことばのレッスンの瀬戸嶋先生にせよ、気功の先生にせよ、ぼくの吃音の症状を全然気にしないところがいいというかすごい。吃音みたいに目立つものがあると、それをなんとかしようとして先生の方が頑張ってしまい、レッスンを受ける側も、からだが期待に答えてくれないことで疲れてしまうことがあるものだが、というかそういうことが以前あったのだが、先生の方が特に気にしていなかったら、ぼくも気にせずにレッスンに行くことができる。

声を出すということは、吃音をどうするかが第一の問題だったが、それを越えるおもしろさを知れたのがよかった。どもっていてもというかどもっているからこそ言葉に真実味が宿ることがある。どもっても宿らないこともある。吃音を治そうというのは、社会に適応しようとか、「正常」になろうという姿勢であり、吃音を「悪」あるいは病気や障害としているのに対し、言葉を本当に相手に届けるとか、物語の世界を立ち上げるときは、吃音はそのように客体化することもできなくて、ただそこにあるもの、いや、ないものだ。吃音という状態も、物語の中に溶け込んでいて、忘れられうるものになっている。そこにあるのは、ただ物語であり、人や動物、山々と音など一瞬一瞬で移ろう自然だ。滝の近くにしばらくいると滝の音を忘れてしまうように、森の中を歩いていると森の中にいることを忘れてしまうように、吃音も忘れてしまう。

印象に残っている小学生の頃の出来事

小学生の頃のことで、印象に残っていて何度も思い出していることがいくつかある。

つらい…というわけでもないがネガティブな思い出としては、3年の運動会で踊りに使った衣装の一部を忘れてしまったのだが、一週間たって洗って返す日が来てしまい、怒られるのが怖かったから、隣の席のTくんのそれを盗もうかと真剣に悩み、バレたらひどいことになりそうなのと、多少の良心の呵責もたぶんあって、一部が欠けたまま出したことがある。怒られるのを覚悟していたが、実際は「やぎっち忘れてたよ」と言われただけだった。けれど、先生に怒られないために人のものを盗もうとした自分は一体なんなんだと思って、今にいたるまで何度も思い出している。 

プラス…かわからないけど、そうなりそうな思い出としては、クラスメイトの女子と話したことが印象に残っている。別に何のことはない会話なのだけれど、いくつかは今も鮮やかだ。今も女性に美しさを見出すことはあるが、小学生の頃のぼくが同年代の何人かの女子に感じたものは、今よりずっと深かったように思う。その時の感覚は、「あはれ」と言うしかないものだ。小学生でも、性の働きがあるのはおもしろい。そして、生まれたての純粋な性だ。そんなこと当時は自覚しなかったけれど。

他にも例を挙げる。竹内敏晴は、尋常小学校3年のとき、弟が家に持って帰った、今年改訂された国語の教科書を開いた。ちなみに、それまでの教科書は、黒白刷りだった。竹内はこう書いている。

“第一頁を開けたとたんにアーッと思った。開いたとたんにピンクの色がパーッと広がって、大きな字で「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」と書いてあったわけです。

 そうしたら涙が出てきちゃったんです。おれはなんであと二年遅く生まれなかったんだろうと思って。”

この描写が好きだ。

関連して、ぼくが好きな先の大戦について、竹内敏晴が述べていること。

“開戦で「天地ひらけたり」と言った人がいましたが、そういう感覚が私にもあったと思うし、中学生の多くの連中にも同じ感じがあったんじゃないかと思います”

竹内は開戦当時16歳だが、ぼくも8歳くらいの時に似たような経験がある。好きで学校図書館で読んでいた『漫画 日本の歴史』(学研プラス)の、第二次世界大戦のところで、日の丸の旗が太平洋に広がっているのを見て、ワクワクしたのを覚えている。たぶん当時、日本という国のことはちょっと知っていたのだと思う。アメリカ合衆国はよくわかっていなかったかもしれない。先の大戦のことは、たぶんその漫画ではじめて知った。日本という、ぼくの住む世界が、戦争ということをして、勝って、ぐーんと広がったんだと思うと、あはれであった。竹内の言う、「天地ひらけたり」と近い感覚だったと思う。今も先の大戦には何か大切なものがあると思って、いつも考えているが、そのルーツはこの時にある。

子ども時代の繊細な心に入ったものは、ずっと忘れられないものだ。

京都大学文学部を卒業しました

高校生くらいの人に向けてアドバイスを書きます。

受験について。ある程度の才能があってしっかり勉強すれば京大の文系は入れると思います。むしろ受験にこだわらずに多くのことを学びましょう。高校は受験のことばかり言ってくると思いますが、適当に聞き流して、ついでに授業も聞き流すかサボるかして、自分の世界と時間を大切にするといいと思います。

学部について。学部選びは大切です。もしかしたら大学選び以上に大切かもしれません。高校や親や世間は大学名にこだわるかもしれませんが、そこで4年間過ごすのはあなたなので、どの学部だと一番楽しく大学に通えそうか、よく調べて考えるといいです。京大についてよく知らないなりに言えば、法学部は単位を取るのが超たいへんで、かつ公職志向なので、官僚か政治家か法曹関係の仕事に就く覚悟がないと入らない方がいいと思います。文学部は学科が26もあって、かなり自由に授業も選べますし、単位認定も甘いです。学科選びも3回生の時なので、何を研究したいか考える時間的余裕もあります。授業も、ぼくにとって興味深いものがいくつかありました。振り返っても文学部にしてよかったと思います。もし間違って法学部にでも入っていたら、卒業できなかった可能性は高いと思います。

学生生活について。大学に適応できない人もいると思います。授業かサークルかどちらかに適応できるならまだしも、ぼくのように両方適応できない人も少しはいるでしょう。そういう時は大学を諦めて、町に出るといいと思います。京都や大阪は町中に学びの場がたくさんあるので、特に大学にこだわる意味はないように思います。そういうところは、色んな年齢の色んな背景の人がいて、同質的なコミュニケーションが苦手なぼくのような人には居心地がいいです。京大に入れたことがはじめは鼻が高かったりするものですが、そういう場で多種多様の人と交わっていると、どうだってよくなります。エリート意識がいい意味で消えて、本当に自分がしたいことは何だろうかと考えることもできるかもしれません。また、これは高校生の人にもいえます。ぼくは高校でも授業や部活に適応できませんでしたが、町中の学びの場を知らなかったので学校の外に友達を作ることもできず、けっこう孤独でした。部活とか無理して行かずに、大学生とか大人と楽しく学んで遊べばいいと思います。でも高校生くらいの年だとシャイなので難しいと思いますが。

京大(というか国公立大)でよかったこととして、学費が安いことがあります。ある程度貧乏だと、授業料が半額か無料になります。給付型の奨学金もけっこうありますが、期限が4月か5月中だったりするので、貧乏な人は入学したらすぐに奨学金係に行くといいでしょう。あと、休学するのにお金がかからないのも魅力です。家から通えたのもお金がかからずよかったです(学生定期めっちゃ安い)。お金があまりかからないと、大学生でいるプレッシャーが小さいので、気が楽ですよ。あまりバイトしなくてもよくなるので、自由な時間も増えます。

高校生の皆さんに言えるのはこれくらいです。京大に入って卒業したからといって、それで賢くなれるわけでもないのです。結局、勉強とか活動をするのはその人であって、大学が何かをしてくれるわけではないのです。高校までと違って上下関係とかも無視できますし、年齢などにかかわらず多くの人と関わって、あるいは人と関わらずに本を読むとかして、楽しくやればいいのではないでしょうか。世界は広いのです。○○大学に入れないと人生終わりとか、○○大学に入れたらいい人生になるとか、嘘です。価値は本当に多様で、自分の価値観を追求するのが大事です。親や学校の先生が言うことなんて、世界のごく小さな一部でしかないので、自分に合わないものは聞き流しておけばいいと思います。うーん、偉そうに書きすぎたかな。まあいいや。

恋愛に憧れている

 学びという点で恋愛に憧れている。学びは自らを更新するものだが、恋愛は力強い更新作用がある。

 人が自らを更新しようとするとき、妨げになるのは恐怖だ。仕事がつまらないのに辞められない、相手のことが嫌いなのに別れられない、無意味なネットサーフィンをしてしまうなど、今の状態がおかしいと直観しているにもかかわらずやめられないことがあるが、それはやめることでより本質的な何かを新たに考えないといけなくなることを恐怖しているからだろう。その恐怖の力は強く、なかなか乗り越えられない。お城の中で大切に育てられた王子様が、仮に自由意志を与えられたとしても、城の外に出て一般庶民として生きることを選ぶのは難しい。今までの人生の延長線上として、お城の中での生活を選ぶだろう。だが、王子様をお城の外に出させる力を持つのが、恋愛だ。「知」や「正義」もそうだと思うが、私には「恋愛」がより実感的だ。王子様は参内したヴェネツィア人航海士が献上した最先端の望遠鏡で、お城の上から町々を眺める。近くは肉眼でも見れるから知っているが、遠く町外れの被差別部落をはじめて目にする。この世にはあのような地域があるのかと驚き、それから毎日その部落を眺める。ふと、そこで生きる少女に目がとまる。みすぼらしい格好をして働いている。その泥と埃の奥にある美しさに気がついたのだろうか、毎日望遠鏡で彼女の姿を探し、見つめる。彼女が家や森の中に入ったり、城から陰になる場所に行くともう見れない。そうそう望遠鏡で見れる場所には来ないので、一日に何時間も望遠鏡を構えて、彼女が目に入る数分、時に数秒を待つ。王子は自分が恋をしていることを知る。彼女を城に参内させたいと言っても無駄なことはわかっている。王子は自分がこっそりあの部落に行けたらいいと思うが、その勇気はないし、城には見張りがいるから現実的でないし、行ったところでどう声をかけたらいいのかもわからない。家老に頼んだところで彼らは公の論理に従うから無駄である。そこで乳母に言って、その少女に美しい着物を着せ、乳母の姪っ子として参内させる。王子は王や后に頼んで、その少女をそばに置くことを認めてもらう。王と少女はお城で幸せな日々を送ったが、ある日、ピサに留学していた乳母の息子が帰国し、王に謁見した時に、乳母にそのような姪がいないことをもらしてしまう。王は官吏を使って少女の身元を調べ、少女が被差別部落の生まれであることを知る。激怒した王は少女を城と町から追い出す。王子は嘆き悲しみ、王に少女をそばに置くことの許しを請うが、認められない。そこで、王子をして、地位を捨てて少女を追いかけせしむるのが、恋愛である。(少女の気持ちは全く考慮されない、極めて王子中心的な物語を書いてしまった。しかし恋とはその本質において一方的なものだからこれでいいのだ)

 そのように、今までの自分をガラッと変えてしまう力を恋愛は秘めている。そこに私は期待しているのだ。

 もし恋した人がアゼルバイジャン人だったら、私はアゼルバイジャンの言語や文化を勉強するであろうし、アゼルバイジャンに移住するかもしれない。聴覚障害者であったら、手話を勉強するだろう。温泉好きであったら、一緒に温泉巡りをするだろう。恋する人の世界を知りたいと思わせ、知るために行動させるのが恋愛だ。

『モアナと伝説の海』は日本建国神話で主人公モアナは天皇だった

映画『モアナと伝説の海』を見た。モアナは太平洋の小さな島の長だ。先祖は別のところからその島にやってきたのだが、島の人たちはそこから出ることを禁忌としている。しかし、危機に瀕した世界を救うために、モアナは神を求めて旅に出る。

この設定は天皇そのものだろう。ニニギノミコトは外界から九州に降臨し、神武は九州から大和に攻め入って定住し、天皇として即位した。思想家の千坂恭二によれば、天皇を戴く日本の国体はその本質に世界革命を志す。それを根拠に、アジア解放や八紘一宇が唱えられ、大東亜戦争が戦われた(『思想としてのファシズム大東亜戦争」と1968』「世界革命としての八紘一宇」)。

日本は大東亜戦争の敗戦で世界を救うことを諦めてしまった。『モアナ』のような世界を救う作品を、世界を救うことを志すアメリカは作れても、日本は作れなくなった。が、何十年後、何百年後かはわからないが、必ず世界の危機が訪れる。その時、メシアたる天皇を戴く日本は、他のどの国と比べても遜色なく、世界を救うために働くだろう。

大東亜戦争でも日本は、人種間の平等と民族自決という西洋の論理と天皇の元での世界平和という日本の論理を用いて、世界の救済を掲げたが、内実が独善的にすぎた。理念を掲げたのも、あまりにも後付けだったし、ほとんどの日本人に共有されてすらいなかった。理念を抱いたまま国ごと滅ぶという選択肢も議論されたが、選んだのは理念を捨てて降伏することだった。

私は降伏してよかったと思う。大東亜戦争はまだその理念を用いるべき時ではなかった。降伏したおかげで、日本は存続した。その日本を、世界の本当の危機の時に用いなくてはいけない。

いつ危機が訪れるかはわからないが、一番可能性が高いのは国民国家の崩壊だろう。350年の歴史を持つ国民国家体制はあと何百年後に崩れるだろうが、日本は国民国家など超越した神話的存在である。日本は天皇を中心にした世界統一を目指して動くだろう。その時に、現体制を一段越えた、世界平和が訪れる。一神教的にいえば、神の国が訪れる。私たちはそれを目にすることはできないが、神国日本を次世代に渡すという崇高な使命がある。

などという、かなりヤバいことを映画を見ながら考えて、勝手に盛り上がっていた。映画についてもっと普通の読み方をすれば、ディズニーの前々作『アナと雪の女王』や前作『ズートピア』が、男女平等など個が尊重される現代社会の未来を志したものであったのに対し、今作は神話という過去に戻ったものであった。過去だから封建的な面もあるのだが、しかし母系制のムラ社会がそうであったように、男女差別がそもそも存在しなかったりする。西洋近代が発展させている人権はあえて描かず、私たちがいま抱く世界観とは大きく異なった世界があったことを提示し、相対化させている。そのようにして、私たちの近代的な差別意識も相対化されている。

在日朝鮮人の児童・生徒の「本名を呼び名乗る実践」の限界と今後のあり方

 特に関西圏を中心とした学校で、戦後、在日朝鮮人の児童・生徒の本名を呼び、本名を名乗らせることがされてきた。これは「本名を呼び名乗る実践」とよばれている。このレポートでは、第1章において、その限界と、今後の取り組みのあるべき姿について述べた先行研究を整理する。第2章では、この問題を取り上げた動機と私自身の意見を述べる。第3章では、この問題に関連して、知人に聞いた話を紹介する。

 

第1章 「本名を呼び名のる実践」の限界と、今後のあり方についての先行研究

 「本名を呼び名乗る実践」は、これまで肯定的に語られることが多かった。代表的な例を挙げると、大阪で民族学校民族学級の教員を勤めた朴正恵(1942-)は、「朝鮮人が本名(民族名)を名のり、日本人が本名(民族名)で呼ぶ」のが「当たり前」であると述べ、在日コリアンが本名を使うことを強く勧めている。

 しかし、そのように結論づけていいのだろうかと、疑問を呈する人たちが、20世紀末から、特に今世紀において登場している。朴秋香は、在日コリアンと日本人の「混血児」に注目している。「韓国・朝鮮籍の保持者の8割以上が日本国籍保持者と結婚している現在においてなお、日朝『混血』者の問題を扱ったものはほとんど存在しない、もしくは見つけにくい」と、「朝鮮人と日本人」という二項対立の言説が時代遅れであるにもかかわらず、今も幅をきかせていることに疑問を呈している。親の国籍と子どもの国籍が必ずしも一致しないのが現代なのだ。そのため、「本名を呼び名のる実践」ではなく、「民族名を呼び名のる実践」がされるようになっている。だが、それより大切なのは、「名前をめぐる自己決定権を守りそだてる」ことだと、朴秋香は1999年の全朝教における、日本国籍在日コリアン安田直人の発言から述べ、本名、あるいは民族名を名のることが目的化している現状に警鐘を鳴らしている。

 朴秋香のこれらの意見に影響を受けて、藪田直子は関西地域のP市において、朝鮮半島だけでなく、20世紀末から増えてきた中国とベトナムにルーツのある子どもたちに注目した調査をしている。在日韓国・朝鮮人の児童生徒で通名を使う人は多いが、これは「日本の学校同調圧力による問題なのか。あるいは個人の選択として扱うべきだろうか」と疑問を立て、それを解くために在日コリアンを、他の在日外国人(ここでは在日中国人と、特に在日ベトナム人)の視点を加えて論考している。藪田はP市のZ中学の教師11名にインタビューをした。現状としてZ中学では、外国にルーツをもつ生徒のうち、約6割が日本風の名前を、約4割がエスニックな名乗りを学校で用いている。ベテランの先生には、「本名を呼び名のる実践」の影響を受けた人たちもいて、通名を用いる生徒たちを目の当たりにして「ショックな部分もあった」と述べているが、しかし実際に本名を名のるように強く勧めることはしていない。その背景として藪田は、これまでの在日コリアンの生徒を対象にした「本名を呼び名のる実践」では、「本名を名乗る」というゴールがあったが、中国系やベトナム系など外国系の生徒が多様化した現在、決まったゴールがなくなっていることをあげている。というのも、在日コリアンは本名か通名かの選択を「重いもの」としてとらえたが、ベトナム系の生徒は「あっさりとしたもの」ととらえている。もともと、ベトナムではあだ名や幼名を日常的に使う伝統がある。そういった多様な状況下で、Z中学で大切にされているのは、生徒が本名を使うかどうかではなく、教師が本名を使える雰囲気を作ることである。「名前をめぐる自己決定権」がここでは尊重されている。

 

第2章 在日コリアンの本名・通名の問題に興味を持ったきっかけ

 私自身も、藪田が示したようなZ中学のあり方が、今の在日コリアン自体が国籍やルーツの点で多様化し、また朝鮮半島以外にルーツを持つ外国人が増えていく社会においては望ましいと考えている。さて、この問題を取り上げた動機は、卒業論文執筆の関係で、南葛飾高校という東京都葛飾区にある学校についての本を読んだことだった。その学校は、被差別部落出身の生徒や在日朝鮮人の生徒が多く通った。そこにIという在日朝鮮人で、通名を使っている女子生徒のことが、その担任教師によって語られる。Iはクラスメイトに自身が在日朝鮮人であることを隠していたが、両親ともに日本人である担任は、Iに本名を名乗るように何度も勧める。南葛飾高校は、朝鮮文化研究会もあり、朝鮮語の授業も全学生を対象にされていて、比較的理解のある環境だったが、Iは本名を名乗ることを拒む。担任はIとの10ヶ月の付き合いを経て、「このクラスでIのことを支えていくことはできる」と思い、Iの同意なしに「今までHRで朝鮮問題の討論を続けてきたのには意味がある。このクラスのHさんは本名をIといいます」と、在日朝鮮人であることを明らかにする。Iは「叫び声をあげて教室をとび出した」。担任は「このまま去らせたら取り返しのつなかいことに」なるので、他2名の生徒と追いかけ、校門のところで2時間かけて説得し、教室に連れ戻した。Iはこれをきっかけに「以前の彼女よりずっと明るくなったように私には思えた」と担任は語る。

 この担任がしたことは果たして正しかったのかが私にはわからない。担任が状況から判断して大丈夫だと思いしたことで、結果的にも大丈夫だった。が、Iは「叫び声をあげて教室を飛び出した」くらいの衝撃を受けており、本当にギリギリのところで踏みとどまったにすぎず、一歩間違えていたら不登校になり、多くのことが台無しになっていたのではないか、それまでのリスクを負って本名を、つまりは在日朝鮮人であることを明かすべきなのかと疑問に思っている。しかし一方で、強引な手段ではあるが、みなに在日朝鮮人であると知られてしまえば、もう開き直ることができるというのもわかる。Iはこのケースだろう。

 この場面が印象に残ったのは、それが私自身の吃音のことを思い出させたからだった。吃音は在日コリアンとは違い、カミングアウトしなくてもある程度はわかる。しかし、話さないという手段によって隠そうと思えばある程度隠せてしまうし、これは在日コリアンにおいてもそうだろうが、周囲にばれていても、その話題をタブーにしてしまうことがある。私は小学生のときからすでに吃音があったが、小学校は吃音を明かすことができる雰囲気だった。しかし、その後に進学した私立の中高一貫校では、吃音を恥ずかしいことと思い、できるだけ人前で話さないようにし、周囲の人に対しても吃音の話題はタブーにしていた。もし、そんななかで、中学か高校の先生に、「吃音という言語障害がある」などとクラスメイトに向かって言われたら、私は学校に行くことができなくなったかもしれない。だが一方で、強引にばらされることで、もう吃音を知られているのだからと、どもることをあまりおそれずに、人とかかわれるようになったかもしれない。ちょうどIのように。それはギリギリのところであり、当事者の私自身にもわからない。Iの担任は、Iに本名を名乗るように勧めるなかで、担任自身のことを話しながら、「他人に言えない隠しごとがあると他人と本当の付き合いはできないこと、思いっきり笑うこともできないこと、自分を大切にしない人間になってしまうこと」を話した。それは私にもよくわかる。私が吃音を受けいれることをはじめたのは高校3年からであり、大学に入ってはじめて周囲に明かした。そして今も人と話すときにどもることを受けいれる過程にあると感じる。それは自主的な選択によってなされた。Iが担任にされたように、強引に他人によってされたことはない。しかし、そのために、高校2年までは自身の吃音を否定し続けることとなった。Iにとって、私にとって、どちらがよかったのか言い切ることはできない。

 が、少なくとも私の感覚では、個人のマイノリティ性を明かすかどうかは、当事者の自主決定が何より優先されるべきだと思う。在日コリアンが本名を名のらないのは、日本社会による差別に当人が打ち勝っていないからだという言説が、今まで力を持っていた。もちろんそういう面もあるだろうが、そう言い切ることは、当人の選択の存在を無視することになる。そして、そういう言説が、在日コリアンでそれを明らかにしている人たちや、その支援者たちからなされてきたことも重要である。同じように、吃音を明らかにしている人たちが吃音を隠している人たちに、「吃音を明らかにせよ、正々堂々とどもれ」などと、言うことがある。私自身はどもることを気にしていたら話せないくらいの吃音なので、吃音を周囲に明らかにしているが、隠せる人が隠す気持ちもわかるし、私自身あまりどもらない時もあって、そういうときはいちいち吃音を明かしたりしない。マイノリティ性を明かすことは差別の可能性に向き合うことであり、その行動自体は評価されていいと思うが、それができない、あるいは選択としてしない当事者に、押しつけてはいけないと思うのである。

 

第3章 在日コリアンの美容師と朝鮮文化研究会の先生の話

 在日朝鮮人にかんするレポートを書くに際して、知人に話を聞いた。最後に、そのことをまとめたい。一人は、大阪府東部で美容室を営む男性、Sさんである。Sさんは京都府南部の生まれで、両親ともに在日朝鮮人である。両親は通名を使っており、Sさんもそれを当然として育ってきた。京都府南部には20歳頃まで住み、その後美容師になって東京でひとり暮らしをしたときも、通名を名乗っていた。が、神戸の三宮に移り住んだとき、周囲に外国人や外国系の人が多く、在日コリアンも本名を名乗っているのを見て、36歳にして本名を名乗り、在日コリアンであることを明かすことにする。三宮では店長として美容室をひらいていたが、差別を受けることは仕事上でも日常生活でもほぼ全くなかったという。しかし、家の都合で現在の大阪東部に移り住んだとき、そこでも美容室をひらいて本名を名乗り、在日コリアンであることを積極的に明かしたところ、嫌がるお客が年配の方を中心に多く、方針を変え、本名を名乗りつつも在日コリアンであることはあまり明かさないようにして、現在に至っている。この話を聞いて、地域によって差別されるかどうかが大きく異なるということに驚いた。Z中学は、本名を使える雰囲気であり、かつ本名を使うか通名を使うかどうかは当人に任されているが、三宮もそうだったのだろう。日本の各都市も、三宮のようになればいいと思う。三宮は歴史的に外国人が多いということがそうさせているのだろうが、外国人が増えている日本の各都市も、将来的には差別は減っていくのだと思う。Sさんは2015年にはじめて韓国を旅行し、韓国語ができないことなどから、自分は韓国人ではないと改めて認識し、本名のまま帰化することを考えているという。国籍は日本を選びつつも、親から受け継いだ本名は使うという、従来の枠にとらわれない新たな姿勢がここにも見える。

 また、池田市立池田中学で朝鮮文化研究会の顧問をしていた日本人の先生にも話を聞いた。そこには朝鮮半島にルーツのある生徒だけでなく、特にそれがない日本人の生徒もメンバーになっていた。活動も、朝鮮の太鼓チャンゴをたたくなど朝鮮の文化を学ぶだけでなく、茶道など日本文化も学んでいた。それは、朝鮮半島にルーツのある生徒が、日本人に「朝鮮に帰れ」などと言われたときに、「俺は日本が好きで、日本の伝統文化も勉強してる。お前はどうなんや?」と言い返せるようにと考えてのことだという。朝鮮文化研究会のようなことを日本人の先生がすると、在日コリアンの社会から反発が大きく、活動に理解のある在日コリアンの人たちにも協力を募っていたという。

 

参考文献

 

書籍

朴正恵『この子らに民族の心を----大阪の学校文化と民族学級』(新刊社 2008)

林竹二編『授業による救い 南葛飾高校で起こったこと』(怪書房 1993

 

論文

「在日朝鮮人の「混血」/「ダブル」の考察」(琉球大学法文学部研究報告書『多文化教育における「日本人性」の実証的研究』、2007

「在日外国人教育の課題と可能性――『本名を呼び名のる実践』の応用をめぐって」(『教育社会学研究』92集、2013

自由になりたい

さっき、自由になりたいということを書いて、お風呂に入ってシャワーで髪をゆすいでいて、「あ、ぼく、ほんまに自由になりたくて行動してるわ」と気がついた。

自由とは、今までしてきたことだけじゃなくて、別のやり方も選べるということだろう。

ぼくのメイン楽しみイベントのひとつ、からだとことばのレッスンも、声の出し方やからだの動かし方、さらには朗読やコミュニケーションのオルタナティブ(ふだんとは別のあり方)を求めて参加している。

最近はまっている、当事者研究や哲学カフェなどの対話の場は、思考やことば(概念)の自由を求めている。

本やネット、テレビなどで知識を得ようとすることや、映画や芝居など芸術にふれようとするのも、ふだんの生活を客観視しようとする態度だ。

さっき、京大に入ったのは一流大で社会に認められるのに授業に出なくていいからと書いたが、実際はそれだけでなく、京大に行けば良質な知がたくさん得られると思ったからでもある。

知識は人を自由にする。ふだん地縁や血縁に結びついて生きているが、知という普遍性にふれることで、生活を俯瞰的に見ることができる。そうすることで、新たな一歩に気がつくことができる。

自由を追い求めていけば、どうしてもここは譲れないとか、どうしてもこれが好きだとかいうものが見つかる気がする。そこにその人固有の実存がある。一度そこまで行って、その実存を組み立てて発展させるということがやりたい。井戸の底まで降りて、その人のための石を見つけて、塔を作りたい。

就職しなくても生きていけそう

メディアの仕事に関心があるが、それはあまり知られていないが良いものを世に紹介したいからだ。ぼくは年の割にはけっこうそういうの詳しいという自負があるんです。

これまでは本かなと思っていたけど、先日、出版社で働く人とじっくり話したところ、今の時代は、既に著名な人でないと本を出せないと聞いた。本にこだわったのは歴史に残ると思っていたからだが、ほとんどの本は出たらすぐに消えていくらしい… 本が売れない時代である。

となるとテレビかと思いさっき採用のホームページを見たが、民放はすでに一次採用が終わっていて、夏に二次採用があるらしい。しかしよく見ると、新卒でないと受け付けないというものがちらほら。

「大学を卒業したらすぐに働き始めないといけない」というルールがわりとあるが、いまいち理解できず、結局フリーターやニートをする期間ができてしまった。「卒業したら何するんですか?」と聞かれ、「うーん、バイトとか~」などと答えると、就活うまくいかんかったんやろか…という風に思われることが多いようだが、そもそも一社も受けていないので、受かるはずがないのである。

大学出たのに就職しないというのは社会不適合者っぽいが、京都大学に合格したとなると社会適合者っぽい感じがある。実際、就職のために努力する気にはあまりならないが、京大合格のためにはめっちゃ努力できた。そういうパターンは時々あるようだ。

別に大学に入ったら急に怠け者になったとか、性格が変わったというわけではない。自分の中では連続性を感じている。京大に入るために努力できたのは、社会に認められる範囲で最大限自由になりたかったからだ。一流大学の肩書きを得つつ、授業にそんなに出なくてもいいというのはいいとこ取りですばらしい。

今も自由になりたいと思っている。が、就職となると、そういうわけにはいかない。結構がんばって働かないといけない。がんばりたくないので困ってしまい、ノイローゼになるくらい悩んだ。

だが最近、あんまり働かなくても生きていけるっぽいということに気がついた。週に2日か3日働くとかで楽しくやっている人たちとよく会うのだが、すごく話が合う。社会にはあまり認められていなさそうだが、ありな生き方だ。

そういう生き方は元カリスマニートニート35歳までだから卒業したらしい)のphaさんや、『20代で隠居』の大原扁理さんなど、本やネットでは知っていたが、実際に会うことがなかったので、あまり現実感がなかった。でもここ1年くらいでそういう人たちとたくさん会っている。それですごく充実を感じている。

今のプランは、どこかの社員とか教員とかのメインの働き方をやってみて、無理だったらあきらめてバイトなどして生きていこうという感じだ。前までは「一度就職したら週5や週6、残業ありで働き続けないといけない。たいへんそうや~> <」という感じだったが、今は「トライしてみよう~♪」という気軽な気分になれたのでよかった。