読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

印象に残っている小学生の頃の出来事

小学生の頃のことで、印象に残っていて何度も思い出していることがいくつかある。

つらい…というわけでもないがネガティブな思い出としては、3年の運動会で踊りに使った衣装の一部を忘れてしまったのだが、一週間たって洗って返す日が来てしまい、怒られるのが怖かったから、隣の席のTくんのそれを盗もうかと真剣に悩み、バレたらひどいことになりそうなのと、多少の良心の呵責もたぶんあって、一部が欠けたまま出したことがある。怒られるのを覚悟していたが、実際は「やぎっち忘れてたよ」と言われただけだった。けれど、先生に怒られないために人のものを盗もうとした自分は一体なんなんだと思って、今にいたるまで何度も思い出している。 

プラス…かわからないけど、そうなりそうな思い出としては、クラスメイトの女子と話したことが印象に残っている。別に何のことはない会話なのだけれど、いくつかは今も鮮やかだ。今も女性に美しさを見出すことはあるが、小学生の頃のぼくが同年代の何人かの女子に感じたものは、今よりずっと深かったように思う。その時の感覚は、「あはれ」と言うしかないものだ。小学生でも、性の働きがあるのはおもしろい。そして、生まれたての純粋な性だ。そんなこと当時は自覚しなかったけれど。

他にも例を挙げる。竹内敏晴は、尋常小学校3年のとき、弟が家に持って帰った、今年改訂された国語の教科書を開いた。ちなみに、それまでの教科書は、黒白刷りだった。竹内はこう書いている。

“第一頁を開けたとたんにアーッと思った。開いたとたんにピンクの色がパーッと広がって、大きな字で「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」と書いてあったわけです。

 そうしたら涙が出てきちゃったんです。おれはなんであと二年遅く生まれなかったんだろうと思って。”

この描写が好きだ。

関連して、ぼくが好きな先の大戦について、竹内敏晴が述べていること。

“開戦で「天地ひらけたり」と言った人がいましたが、そういう感覚が私にもあったと思うし、中学生の多くの連中にも同じ感じがあったんじゃないかと思います”

竹内は開戦当時16歳だが、ぼくも8歳くらいの時に似たような経験がある。好きで学校図書館で読んでいた『漫画 日本の歴史』(学研プラス)の、第二次世界大戦のところで、日の丸の旗が太平洋に広がっているのを見て、ワクワクしたのを覚えている。たぶん当時、日本という国のことはちょっと知っていたのだと思う。アメリカ合衆国はよくわかっていなかったかもしれない。先の大戦のことは、たぶんその漫画ではじめて知った。日本という、ぼくの住む世界が、戦争ということをして、勝って、ぐーんと広がったんだと思うと、あはれであった。竹内の言う、「天地ひらけたり」と近い感覚だったと思う。今も先の大戦には何か大切なものがあると思って、いつも考えているが、そのルーツはこの時にある。

子ども時代の繊細な心に入ったものは、ずっと忘れられないものだ。

京都大学文学部を卒業しました

高校生くらいの人に向けてアドバイスを書きます。

受験について。ある程度の才能があってしっかり勉強すれば京大の文系は入れると思います。むしろ受験にこだわらずに多くのことを学びましょう。高校は受験のことばかり言ってくると思いますが、適当に聞き流して、ついでに授業も聞き流すかサボるかして、自分の世界と時間を大切にするといいと思います。

学部について。学部選びは大切です。もしかしたら大学選び以上に大切かもしれません。高校や親や世間は大学名にこだわるかもしれませんが、そこで4年間過ごすのはあなたなので、どの学部だと一番楽しく大学に通えそうか、よく調べて考えるといいです。京大についてよく知らないなりに言えば、法学部は単位を取るのが超たいへんで、かつ公職志向なので、官僚か政治家か法曹関係の仕事に就く覚悟がないと入らない方がいいと思います。文学部は学科が26もあって、かなり自由に授業も選べますし、単位認定も甘いです。学科選びも3回生の時なので、何を研究したいか考える時間的余裕もあります。授業も、ぼくにとって興味深いものがいくつかありました。振り返っても文学部にしてよかったと思います。もし間違って法学部にでも入っていたら、卒業できなかった可能性は高いと思います。

学生生活について。大学に適応できない人もいると思います。授業かサークルかどちらかに適応できるならまだしも、ぼくのように両方適応できない人も少しはいるでしょう。そういう時は大学を諦めて、町に出るといいと思います。京都や大阪は町中に学びの場がたくさんあるので、特に大学にこだわる意味はないように思います。そういうところは、色んな年齢の色んな背景の人がいて、同質的なコミュニケーションが苦手なぼくのような人には居心地がいいです。京大に入れたことがはじめは鼻が高かったりするものですが、そういう場で多種多様の人と交わっていると、どうだってよくなります。エリート意識がいい意味で消えて、本当に自分がしたいことは何だろうかと考えることもできるかもしれません。また、これは高校生の人にもいえます。ぼくは高校でも授業や部活に適応できませんでしたが、町中の学びの場を知らなかったので学校の外に友達を作ることもできず、けっこう孤独でした。部活とか無理して行かずに、大学生とか大人と楽しく学んで遊べばいいと思います。でも高校生くらいの年だとシャイなので難しいと思いますが。

京大(というか国公立大)でよかったこととして、学費が安いことがあります。ある程度貧乏だと、授業料が半額か無料になります。給付型の奨学金もけっこうありますが、期限が4月か5月中だったりするので、貧乏な人は入学したらすぐに奨学金係に行くといいでしょう。あと、休学するのにお金がかからないのも魅力です。家から通えたのもお金がかからずよかったです(学生定期めっちゃ安い)。お金があまりかからないと、大学生でいるプレッシャーが小さいので、気が楽ですよ。あまりバイトしなくてもよくなるので、自由な時間も増えます。

高校生の皆さんに言えるのはこれくらいです。京大に入って卒業したからといって、それで賢くなれるわけでもないのです。結局、勉強とか活動をするのはその人であって、大学が何かをしてくれるわけではないのです。高校までと違って上下関係とかも無視できますし、年齢などにかかわらず多くの人と関わって、あるいは人と関わらずに本を読むとかして、楽しくやればいいのではないでしょうか。世界は広いのです。○○大学に入れないと人生終わりとか、○○大学に入れたらいい人生になるとか、嘘です。価値は本当に多様で、自分の価値観を追求するのが大事です。親や学校の先生が言うことなんて、世界のごく小さな一部でしかないので、自分に合わないものは聞き流しておけばいいと思います。うーん、偉そうに書きすぎたかな。まあいいや。

恋愛に憧れている

 学びという点で恋愛に憧れている。学びは自らを更新するものだが、恋愛は力強い更新作用がある。

 人が自らを更新しようとするとき、妨げになるのは恐怖だ。仕事がつまらないのに辞められない、相手のことが嫌いなのに別れられない、無意味なネットサーフィンをしてしまうなど、今の状態がおかしいと直観しているにもかかわらずやめられないことがあるが、それはやめることでより本質的な何かを新たに考えないといけなくなることを恐怖しているからだろう。その恐怖の力は強く、なかなか乗り越えられない。お城の中で大切に育てられた王子様が、仮に自由意志を与えられたとしても、城の外に出て一般庶民として生きることを選ぶのは難しい。今までの人生の延長線上として、お城の中での生活を選ぶだろう。だが、王子様をお城の外に出させる力を持つのが、恋愛だ。「知」や「正義」もそうだと思うが、私には「恋愛」がより実感的だ。王子様は参内したヴェネツィア人航海士が献上した最先端の望遠鏡で、お城の上から町々を眺める。近くは肉眼でも見れるから知っているが、遠く町外れの被差別部落をはじめて目にする。この世にはあのような地域があるのかと驚き、それから毎日その部落を眺める。ふと、そこで生きる少女に目がとまる。みすぼらしい格好をして働いている。その泥と埃の奥にある美しさに気がついたのだろうか、毎日望遠鏡で彼女の姿を探し、見つめる。彼女が家や森の中に入ったり、城から陰になる場所に行くともう見れない。そうそう望遠鏡で見れる場所には来ないので、一日に何時間も望遠鏡を構えて、彼女が目に入る数分、時に数秒を待つ。王子は自分が恋をしていることを知る。彼女を城に参内させたいと言っても無駄なことはわかっている。王子は自分がこっそりあの部落に行けたらいいと思うが、その勇気はないし、城には見張りがいるから現実的でないし、行ったところでどう声をかけたらいいのかもわからない。家老に頼んだところで彼らは公の論理に従うから無駄である。そこで乳母に言って、その少女に美しい着物を着せ、乳母の姪っ子として参内させる。王子は王や后に頼んで、その少女をそばに置くことを認めてもらう。王と少女はお城で幸せな日々を送ったが、ある日、ピサに留学していた乳母の息子が帰国し、王に謁見した時に、乳母にそのような姪がいないことをもらしてしまう。王は官吏を使って少女の身元を調べ、少女が被差別部落の生まれであることを知る。激怒した王は少女を城と町から追い出す。王子は嘆き悲しみ、王に少女をそばに置くことの許しを請うが、認められない。そこで、王子をして、地位を捨てて少女を追いかけせしむるのが、恋愛である。(少女の気持ちは全く考慮されない、極めて王子中心的な物語を書いてしまった。しかし恋とはその本質において一方的なものだからこれでいいのだ)

 そのように、今までの自分をガラッと変えてしまう力を恋愛は秘めている。そこに私は期待しているのだ。

 もし恋した人がアゼルバイジャン人だったら、私はアゼルバイジャンの言語や文化を勉強するであろうし、アゼルバイジャンに移住するかもしれない。聴覚障害者であったら、手話を勉強するだろう。温泉好きであったら、一緒に温泉巡りをするだろう。恋する人の世界を知りたいと思わせ、知るために行動させるのが恋愛だ。

『モアナと伝説の海』は日本建国神話で主人公モアナは天皇だった

映画『モアナと伝説の海』を見た。モアナは太平洋の小さな島の長だ。先祖は別のところからその島にやってきたのだが、島の人たちはそこから出ることを禁忌としている。しかし、危機に瀕した世界を救うために、モアナは神を求めて旅に出る。

この設定は天皇そのものだろう。ニニギノミコトは外界から九州に降臨し、神武は九州から大和に攻め入って定住し、天皇として即位した。思想家の千坂恭二によれば、天皇を戴く日本の国体はその本質に世界革命を志す。それを根拠に、アジア解放や八紘一宇が唱えられ、大東亜戦争が戦われた(『思想としてのファシズム大東亜戦争」と1968』「世界革命としての八紘一宇」)。

日本は大東亜戦争の敗戦で世界を救うことを諦めてしまった。『モアナ』のような世界を救う作品を、世界を救うことを志すアメリカは作れても、日本は作れなくなった。が、何十年後、何百年後かはわからないが、必ず世界の危機が訪れる。その時、メシアたる天皇を戴く日本は、他のどの国と比べても遜色なく、世界を救うために働くだろう。

大東亜戦争でも日本は、人種間の平等と民族自決という西洋の論理と天皇の元での世界平和という日本の論理を用いて、世界の救済を掲げたが、内実が独善的にすぎた。理念を掲げたのも、あまりにも後付けだったし、ほとんどの日本人に共有されてすらいなかった。理念を抱いたまま国ごと滅ぶという選択肢も議論されたが、選んだのは理念を捨てて降伏することだった。

私は降伏してよかったと思う。大東亜戦争はまだその理念を用いるべき時ではなかった。降伏したおかげで、日本は存続した。その日本を、世界の本当の危機の時に用いなくてはいけない。

いつ危機が訪れるかはわからないが、一番可能性が高いのは国民国家の崩壊だろう。350年の歴史を持つ国民国家体制はあと何百年後に崩れるだろうが、日本は国民国家など超越した神話的存在である。日本は天皇を中心にした世界統一を目指して動くだろう。その時に、現体制を一段越えた、世界平和が訪れる。一神教的にいえば、神の国が訪れる。私たちはそれを目にすることはできないが、神国日本を次世代に渡すという崇高な使命がある。

などという、かなりヤバいことを映画を見ながら考えて、勝手に盛り上がっていた。映画についてもっと普通の読み方をすれば、ディズニーの前々作『アナと雪の女王』や前作『ズートピア』が、男女平等など個が尊重される現代社会の未来を志したものであったのに対し、今作は神話という過去に戻ったものであった。過去だから封建的な面もあるのだが、しかし母系制のムラ社会がそうであったように、男女差別がそもそも存在しなかったりする。西洋近代が発展させている人権はあえて描かず、私たちがいま抱く世界観とは大きく異なった世界があったことを提示し、相対化させている。そのようにして、私たちの近代的な差別意識も相対化されている。

在日朝鮮人の児童・生徒の「本名を呼び名乗る実践」の限界と今後のあり方

 特に関西圏を中心とした学校で、戦後、在日朝鮮人の児童・生徒の本名を呼び、本名を名乗らせることがされてきた。これは「本名を呼び名乗る実践」とよばれている。このレポートでは、第1章において、その限界と、今後の取り組みのあるべき姿について述べた先行研究を整理する。第2章では、この問題を取り上げた動機と私自身の意見を述べる。第3章では、この問題に関連して、知人に聞いた話を紹介する。

 

第1章 「本名を呼び名のる実践」の限界と、今後のあり方についての先行研究

 「本名を呼び名乗る実践」は、これまで肯定的に語られることが多かった。代表的な例を挙げると、大阪で民族学校民族学級の教員を勤めた朴正恵(1942-)は、「朝鮮人が本名(民族名)を名のり、日本人が本名(民族名)で呼ぶ」のが「当たり前」であると述べ、在日コリアンが本名を使うことを強く勧めている。

 しかし、そのように結論づけていいのだろうかと、疑問を呈する人たちが、20世紀末から、特に今世紀において登場している。朴秋香は、在日コリアンと日本人の「混血児」に注目している。「韓国・朝鮮籍の保持者の8割以上が日本国籍保持者と結婚している現在においてなお、日朝『混血』者の問題を扱ったものはほとんど存在しない、もしくは見つけにくい」と、「朝鮮人と日本人」という二項対立の言説が時代遅れであるにもかかわらず、今も幅をきかせていることに疑問を呈している。親の国籍と子どもの国籍が必ずしも一致しないのが現代なのだ。そのため、「本名を呼び名のる実践」ではなく、「民族名を呼び名のる実践」がされるようになっている。だが、それより大切なのは、「名前をめぐる自己決定権を守りそだてる」ことだと、朴秋香は1999年の全朝教における、日本国籍在日コリアン安田直人の発言から述べ、本名、あるいは民族名を名のることが目的化している現状に警鐘を鳴らしている。

 朴秋香のこれらの意見に影響を受けて、藪田直子は関西地域のP市において、朝鮮半島だけでなく、20世紀末から増えてきた中国とベトナムにルーツのある子どもたちに注目した調査をしている。在日韓国・朝鮮人の児童生徒で通名を使う人は多いが、これは「日本の学校同調圧力による問題なのか。あるいは個人の選択として扱うべきだろうか」と疑問を立て、それを解くために在日コリアンを、他の在日外国人(ここでは在日中国人と、特に在日ベトナム人)の視点を加えて論考している。藪田はP市のZ中学の教師11名にインタビューをした。現状としてZ中学では、外国にルーツをもつ生徒のうち、約6割が日本風の名前を、約4割がエスニックな名乗りを学校で用いている。ベテランの先生には、「本名を呼び名のる実践」の影響を受けた人たちもいて、通名を用いる生徒たちを目の当たりにして「ショックな部分もあった」と述べているが、しかし実際に本名を名のるように強く勧めることはしていない。その背景として藪田は、これまでの在日コリアンの生徒を対象にした「本名を呼び名のる実践」では、「本名を名乗る」というゴールがあったが、中国系やベトナム系など外国系の生徒が多様化した現在、決まったゴールがなくなっていることをあげている。というのも、在日コリアンは本名か通名かの選択を「重いもの」としてとらえたが、ベトナム系の生徒は「あっさりとしたもの」ととらえている。もともと、ベトナムではあだ名や幼名を日常的に使う伝統がある。そういった多様な状況下で、Z中学で大切にされているのは、生徒が本名を使うかどうかではなく、教師が本名を使える雰囲気を作ることである。「名前をめぐる自己決定権」がここでは尊重されている。

 

第2章 在日コリアンの本名・通名の問題に興味を持ったきっかけ

 私自身も、藪田が示したようなZ中学のあり方が、今の在日コリアン自体が国籍やルーツの点で多様化し、また朝鮮半島以外にルーツを持つ外国人が増えていく社会においては望ましいと考えている。さて、この問題を取り上げた動機は、卒業論文執筆の関係で、南葛飾高校という東京都葛飾区にある学校についての本を読んだことだった。その学校は、被差別部落出身の生徒や在日朝鮮人の生徒が多く通った。そこにIという在日朝鮮人で、通名を使っている女子生徒のことが、その担任教師によって語られる。Iはクラスメイトに自身が在日朝鮮人であることを隠していたが、両親ともに日本人である担任は、Iに本名を名乗るように何度も勧める。南葛飾高校は、朝鮮文化研究会もあり、朝鮮語の授業も全学生を対象にされていて、比較的理解のある環境だったが、Iは本名を名乗ることを拒む。担任はIとの10ヶ月の付き合いを経て、「このクラスでIのことを支えていくことはできる」と思い、Iの同意なしに「今までHRで朝鮮問題の討論を続けてきたのには意味がある。このクラスのHさんは本名をIといいます」と、在日朝鮮人であることを明らかにする。Iは「叫び声をあげて教室をとび出した」。担任は「このまま去らせたら取り返しのつなかいことに」なるので、他2名の生徒と追いかけ、校門のところで2時間かけて説得し、教室に連れ戻した。Iはこれをきっかけに「以前の彼女よりずっと明るくなったように私には思えた」と担任は語る。

 この担任がしたことは果たして正しかったのかが私にはわからない。担任が状況から判断して大丈夫だと思いしたことで、結果的にも大丈夫だった。が、Iは「叫び声をあげて教室を飛び出した」くらいの衝撃を受けており、本当にギリギリのところで踏みとどまったにすぎず、一歩間違えていたら不登校になり、多くのことが台無しになっていたのではないか、それまでのリスクを負って本名を、つまりは在日朝鮮人であることを明かすべきなのかと疑問に思っている。しかし一方で、強引な手段ではあるが、みなに在日朝鮮人であると知られてしまえば、もう開き直ることができるというのもわかる。Iはこのケースだろう。

 この場面が印象に残ったのは、それが私自身の吃音のことを思い出させたからだった。吃音は在日コリアンとは違い、カミングアウトしなくてもある程度はわかる。しかし、話さないという手段によって隠そうと思えばある程度隠せてしまうし、これは在日コリアンにおいてもそうだろうが、周囲にばれていても、その話題をタブーにしてしまうことがある。私は小学生のときからすでに吃音があったが、小学校は吃音を明かすことができる雰囲気だった。しかし、その後に進学した私立の中高一貫校では、吃音を恥ずかしいことと思い、できるだけ人前で話さないようにし、周囲の人に対しても吃音の話題はタブーにしていた。もし、そんななかで、中学か高校の先生に、「吃音という言語障害がある」などとクラスメイトに向かって言われたら、私は学校に行くことができなくなったかもしれない。だが一方で、強引にばらされることで、もう吃音を知られているのだからと、どもることをあまりおそれずに、人とかかわれるようになったかもしれない。ちょうどIのように。それはギリギリのところであり、当事者の私自身にもわからない。Iの担任は、Iに本名を名乗るように勧めるなかで、担任自身のことを話しながら、「他人に言えない隠しごとがあると他人と本当の付き合いはできないこと、思いっきり笑うこともできないこと、自分を大切にしない人間になってしまうこと」を話した。それは私にもよくわかる。私が吃音を受けいれることをはじめたのは高校3年からであり、大学に入ってはじめて周囲に明かした。そして今も人と話すときにどもることを受けいれる過程にあると感じる。それは自主的な選択によってなされた。Iが担任にされたように、強引に他人によってされたことはない。しかし、そのために、高校2年までは自身の吃音を否定し続けることとなった。Iにとって、私にとって、どちらがよかったのか言い切ることはできない。

 が、少なくとも私の感覚では、個人のマイノリティ性を明かすかどうかは、当事者の自主決定が何より優先されるべきだと思う。在日コリアンが本名を名のらないのは、日本社会による差別に当人が打ち勝っていないからだという言説が、今まで力を持っていた。もちろんそういう面もあるだろうが、そう言い切ることは、当人の選択の存在を無視することになる。そして、そういう言説が、在日コリアンでそれを明らかにしている人たちや、その支援者たちからなされてきたことも重要である。同じように、吃音を明らかにしている人たちが吃音を隠している人たちに、「吃音を明らかにせよ、正々堂々とどもれ」などと、言うことがある。私自身はどもることを気にしていたら話せないくらいの吃音なので、吃音を周囲に明らかにしているが、隠せる人が隠す気持ちもわかるし、私自身あまりどもらない時もあって、そういうときはいちいち吃音を明かしたりしない。マイノリティ性を明かすことは差別の可能性に向き合うことであり、その行動自体は評価されていいと思うが、それができない、あるいは選択としてしない当事者に、押しつけてはいけないと思うのである。

 

第3章 在日コリアンの美容師と朝鮮文化研究会の先生の話

 在日朝鮮人にかんするレポートを書くに際して、知人に話を聞いた。最後に、そのことをまとめたい。一人は、大阪府東部で美容室を営む男性、Sさんである。Sさんは京都府南部の生まれで、両親ともに在日朝鮮人である。両親は通名を使っており、Sさんもそれを当然として育ってきた。京都府南部には20歳頃まで住み、その後美容師になって東京でひとり暮らしをしたときも、通名を名乗っていた。が、神戸の三宮に移り住んだとき、周囲に外国人や外国系の人が多く、在日コリアンも本名を名乗っているのを見て、36歳にして本名を名乗り、在日コリアンであることを明かすことにする。三宮では店長として美容室をひらいていたが、差別を受けることは仕事上でも日常生活でもほぼ全くなかったという。しかし、家の都合で現在の大阪東部に移り住んだとき、そこでも美容室をひらいて本名を名乗り、在日コリアンであることを積極的に明かしたところ、嫌がるお客が年配の方を中心に多く、方針を変え、本名を名乗りつつも在日コリアンであることはあまり明かさないようにして、現在に至っている。この話を聞いて、地域によって差別されるかどうかが大きく異なるということに驚いた。Z中学は、本名を使える雰囲気であり、かつ本名を使うか通名を使うかどうかは当人に任されているが、三宮もそうだったのだろう。日本の各都市も、三宮のようになればいいと思う。三宮は歴史的に外国人が多いということがそうさせているのだろうが、外国人が増えている日本の各都市も、将来的には差別は減っていくのだと思う。Sさんは2015年にはじめて韓国を旅行し、韓国語ができないことなどから、自分は韓国人ではないと改めて認識し、本名のまま帰化することを考えているという。国籍は日本を選びつつも、親から受け継いだ本名は使うという、従来の枠にとらわれない新たな姿勢がここにも見える。

 また、池田市立池田中学で朝鮮文化研究会の顧問をしていた日本人の先生にも話を聞いた。そこには朝鮮半島にルーツのある生徒だけでなく、特にそれがない日本人の生徒もメンバーになっていた。活動も、朝鮮の太鼓チャンゴをたたくなど朝鮮の文化を学ぶだけでなく、茶道など日本文化も学んでいた。それは、朝鮮半島にルーツのある生徒が、日本人に「朝鮮に帰れ」などと言われたときに、「俺は日本が好きで、日本の伝統文化も勉強してる。お前はどうなんや?」と言い返せるようにと考えてのことだという。朝鮮文化研究会のようなことを日本人の先生がすると、在日コリアンの社会から反発が大きく、活動に理解のある在日コリアンの人たちにも協力を募っていたという。

 

参考文献

 

書籍

朴正恵『この子らに民族の心を----大阪の学校文化と民族学級』(新刊社 2008)

林竹二編『授業による救い 南葛飾高校で起こったこと』(怪書房 1993

 

論文

「在日朝鮮人の「混血」/「ダブル」の考察」(琉球大学法文学部研究報告書『多文化教育における「日本人性」の実証的研究』、2007

「在日外国人教育の課題と可能性――『本名を呼び名のる実践』の応用をめぐって」(『教育社会学研究』92集、2013

自由になりたい

さっき、自由になりたいということを書いて、お風呂に入ってシャワーで髪をゆすいでいて、「あ、ぼく、ほんまに自由になりたくて行動してるわ」と気がついた。

自由とは、今までしてきたことだけじゃなくて、別のやり方も選べるということだろう。

ぼくのメイン楽しみイベントのひとつ、からだとことばのレッスンも、声の出し方やからだの動かし方、さらには朗読やコミュニケーションのオルタナティブ(ふだんとは別のあり方)を求めて参加している。

最近はまっている、当事者研究や哲学カフェなどの対話の場は、思考やことば(概念)の自由を求めている。

本やネット、テレビなどで知識を得ようとすることや、映画や芝居など芸術にふれようとするのも、ふだんの生活を客観視しようとする態度だ。

さっき、京大に入ったのは一流大で社会に認められるのに授業に出なくていいからと書いたが、実際はそれだけでなく、京大に行けば良質な知がたくさん得られると思ったからでもある。

知識は人を自由にする。ふだん地縁や血縁に結びついて生きているが、知という普遍性にふれることで、生活を俯瞰的に見ることができる。そうすることで、新たな一歩に気がつくことができる。

自由を追い求めていけば、どうしてもここは譲れないとか、どうしてもこれが好きだとかいうものが見つかる気がする。そこにその人固有の実存がある。一度そこまで行って、その実存を組み立てて発展させるということがやりたい。井戸の底まで降りて、その人のための石を見つけて、塔を作りたい。

就職しなくても生きていけそう

メディアの仕事に関心があるが、それはあまり知られていないが良いものを世に紹介したいからだ。ぼくは年の割にはけっこうそういうの詳しいという自負があるんです。

これまでは本かなと思っていたけど、先日、出版社で働く人とじっくり話したところ、今の時代は、既に著名な人でないと本を出せないと聞いた。本にこだわったのは歴史に残ると思っていたからだが、ほとんどの本は出たらすぐに消えていくらしい… 本が売れない時代である。

となるとテレビかと思いさっき採用のホームページを見たが、民放はすでに一次採用が終わっていて、夏に二次採用があるらしい。しかしよく見ると、新卒でないと受け付けないというものがちらほら。

「大学を卒業したらすぐに働き始めないといけない」というルールがわりとあるが、いまいち理解できず、結局フリーターやニートをする期間ができてしまった。「卒業したら何するんですか?」と聞かれ、「うーん、バイトとか~」などと答えると、就活うまくいかんかったんやろか…という風に思われることが多いようだが、そもそも一社も受けていないので、受かるはずがないのである。

大学出たのに就職しないというのは社会不適合者っぽいが、京都大学に合格したとなると社会適合者っぽい感じがある。実際、就職のために努力する気にはあまりならないが、京大合格のためにはめっちゃ努力できた。そういうパターンは時々あるようだ。

別に大学に入ったら急に怠け者になったとか、性格が変わったというわけではない。自分の中では連続性を感じている。京大に入るために努力できたのは、社会に認められる範囲で最大限自由になりたかったからだ。一流大学の肩書きを得つつ、授業にそんなに出なくてもいいというのはいいとこ取りですばらしい。

今も自由になりたいと思っている。が、就職となると、そういうわけにはいかない。結構がんばって働かないといけない。がんばりたくないので困ってしまい、ノイローゼになるくらい悩んだ。

だが最近、あんまり働かなくても生きていけるっぽいということに気がついた。週に2日か3日働くとかで楽しくやっている人たちとよく会うのだが、すごく話が合う。社会にはあまり認められていなさそうだが、ありな生き方だ。

そういう生き方は元カリスマニートニート35歳までだから卒業したらしい)のphaさんや、『20代で隠居』の大原扁理さんなど、本やネットでは知っていたが、実際に会うことがなかったので、あまり現実感がなかった。でもここ1年くらいでそういう人たちとたくさん会っている。それですごく充実を感じている。

今のプランは、どこかの社員とか教員とかのメインの働き方をやってみて、無理だったらあきらめてバイトなどして生きていこうという感じだ。前までは「一度就職したら週5や週6、残業ありで働き続けないといけない。たいへんそうや~> <」という感じだったが、今は「トライしてみよう~♪」という気軽な気分になれたのでよかった。

歴史なき「平和教育」を乗り越えたい

 小学生のとき、熱心な「平和教育」を受けた。3・4年生で近代日本の朝鮮侵略と、先の大戦で日本が受けた都市空襲、6年の1学期で修学旅行先の広島の原爆について学んだ。

 その結果、「戦前までの日本はひどい国で、アジアの人たちをひどい目に合わせた。中国やロシアとの戦争に勝ったことで調子に乗って、無謀にもアメリカに戦争をしかけ、原爆を落とされ、負けた。敗戦で日本は反省して、平和を60年間守り続ける立派な国になった」という歴史観を持った。

 それがゆさぶられたのは、中3のとき、学校の図書室で小林よしのりの『戦争論』を読んだときだった。そこに述べられていた「大東亜戦争肯定論」に対し、はじめは非常に反発心を持った。だが、気になって読むのをやめることができない。中3から高1にかけて、図書室に置いてあった「ゴーマニズム宣言スペシャル」のシリーズを、何度も繰り返して読んだ。 

新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論

新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論

 

 

 小林よしのりの述べていたことで、一番はっとしたのが、戦争は歴史の中で起こるということだ。それはつまり、戦争は相手があって、原因があって起こるということだ。それは、小学生のときに受けた「平和教育」とあい対するものとして認識させられた。

 「平和教育」での戦争は、歴史がなかった。小3・4年のときは、歴史の授業はされていなかったし、広島の原爆を学んだ6年の1学期は、日本史の授業は平安時代が終わった頃だった。だから、「平和教育」では、日本史のじゅうぶんな知識なしに、近代日本、特に先の大戦のことを学んだことになる。

 6年の時に「平和教育」の授業で暗唱し、今もそらで歌える歌がある。「ヒロシマの有る国で」という歌だ。よく歌った(歌わされた)1番の歌詞は以下である。  

八月の青空に 今もこだまするのは

若き詩人の叫び 遠き被爆者の声

あなたに感じますか 手のひらの温もりが

人の悔し涙が 生き続ける苦しみが

わたしの国とかの国の 人の生命(いのち)は同じ

このあおい大地のうえに同じ生を得たのに

ヒロシマの有る国で 

しなければならないことは

ともるいくさの火種を 消すことだろう 


ヒロシマの有る国で/初音ミク

 素晴らしい詞だと思う。しかし、詞の中に、小6当時の私が、何度歌ってもわからなかったところ、そして、小林よしのりの『戦争論』を読んではじめてわかったところがある。

わたしの国とかの国の 人の生命(いのち)は同じ

このあおい大地のうえに同じ生を得たのに

 というところだ。「わたしの国」はわかる。日本だ。「かの国」はどこか。今なら当然こう答えられる。「アメリカ合衆国」と。でも、当時の私はわからなかった。それが意味するのは、私が受けた「平和教育」では、原爆を落とした主体が消されていたということである。そこでは、原爆を落としたのは、アメリカ合衆国ではなく、戦争そのものであった。あるいは、日本の侵略の罪と、それに対する天罰であった。アメリカ合衆国が登場するときは、その天罰の執行者という匿名的存在としてであった。

 この詞は、「かの国」ということばの存在によって、アメリカ合衆国が加害者の意味で登場している。ここは、現代日本に蔓延する「平和教育」的な視点では、「かの国」ではなく、「他の国」とされるべきところだろう。だが、作詞作曲をてがけた山本さとしは1985年当時*1そうせず、原爆を落とされた国=日本、落とした国=アメリカ合衆国という視点を詞に入れた。

 私の受けた「平和教育」は、原爆を落とした国=アメリカ合衆国という視点を排除した。あくまでも、原爆を落としたのは戦争そのものであった。原爆を落とした国としての合衆国の存在を気づかせると、合衆国に憎しみを持つ児童が出てくるだろう。教師は、それを怖れたのだと思う。憎むべきは戦争であり、合衆国ではないというわけである。

 確かに、それにも一理ある。私も、それが理想だと思う。だが、はじめから合衆国は憎まず戦争を憎むというのは、高度なことを求めすぎているように思う。原爆を落としたのが合衆国であると知り、それを(日本人として)許せない気持ちを持ちつつも、どう乗り越えるかというのが、自然であるように思う。

 (日本人として)と書いた。おそらく、「平和教育」ではそういう視点を排除したかったのだと思う。戦争が原爆を落としたことにすれば、敵は戦争であり、味方は人類全員である。だが、アメリカ合衆国が原爆を落としたことを思い出すと、民族としての日本が想起される。

 今の日本で、ナショナリズム民族主義)を表明するのは、非知性的な態度を示すことのように感じられる。国を超えて世界を見る方がクールという雰囲気だ。だが、私は自身が生まれ育った日本を、数多くの問題のある社会であると思うが、愛しているし、それを自由に表明したい。ナショナリズムの表明は、オリンピックなどスポーツの国際大会などにおいては日本社会に公認されているようだが、私はオリンピックには全然興味を持てないし、そもそも私が表明したいナショナリズムは、もっと本質的な(と私は思う)意味におけるものだ。

 それを述べる。私が大切にしたいのは、記憶としての歴史である。特に、先の大戦の戦死者の記憶が忘れられない。彼らが命をかけて守った日本を守りたいし、より良い方向に変えていきたい。そして、私のナショナリズムは、彼ら戦死者をはじめとした多くの日本人が、歴史的存在の日本を体現すると信じてきた天皇ーー国民のために祈ってくれる完全な公的存在ーーに集約される。

 私のナショナリズムは、権威主義とは違う。私は権威主義が大の嫌いである。私のナショナリズムは、権威主義に抵抗するための、倫理観として働いてくれる。私の内なる公共心が、ナショナリズムに支えられているのを感じる。

 例えば、私が今している竹内敏晴のレッスンを普及する活動にせよ、将来(今のところ)志している小学校教員にせよ、共に主な活動区域が関西であり、関西への愛郷心に支えられているが、同時に、日本をよくしようという愛国心*2にも支えられている。その先には、それが世界をよくすることになるという人類愛的な思想もある。

 結局、愛郷心愛国心も人類愛も、倫理観を求める働きによるものであり、どれがよくてどれが悪いということはないのだ。だが、現代日本では、愛国心だけが悪者になっている。

 それはどうしてか。先の大戦の結果で、愛国心があまりにも強調されすぎた結果だろう。しかし、悪いのは愛国心ではなく、愛国心を乱用することである。

 私が日本社会の成員に望むのは、一度先の大戦から距離を置いて、内にあるナショナリズムを見つめ直すことである。そうすれば、オリンピックや他国との紛争のような喧噪の時だけではなく、自分や家族、故郷、友人から同心円的に広がる、静かな愛国心がいつも存在することに気がつくと思う。その先には、人類、生きとし生けるもの、地球、宇宙、森羅万象への愛がある。それら全てを大切にすればいいと思う。

 だが実際、今の世界でナショナリズムは大きな力を持つ。時に戦争を引き起こしてしまうくらいに。だから、それが加熱しすぎないように常に注意しなくてはいけない。そのために、先の大戦を反省することはとても大切であると思う。だが、愛国心そのものは否定しないでほしい。

*1:http://www.satoshi-y.net/profile%202016.htm

*2:ナショナリズムを的確に表す日本語はなく、国民主義民族主義愛国心などが当てられる ここでは愛国心を使いたくなった

「からだとことばのレッスン」琵琶湖合宿体験記

7月の三連休に、瀬戸嶋充さん主催の「からだとことばのレッスン」2泊3日の合宿が琵琶湖畔であった。 

宮沢賢治の物語を、3日間かけて芝居に起こすのである。

合宿がはじまる前から不安はほとんどなく、ひたすら楽しみにしていたのは、前回1月の神奈川県三浦海岸での合宿が、僕の今までの常識をひっくり返すくらいに楽しかったからだった。

その時も宮沢賢治の物語を読んだ。はじめは、朗読をするのだが、吃音のためにことばがつまってなかなか声にならない。そのために焦り、なんとか声を出そうともがく。だが、何度も皆でレッスンを重ね、朗読にしだいに動きが入り、それが芝居になっていくとき、どもるかどもらないかという意識を越えることができた。僕にとっていつも、人前で声を出すときにどもるかどもらないかは、とても重要なことであったし、今もそうだ。それは少なくとも僕にとって当たり前のことで、どもると、何せ目立つし、聞いている人もどうしていいか戸惑うことが多く、僕の方も申し訳なくなってしまう。ことばがのどにつまって出てこないことがはじまった、小学2年生の時以来、ずっと人前でつきまとった、「どもらなければいいな」という意識から、この芝居の瞬間はじめて自由になることができた。また、この時は、全然どもらずにセリフが言えたのだが、しかしやはりうれしかったのは、どもらなかったことではなく、どもるかどうかを含めて、ほとんどあらゆる自意識から自由になったことである。最後の3日間の集大成となる芝居では、『どんぐりと山猫』の山猫の小間使いのような役割の、「馬車別当」を演じたのだが、物語の世界に深く入り込んだためか、普段は使わない東北弁がすらすらと自分の生まれ育ったことばのように出てきて、馬車別当が楽しいときは楽しい感情が、悲しいときは悲しい感情が、それを「感情」と客観視する余裕も必要もなく自然とわき上がってきた。そうなると見ている方もおもしろいらしく、爆笑してくれるのだが、特にそれに気を取られることもなく、やはり馬車別当でいられるのであった。他の人も、とても自由で真剣で、30歳をすぎた人が犬や猫になって走り回ったり、喜怒哀楽が全身で表現されていて、それを客側で見るとおもしろくて仕方がなく、笑い転げてしまうのであった。

琵琶湖合宿1日目は、はじめはからだをほぐし、「ららららー」と声を出すことからはじまった。印象に残っているのが、ペアになって、「バカー!」と振り向きざまに叫ぶレッスンだ。ペアの人はIさんという男性。「バカー!」と言っても、言われても、あんまり気持ちよくないなとはじめ感じた。特に言われるときは、Iさんの顔がちょっと怖い。僕も怖い顔をしていたかもしれない。何度か、「バカー」と言い合う。すると、Nさんという女性が、このレッスンは合わないのか、やめて長椅子に座っているのが見えた。僕は特に気にせず続ける。どうすれば声が相手に届くかと考える。瀬戸嶋さんが「みんな、感情を込めて言おうとしている。感情は込めなくていい。音を届けることを考えればいい」と言われ、まずは「バ」だけ次に「カ」だけ、振り向きざまに言い合う。そうすると、さっきまであった嫌な感じがない。続けて、「バカー!」と言い合う。やはり嫌な感じはせず、ただ「バカー!」という音が出ていき、入ってくる。今まで、声をよく出すことは、感情を相手に伝えることだと思ってきたが、そうじゃないものがあるのではないかと気づく。気がつくと、Nさんは稽古場を離れて寝泊まりする建物に戻ってしまっていた。

次に、ペアになって宮沢賢治の『鹿踊りのはじまり』を読むのだが、僕はことばがのどにつまって、はじめは全然出てこなかった。ペアのKさんも、どうしたものかという様子。すると、瀬戸嶋さんが、「足で俺のからだを押してみ」と言う。かなり力を入れないと押せないが、そうすると全然出なかったことばが、とぎれとぎれに出てくる。「そこらが」「まだ」「まるっきり」という様子である。足がつったので手で押すのに切り替えて続ける。「天気のいい日に」「嘉十も出かけていきました」「糧と味噌と」「鍋とをしょって」と、次第に長くなる。そうしているうちに、押さなくてもリズムに乗って読めるようになってくる。実はこれは普段の定例会でも経験していることで、そんなに驚きはしないのだが、やはりおもしろいと思う。声を出すときに、腹から下に重さがかかっていることが大切なのだと思う。

夜は宴会。湖に向けて開けた和室で、お酒を飲む。竹内敏晴で卒論を書いた大学の先輩のKさんが、竹内の代表作『ことばが劈かれるとき』を見せてくれる。付箋やメモがぎっしりで驚く。僕も竹内敏晴で卒論を書くつもりなので、これくらい真面目にやらなくちゃいけないなと思う。

2日目は、2つのグループにわかれ、いよいよ芝居の稽古に入る。『鹿踊りのはじまり』の物語を説明すると、鹿6匹が人間(嘉十)の落とした団子を見つけるが、近くに一緒に落ちている何か生き物のようなものが怖くて団子に近寄れず、したがって食べることができない。まずそれが何かを鹿たちが交互に確かめる。そして、それが手ぬぐいだとわかり喜んで、団子を食べ、そのことを自然の神様に感謝するという話である。まずはナレーターをしたい人を瀬戸嶋さんが呼びかけるが、僕はどもるので、ナレーターをするのはいつも遠慮してしまう。希望者がいてすぐに決まり、たまには挑戦してもいいのかも…と思うが、まあいいか、とも思う。

舞台は大きな和室の部屋で、それを半分は舞台、半分は客席にする。1つのグループが舞台にいるときは、もう1つのグループは客席にいて稽古を見るのだが、別に真面目に見なくてもよくて、たいてい寝転がっており、眠い人は寝ている。「からだとことばのレッスン」を創始した竹内敏晴がよく書いている「したくない自由」は、瀬戸嶋さんも尊重されているようで、したいことをして、したくないことはしなくていい。それはレッスンの内容でもそうである。稽古では、よく瀬戸嶋さんが途中で止めて、アドバイスをし、瀬戸嶋さん自身で演じることもある。瀬戸嶋さんの動きはとてもおもしろく、声をたてて笑ってしまう。

琵琶湖で泳いだことについても書きたい。湖水浴は小学1年以来だったと思う。初日のレッスンの前に泳いだが、水温はぬるかった。奥まで行くと足がつかなくなる。プールにはたまに行くが、プールはどこも足がつく。だから足がつかないのはおそろしく、奥には行かないようにする。水はわりに濁っている。2日目の昼は、川が湖にそそいでいるところに行ったが、川の水はとても冷たくておどろいた。河口はブラックバスがよく釣れるらしく、釣り人がたくさんいる。浜からは、比良山地1000m級の山々が見渡せ、壮観である。

2日目の夕暮れは、皆で琵琶湖畔に行き、「ららららー」と声をだして、セリフを読んだ。波の音(行くまで忘れていたが、琵琶湖も波があるのだ)に負けないように、広大な湖に向かって大きな声が自然と出る。そうしてから稽古場に戻ると、みな声の出方が全然違う。とても大きく、広がりのある声になっている。

その日の夜も宴会。以前から一緒にレッスンを受けている、年上の笑顔の美しい女性Mさんにひざまくらをしてもらっていた。実に幸せな気持ちになる。みなに「男性陣はみな嫉妬してるよ」とか「これは八木くんにしかできないわ」と言われ、少しいい気になる。瀬戸嶋さんが「俺の役割を取られちゃった」と言うので、「どういうことですか?」と聞くと、瀬戸嶋さんも昔はレッスンの後に、女性にひざまくらをしてもらっていたらしい。その点では、師匠の後を継ぐ忠実な弟子になることができている。以前の合宿で知り合ったYさんにもひざまくらをしてもらう。ちなみに、ひざまくらをしてもらうのは、10代以降ではじめてであったように思う。普段は、そうしてもらいたくてもお願いできないのだが、ずいぶんリラックスできたおかげである。その後、野口三千三さんのレッスンの動画を見る。20代後半くらいの瀬戸嶋さんも映っていて、「今と全然違う」「好青年や~」とみんな言うし、僕も思う。でも瀬戸嶋さんは「今と似た部分があっておもしろかった」と言う。瀬戸嶋さんは、「俺は若い頃は人とコミュニケーションが全然取れなかったし、自由に表現することもできなかった」とおっしゃっていて、その瀬戸嶋さんが今、こんなに内のすばらしいものを表現されていることがすごいなと思う。僕は思うのだが、すべての人が、内なるものを自由に表現できる才能を持っていて、その表現はそれぞれに個性があっておもしろいものだ。だが、どうしても常識や自意識にとらわれて、自由な表現ができない。しかし、瀬戸嶋さんのように、そのことに取り組み続けると、自意識の壁を少しずつ乗り越えていくことができる。レッスンでは、どうしても自意識の壁をうまく越えられる人と、うまく越えられない人がでてきてしまうが、後者の人もレッスンに来続けているのがすごいことだと思う。それだけみな、可能性を感じているのだ。

3日目は、午前から昼過ぎまでリハーサルをして、それから本番である。リハーサルまでは、時々ストップが入り瀬戸嶋さんのアドバイスがあるが、もうここまで来ると、かなり物語に入ることができる。疲れがたまっているはずなのだが、いざ舞台に立つととても元気に動くことができる。鹿の役で、ずっとぴょんぴょん飛び跳ねることができる。セリフを言っても、客席の人たちが笑ってくれるようになる。

昼はピラフが出たのだが、3杯も食べてしまった。その後、琵琶湖で泳ぐ。足のつかないところまで行ってみる。おそるおそる進んで行ったが、意外と足がつかなくてもなんとかなるものだった。遊泳区画の一番奥まで行って、戻ってくる。

そして本番。本番は瀬戸嶋さんのストップも入らないし、客席の人たちもわりと真面目に見ている。本番の直前になってはじめて、緊張を感じる。でも心地よい種類の緊張だ。テンションがあがって意味もなくトンビのまねをしたりする。セリフは、決まっているところと、そうでないところとがある。はじめの方は特に決まっていないのだが、自然と言いたくなって言う。今回は前回の合宿とは違い、本番でも、わりとどもりが出る。が、そんなに気にならない。ひたすら、演じることが楽しい時間だった。固定したものはほとんどなく、さっきやったリハーサルともまた違った動きが出てくる。客席の人たちも、よく笑ってくれた。一緒に演じてすごかったのが、NさんとYさんである。ともに、ボディーワークを長く教えられているせいか、からだが物語に深く入り込んでしまっていて、彼女らに僕のからだが動かされる。セリフを言うときも、つい彼女らの顔をみて言う。Nさんは70代前半の女性なのだが、全然年を感じさせない。汗だくになって、本番は終わった。

何かまとめようと思ったが、書くことが思いつかないので、ここで終える。合宿で出会った人たちに感謝する。みなさんの個性が印象に残っている。

ジェンダーの規範から自由になるーー異性装という選択肢ーー

 最近、服を買いに行くのが楽しい。女性服を買うようになったからだ。

 私は身長が150cm代後半、体重が40kg代前半と非常に小柄で、男性服は基本的にどれも大きい。Sサイズでもだいたい大きい。

 それでも、いつも男性服の売り場に行って、その中で一番小さい、それでも少し大きめの服を買って、袖をまくったり裾を折ったりして着ていた。

 でも、あるきっかけで女性服売り場に行くと、自分のからだに合ったサイズばかりで、選択肢が今までとは比べものにならないくらい増えた。女性らしさを強調した服以外にも、ユニセックス的な服はたくさんあり、それらはよく注意しないと女性物とわからない。今まで着ていた服よりからだに合っているので、着心地もいいし、見た目もカッコいい。

 とはいえ、女性服しか売っていない店に行くと、人目が気になってしまう。今は、ユニクロ無印良品に行っているが、これらのいいところは同じフロアに男性服と女性服の売り場があることだ。「男性服売り場に行くつもりだったけど、この店に慣れていなくて迷い込んだ人」とか「男性服売り場に行くつもりだったけど、なんとなくついでに女性服売り場に来てみた人」という設定にして、のびのびと女性服を見ることができる。男性服と女性服でほとんど同じデザインのものも多い。

 でももう少しおしゃれな感じの店にも行きたいので、妹にお願いして、「妹の買い物に付き合っている人」の設定で行ってみようと思う。いつかは自分一人でも女性服専門の店に入れるようになりたいが、もう少し時間がかかる。

 今まで、「男性服しか着ちゃダメだ」と思い込んでいたのが、もったいなかったな~と思う。そういう、自分の利益にも他人の利益にもならない規範意識は取り払ってしまうのがいい。

 女性服を着るようになったきっかけとは、「女性装」という言葉を生み出し、必ずしも男性服にこだわらず、女性服を含めて「私にとって自然な格好」をするという、安富歩さんの『ありのままの私』を読んだことだ。安富さんは、セックスは男性で、従って自動的にジェンダーも男性として生き、京大を出て三井住友銀行に勤め、若くして東大助教になるという、「エリート」の典型のような人生を送ってきた。だが、精神的な違和感は社会的地位が上がるにつれどんどん大きくなり、とうとう危機に至って、それまでの生き方を振り返ることになった。そうすると、自分を縛っていた、本当はいらない価値観に気がついた。その一つが「男らしさ」で、男性の服装をやめることはその象徴のようなものとなった。

 

ありのままの私

ありのままの私

 

 

 安富さんの写真を見ると、性的な意味ではなく、純粋にきれいだな~と思う。男性服を着ていた時の写真よりもずっと自分らしさが出ていて、美しい。

wotopi.jp

(話がそれるが、女性向けネットメディアwotopiは男性の私が見ても参考になる記事が多く、良質なメディアだ)

 

 私は今は男女どちらが着てもいいような服の、女性用サイズを着ているが、安富さんのように女性っぽい格好もできたらいいな~と思う。「今日は男性っぽい感じに」「今日は女性っぽい感じに」と、その日の気分で服装を分けることができたらおもしろそうだ。

 私はいわゆるセクシュアルマイノリティの自覚はない。98%くらいはヘテロセクシュアルと自覚している(私に限らず、たいていの場合100%とは言い切れないものだと思う。少年愛がしばしば見られた古代ギリシアや前近代日本の例を見ても、「ほとんどの人が100%ヘテロセクシュアル」というのは違うんじゃないだろうか)。だが、つきつめれば誰もがセクシュアルマイノリティである。

 「勉強も部活動も頑張っています」というのが日本の中高生の「あるべき姿」であり、特に男子の場合、その「部活動」は運動部のことだ。だが私は、運動そのものはわりに好きだが、前述した体格の小ささのために、同級生の男子に部活動という「競争」で勝つことはできず、中一で入った運動部はすぐにやめてしまった。まずこの時点で「健全な男子生徒」からは外れてしまっているが、幼稚園の頃から男子・男性社会に特有の粗野な感じはとても苦手で、小学生の時は女の子と教室で話をしたり一緒に帰ったりするのが好きだった。中高は男子校に通い女性との交流はほとんどなくなったが、共学の大学に通い、大学外でも活動をして、女性と付き合う機会がある今は、中高と比べて格段に居心地よい人間関係ができている。こう見ればわかるように、私は一般的な男性よりも女性性が強く、「男らしさ」の規範には適応できないし、したくない。そんな中で、安富さんがしたように女性の服を着ることは、「男らしさ」の規範から自分を自由にする象徴になり、希望が持てる。

 今の話は、私自身の吃音にもいえることだった。高校生までは「『普通』に話さなくてはいけない。そうできない自分はダメだ」と思っていた。だが、その「普通」という規範から逃れられた時に、ぐっと楽になることができた。

 私はジェンダーについても、規範からもっと自由でありたい。体格が小さいから、運動部じゃないから、文学部に通って「実学」をやらないから、「男らしくなくてダメだ」と言われるなら、そんな「男らしさ」なんていらない。ジェンダーの男性である前に、私は私なのだ。