歴史なき「平和教育」を乗り越えたい

 小学生のとき、熱心な「平和教育」を受けた。3・4年生で近代日本の朝鮮侵略と、先の大戦で日本が受けた都市空襲、6年の1学期で修学旅行先の広島の原爆について学んだ。

 その結果、「戦前までの日本はひどい国で、アジアの人たちをひどい目に合わせた。中国やロシアとの戦争に勝ったことで調子に乗って、無謀にもアメリカに戦争をしかけ、原爆を落とされ、負けた。敗戦で日本は反省して、平和を60年間守り続ける立派な国になった」という歴史観を持った。

 それがゆさぶられたのは、中3のとき、学校の図書室で小林よしのりの『戦争論』を読んだときだった。そこに述べられていた「大東亜戦争肯定論」に対し、はじめは非常に反発心を持った。だが、気になって読むのをやめることができない。中3から高1にかけて、図書室に置いてあった「ゴーマニズム宣言スペシャル」のシリーズを、何度も繰り返して読んだ。 

新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論

新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論

 

 

 小林よしのりの述べていたことで、一番はっとしたのが、戦争は歴史の中で起こるということだ。それはつまり、戦争は相手があって、原因があって起こるということだ。それは、小学生のときに受けた「平和教育」とあい対するものとして認識させられた。

 「平和教育」での戦争は、歴史がなかった。小3・4年のときは、歴史の授業はされていなかったし、広島の原爆を学んだ6年の1学期は、日本史の授業は平安時代が終わった頃だった。だから、「平和教育」では、日本史のじゅうぶんな知識なしに、近代日本、特に先の大戦のことを学んだことになる。

 6年の時に「平和教育」の授業で暗唱し、今もそらで歌える歌がある。「ヒロシマの有る国で」という歌だ。よく歌った(歌わされた)1番の歌詞は以下である。  

八月の青空に 今もこだまするのは

若き詩人の叫び 遠き被爆者の声

あなたに感じますか 手のひらの温もりが

人の悔し涙が 生き続ける苦しみが

わたしの国とかの国の 人の生命(いのち)は同じ

このあおい大地のうえに同じ生を得たのに

ヒロシマの有る国で 

しなければならないことは

ともるいくさの火種を 消すことだろう 


ヒロシマの有る国で/初音ミク

 素晴らしい詞だと思う。しかし、詞の中に、小6当時の私が、何度歌ってもわからなかったところ、そして、小林よしのりの『戦争論』を読んではじめてわかったところがある。

わたしの国とかの国の 人の生命(いのち)は同じ

このあおい大地のうえに同じ生を得たのに

 というところだ。「わたしの国」はわかる。日本だ。「かの国」はどこか。今なら当然こう答えられる。「アメリカ合衆国」と。でも、当時の私はわからなかった。それが意味するのは、私が受けた「平和教育」では、原爆を落とした主体が消されていたということである。そこでは、原爆を落としたのは、アメリカ合衆国ではなく、戦争そのものであった。あるいは、日本の侵略の罪と、それに対する天罰であった。アメリカ合衆国が登場するときは、その天罰の執行者という匿名的存在としてであった。

 この詞は、「かの国」ということばの存在によって、アメリカ合衆国が加害者の意味で登場している。ここは、現代日本に蔓延する「平和教育」的な視点では、「かの国」ではなく、「他の国」とされるべきところだろう。だが、作詞作曲をてがけた山本さとしは1985年当時*1そうせず、原爆を落とされた国=日本、落とした国=アメリカ合衆国という視点を詞に入れた。

 私の受けた「平和教育」は、原爆を落とした国=アメリカ合衆国という視点を排除した。あくまでも、原爆を落としたのは戦争そのものであった。原爆を落とした国としての合衆国の存在を気づかせると、合衆国に憎しみを持つ児童が出てくるだろう。教師は、それを怖れたのだと思う。憎むべきは戦争であり、合衆国ではないというわけである。

 確かに、それにも一理ある。私も、それが理想だと思う。だが、はじめから合衆国は憎まず戦争を憎むというのは、高度なことを求めすぎているように思う。原爆を落としたのが合衆国であると知り、それを(日本人として)許せない気持ちを持ちつつも、どう乗り越えるかというのが、自然であるように思う。

 (日本人として)と書いた。おそらく、「平和教育」ではそういう視点を排除したかったのだと思う。戦争が原爆を落としたことにすれば、敵は戦争であり、味方は人類全員である。だが、アメリカ合衆国が原爆を落としたことを思い出すと、民族としての日本が想起される。

 今の日本で、ナショナリズム民族主義)を表明するのは、非知性的な態度を示すことのように感じられる。国を超えて世界を見る方がクールという雰囲気だ。だが、私は自身が生まれ育った日本を、数多くの問題のある社会であると思うが、愛しているし、それを自由に表明したい。ナショナリズムの表明は、オリンピックなどスポーツの国際大会などにおいては日本社会に公認されているようだが、私はオリンピックには全然興味を持てないし、そもそも私が表明したいナショナリズムは、もっと本質的な(と私は思う)意味におけるものだ。

 それを述べる。私が大切にしたいのは、記憶としての歴史である。特に、先の大戦の戦死者の記憶が忘れられない。彼らが命をかけて守った日本を守りたいし、より良い方向に変えていきたい。そして、私のナショナリズムは、彼ら戦死者をはじめとした多くの日本人が、歴史的存在の日本を体現すると信じてきた天皇ーー国民のために祈ってくれる完全な公的存在ーーに集約される。

 私のナショナリズムは、権威主義とは違う。私は権威主義が大の嫌いである。私のナショナリズムは、権威主義に抵抗するための、倫理観として働いてくれる。私の内なる公共心が、ナショナリズムに支えられているのを感じる。

 例えば、私が今している竹内敏晴のレッスンを普及する活動にせよ、将来(今のところ)志している小学校教員にせよ、共に主な活動区域が関西であり、関西への愛郷心に支えられているが、同時に、日本をよくしようという愛国心*2にも支えられている。その先には、それが世界をよくすることになるという人類愛的な思想もある。

 結局、愛郷心愛国心も人類愛も、倫理観を求める働きによるものであり、どれがよくてどれが悪いということはないのだ。だが、現代日本では、愛国心だけが悪者になっている。

 それはどうしてか。先の大戦の結果で、愛国心があまりにも強調されすぎた結果だろう。しかし、悪いのは愛国心ではなく、愛国心を乱用することである。

 私が日本社会の成員に望むのは、一度先の大戦から距離を置いて、内にあるナショナリズムを見つめ直すことである。そうすれば、オリンピックや他国との紛争のような喧噪の時だけではなく、自分や家族、故郷、友人から同心円的に広がる、静かな愛国心がいつも存在することに気がつくと思う。その先には、人類、生きとし生けるもの、地球、宇宙、森羅万象への愛がある。それら全てを大切にすればいいと思う。

 だが実際、今の世界でナショナリズムは大きな力を持つ。時に戦争を引き起こしてしまうくらいに。だから、それが加熱しすぎないように常に注意しなくてはいけない。そのために、先の大戦を反省することはとても大切であると思う。だが、愛国心そのものは否定しないでほしい。

*1:http://www.satoshi-y.net/profile%202016.htm

*2:ナショナリズムを的確に表す日本語はなく、国民主義民族主義愛国心などが当てられる ここでは愛国心を使いたくなった

「からだとことばのレッスン」琵琶湖合宿体験記

7月の三連休に、瀬戸嶋充さん主催の「からだとことばのレッスン」2泊3日の合宿が琵琶湖畔であった。 

宮沢賢治の物語を、3日間かけて芝居に起こすのである。

合宿がはじまる前から不安はほとんどなく、ひたすら楽しみにしていたのは、前回1月の神奈川県三浦海岸での合宿が、僕の今までの常識をひっくり返すくらいに楽しかったからだった。

その時も宮沢賢治の物語を読んだ。はじめは、朗読をするのだが、吃音のためにことばがつまってなかなか声にならない。そのために焦り、なんとか声を出そうともがく。だが、何度も皆でレッスンを重ね、朗読にしだいに動きが入り、それが芝居になっていくとき、どもるかどもらないかという意識を越えることができた。僕にとっていつも、人前で声を出すときにどもるかどもらないかは、とても重要なことであったし、今もそうだ。それは少なくとも僕にとって当たり前のことで、どもると、何せ目立つし、聞いている人もどうしていいか戸惑うことが多く、僕の方も申し訳なくなってしまう。ことばがのどにつまって出てこないことがはじまった、小学2年生の時以来、ずっと人前でつきまとった、「どもらなければいいな」という意識から、この芝居の瞬間はじめて自由になることができた。また、この時は、全然どもらずにセリフが言えたのだが、しかしやはりうれしかったのは、どもらなかったことではなく、どもるかどうかを含めて、ほとんどあらゆる自意識から自由になったことである。最後の3日間の集大成となる芝居では、『どんぐりと山猫』の山猫の小間使いのような役割の、「馬車別当」を演じたのだが、物語の世界に深く入り込んだためか、普段は使わない東北弁がすらすらと自分の生まれ育ったことばのように出てきて、馬車別当が楽しいときは楽しい感情が、悲しいときは悲しい感情が、それを「感情」と客観視する余裕も必要もなく自然とわき上がってきた。そうなると見ている方もおもしろいらしく、爆笑してくれるのだが、特にそれに気を取られることもなく、やはり馬車別当でいられるのであった。他の人も、とても自由で真剣で、30歳をすぎた人が犬や猫になって走り回ったり、喜怒哀楽が全身で表現されていて、それを客側で見るとおもしろくて仕方がなく、笑い転げてしまうのであった。

琵琶湖合宿1日目は、はじめはからだをほぐし、「ららららー」と声を出すことからはじまった。印象に残っているのが、ペアになって、「バカー!」と振り向きざまに叫ぶレッスンだ。ペアの人はIさんという男性。「バカー!」と言っても、言われても、あんまり気持ちよくないなとはじめ感じた。特に言われるときは、Iさんの顔がちょっと怖い。僕も怖い顔をしていたかもしれない。何度か、「バカー」と言い合う。すると、Nさんという女性が、このレッスンは合わないのか、やめて長椅子に座っているのが見えた。僕は特に気にせず続ける。どうすれば声が相手に届くかと考える。瀬戸嶋さんが「みんな、感情を込めて言おうとしている。感情は込めなくていい。音を届けることを考えればいい」と言われ、まずは「バ」だけ次に「カ」だけ、振り向きざまに言い合う。そうすると、さっきまであった嫌な感じがない。続けて、「バカー!」と言い合う。やはり嫌な感じはせず、ただ「バカー!」という音が出ていき、入ってくる。今まで、声をよく出すことは、感情を相手に伝えることだと思ってきたが、そうじゃないものがあるのではないかと気づく。気がつくと、Nさんは稽古場を離れて寝泊まりする建物に戻ってしまっていた。

次に、ペアになって宮沢賢治の『鹿踊りのはじまり』を読むのだが、僕はことばがのどにつまって、はじめは全然出てこなかった。ペアのKさんも、どうしたものかという様子。すると、瀬戸嶋さんが、「足で俺のからだを押してみ」と言う。かなり力を入れないと押せないが、そうすると全然出なかったことばが、とぎれとぎれに出てくる。「そこらが」「まだ」「まるっきり」という様子である。足がつったので手で押すのに切り替えて続ける。「天気のいい日に」「嘉十も出かけていきました」「糧と味噌と」「鍋とをしょって」と、次第に長くなる。そうしているうちに、押さなくてもリズムに乗って読めるようになってくる。実はこれは普段の定例会でも経験していることで、そんなに驚きはしないのだが、やはりおもしろいと思う。声を出すときに、腹から下に重さがかかっていることが大切なのだと思う。

夜は宴会。湖に向けて開けた和室で、お酒を飲む。竹内敏晴で卒論を書いた大学の先輩のKさんが、竹内の代表作『ことばが劈かれるとき』を見せてくれる。付箋やメモがぎっしりで驚く。僕も竹内敏晴で卒論を書くつもりなので、これくらい真面目にやらなくちゃいけないなと思う。

2日目は、2つのグループにわかれ、いよいよ芝居の稽古に入る。『鹿踊りのはじまり』の物語を説明すると、鹿6匹が人間(嘉十)の落とした団子を見つけるが、近くに一緒に落ちている何か生き物のようなものが怖くて団子に近寄れず、したがって食べることができない。まずそれが何かを鹿たちが交互に確かめる。そして、それが手ぬぐいだとわかり喜んで、団子を食べ、そのことを自然の神様に感謝するという話である。まずはナレーターをしたい人を瀬戸嶋さんが呼びかけるが、僕はどもるので、ナレーターをするのはいつも遠慮してしまう。希望者がいてすぐに決まり、たまには挑戦してもいいのかも…と思うが、まあいいか、とも思う。

舞台は大きな和室の部屋で、それを半分は舞台、半分は客席にする。1つのグループが舞台にいるときは、もう1つのグループは客席にいて稽古を見るのだが、別に真面目に見なくてもよくて、たいてい寝転がっており、眠い人は寝ている。「からだとことばのレッスン」を創始した竹内敏晴がよく書いている「したくない自由」は、瀬戸嶋さんも尊重されているようで、したいことをして、したくないことはしなくていい。それはレッスンの内容でもそうである。稽古では、よく瀬戸嶋さんが途中で止めて、アドバイスをし、瀬戸嶋さん自身で演じることもある。瀬戸嶋さんの動きはとてもおもしろく、声をたてて笑ってしまう。

琵琶湖で泳いだことについても書きたい。湖水浴は小学1年以来だったと思う。初日のレッスンの前に泳いだが、水温はぬるかった。奥まで行くと足がつかなくなる。プールにはたまに行くが、プールはどこも足がつく。だから足がつかないのはおそろしく、奥には行かないようにする。水はわりに濁っている。2日目の昼は、川が湖にそそいでいるところに行ったが、川の水はとても冷たくておどろいた。河口はブラックバスがよく釣れるらしく、釣り人がたくさんいる。浜からは、比良山地1000m級の山々が見渡せ、壮観である。

2日目の夕暮れは、皆で琵琶湖畔に行き、「ららららー」と声をだして、セリフを読んだ。波の音(行くまで忘れていたが、琵琶湖も波があるのだ)に負けないように、広大な湖に向かって大きな声が自然と出る。そうしてから稽古場に戻ると、みな声の出方が全然違う。とても大きく、広がりのある声になっている。

その日の夜も宴会。以前から一緒にレッスンを受けている、年上の笑顔の美しい女性Mさんにひざまくらをしてもらっていた。実に幸せな気持ちになる。みなに「男性陣はみな嫉妬してるよ」とか「これは八木くんにしかできないわ」と言われ、少しいい気になる。瀬戸嶋さんが「俺の役割を取られちゃった」と言うので、「どういうことですか?」と聞くと、瀬戸嶋さんも昔はレッスンの後に、女性にひざまくらをしてもらっていたらしい。その点では、師匠の後を継ぐ忠実な弟子になることができている。以前の合宿で知り合ったYさんにもひざまくらをしてもらう。ちなみに、ひざまくらをしてもらうのは、10代以降ではじめてであったように思う。普段は、そうしてもらいたくてもお願いできないのだが、ずいぶんリラックスできたおかげである。その後、野口三千三さんのレッスンの動画を見る。20代後半くらいの瀬戸嶋さんも映っていて、「今と全然違う」「好青年や~」とみんな言うし、僕も思う。でも瀬戸嶋さんは「今と似た部分があっておもしろかった」と言う。瀬戸嶋さんは、「俺は若い頃は人とコミュニケーションが全然取れなかったし、自由に表現することもできなかった」とおっしゃっていて、その瀬戸嶋さんが今、こんなに内のすばらしいものを表現されていることがすごいなと思う。僕は思うのだが、すべての人が、内なるものを自由に表現できる才能を持っていて、その表現はそれぞれに個性があっておもしろいものだ。だが、どうしても常識や自意識にとらわれて、自由な表現ができない。しかし、瀬戸嶋さんのように、そのことに取り組み続けると、自意識の壁を少しずつ乗り越えていくことができる。レッスンでは、どうしても自意識の壁をうまく越えられる人と、うまく越えられない人がでてきてしまうが、後者の人もレッスンに来続けているのがすごいことだと思う。それだけみな、可能性を感じているのだ。

3日目は、午前から昼過ぎまでリハーサルをして、それから本番である。リハーサルまでは、時々ストップが入り瀬戸嶋さんのアドバイスがあるが、もうここまで来ると、かなり物語に入ることができる。疲れがたまっているはずなのだが、いざ舞台に立つととても元気に動くことができる。鹿の役で、ずっとぴょんぴょん飛び跳ねることができる。セリフを言っても、客席の人たちが笑ってくれるようになる。

昼はピラフが出たのだが、3杯も食べてしまった。その後、琵琶湖で泳ぐ。足のつかないところまで行ってみる。おそるおそる進んで行ったが、意外と足がつかなくてもなんとかなるものだった。遊泳区画の一番奥まで行って、戻ってくる。

そして本番。本番は瀬戸嶋さんのストップも入らないし、客席の人たちもわりと真面目に見ている。本番の直前になってはじめて、緊張を感じる。でも心地よい種類の緊張だ。テンションがあがって意味もなくトンビのまねをしたりする。セリフは、決まっているところと、そうでないところとがある。はじめの方は特に決まっていないのだが、自然と言いたくなって言う。今回は前回の合宿とは違い、本番でも、わりとどもりが出る。が、そんなに気にならない。ひたすら、演じることが楽しい時間だった。固定したものはほとんどなく、さっきやったリハーサルともまた違った動きが出てくる。客席の人たちも、よく笑ってくれた。一緒に演じてすごかったのが、NさんとYさんである。ともに、ボディーワークを長く教えられているせいか、からだが物語に深く入り込んでしまっていて、彼女らに僕のからだが動かされる。セリフを言うときも、つい彼女らの顔をみて言う。Nさんは70代前半の女性なのだが、全然年を感じさせない。汗だくになって、本番は終わった。

何かまとめようと思ったが、書くことが思いつかないので、ここで終える。合宿で出会った人たちに感謝する。みなさんの個性が印象に残っている。

ジェンダーの規範から自由になるーー異性装という選択肢ーー

 最近、服を買いに行くのが楽しい。女性服を買うようになったからだ。

 私は身長が150cm代後半、体重が40kg代前半と非常に小柄で、男性服は基本的にどれも大きい。Sサイズでもだいたい大きい。

 それでも、いつも男性服の売り場に行って、その中で一番小さい、それでも少し大きめの服を買って、袖をまくったり裾を折ったりして着ていた。

 でも、あるきっかけで女性服売り場に行くと、自分のからだに合ったサイズばかりで、選択肢が今までとは比べものにならないくらい増えた。女性らしさを強調した服以外にも、ユニセックス的な服はたくさんあり、それらはよく注意しないと女性物とわからない。今まで着ていた服よりからだに合っているので、着心地もいいし、見た目もカッコいい。

 とはいえ、女性服しか売っていない店に行くと、人目が気になってしまう。今は、ユニクロ無印良品に行っているが、これらのいいところは同じフロアに男性服と女性服の売り場があることだ。「男性服売り場に行くつもりだったけど、この店に慣れていなくて迷い込んだ人」とか「男性服売り場に行くつもりだったけど、なんとなくついでに女性服売り場に来てみた人」という設定にして、のびのびと女性服を見ることができる。男性服と女性服でほとんど同じデザインのものも多い。

 でももう少しおしゃれな感じの店にも行きたいので、妹にお願いして、「妹の買い物に付き合っている人」の設定で行ってみようと思う。いつかは自分一人でも女性服専門の店に入れるようになりたいが、もう少し時間がかかる。

 今まで、「男性服しか着ちゃダメだ」と思い込んでいたのが、もったいなかったな~と思う。そういう、自分の利益にも他人の利益にもならない規範意識は取り払ってしまうのがいい。

 女性服を着るようになったきっかけとは、「女性装」という言葉を生み出し、必ずしも男性服にこだわらず、女性服を含めて「私にとって自然な格好」をするという、安富歩さんの『ありのままの私』を読んだことだ。安富さんは、セックスは男性で、従って自動的にジェンダーも男性として生き、京大を出て三井住友銀行に勤め、若くして東大助教になるという、「エリート」の典型のような人生を送ってきた。だが、精神的な違和感は社会的地位が上がるにつれどんどん大きくなり、とうとう危機に至って、それまでの生き方を振り返ることになった。そうすると、自分を縛っていた、本当はいらない価値観に気がついた。その一つが「男らしさ」で、男性の服装をやめることはその象徴のようなものとなった。

 

ありのままの私

ありのままの私

 

 

 安富さんの写真を見ると、性的な意味ではなく、純粋にきれいだな~と思う。男性服を着ていた時の写真よりもずっと自分らしさが出ていて、美しい。

wotopi.jp

(話がそれるが、女性向けネットメディアwotopiは男性の私が見ても参考になる記事が多く、良質なメディアだ)

 

 私は今は男女どちらが着てもいいような服の、女性用サイズを着ているが、安富さんのように女性っぽい格好もできたらいいな~と思う。「今日は男性っぽい感じに」「今日は女性っぽい感じに」と、その日の気分で服装を分けることができたらおもしろそうだ。

 私はいわゆるセクシュアルマイノリティの自覚はない。98%くらいはヘテロセクシュアルと自覚している(私に限らず、たいていの場合100%とは言い切れないものだと思う。少年愛がしばしば見られた古代ギリシアや前近代日本の例を見ても、「ほとんどの人が100%ヘテロセクシュアル」というのは違うんじゃないだろうか)。だが、つきつめれば誰もがセクシュアルマイノリティである。

 「勉強も部活動も頑張っています」というのが日本の中高生の「あるべき姿」であり、特に男子の場合、その「部活動」は運動部のことだ。だが私は、運動そのものはわりに好きだが、前述した体格の小ささのために、同級生の男子に部活動という「競争」で勝つことはできず、中一で入った運動部はすぐにやめてしまった。まずこの時点で「健全な男子生徒」からは外れてしまっているが、幼稚園の頃から男子・男性社会に特有の粗野な感じはとても苦手で、小学生の時は女の子と教室で話をしたり一緒に帰ったりするのが好きだった。中高は男子校に通い女性との交流はほとんどなくなったが、共学の大学に通い、大学外でも活動をして、女性と付き合う機会がある今は、中高と比べて格段に居心地よい人間関係ができている。こう見ればわかるように、私は一般的な男性よりも女性性が強く、「男らしさ」の規範には適応できないし、したくない。そんな中で、安富さんがしたように女性の服を着ることは、「男らしさ」の規範から自分を自由にする象徴になり、希望が持てる。

 今の話は、私自身の吃音にもいえることだった。高校生までは「『普通』に話さなくてはいけない。そうできない自分はダメだ」と思っていた。だが、その「普通」という規範から逃れられた時に、ぐっと楽になることができた。

 私はジェンダーについても、規範からもっと自由でありたい。体格が小さいから、運動部じゃないから、文学部に通って「実学」をやらないから、「男らしくなくてダメだ」と言われるなら、そんな「男らしさ」なんていらない。ジェンダーの男性である前に、私は私なのだ。

「集団的記憶」との向き合い方〜先の大戦と東日本大震災を例にして〜

 一般社会的には異常なことと思われそうだが、私は毎日のように先の大戦のことを考えている。本を読んであれこれ考えることもあるが、ここで言うのはそうではなく、朝起きて歯を磨いているときや、自転車に乗っているときなどにふと、70年前のイメージが浮かんできて「むかし戦争があったなあ~ あの時はたいへんだったなあ~」となんとなく思い出して、すぐに忘れる。それを毎日、10年くらい続けているような気がする。

 ある年配の知人が、「私のからだには、戦争に行った父のPTSD心的外傷後ストレス障害)が引き継がれている」と言っていた。その人は、「人の苦しみは人に伝わっていくものだ。特に、親の苦しみは直接的に子に伝わる。自分に今ある苦しみを、自分で救うことが、世のためにもなる」と続けた。

 先の大戦は当時の日本人全体に深い傷を与えた。だから、今述べた知人のような個人だけでなく、現代の日本社会全体にも、先の大戦のPTSDがあるのだと思う。それは癒やされるべきものだし、戦後の70年間をかけて、徐々に癒やされてきている。

 村上春樹が使っていた言葉だが、私たちは先の大戦の「集団的記憶」を持っているし、それを多くの人、次の世代を担う人と共有しようとしている。だからNHKは毎年いくつもの戦争特番を製作し、学校では「平和教育」が熱心になされる。村上春樹は父が従軍した中国大陸での戦争のことを書き、それを多くの人が読む。集団的記憶はその力強さのために固有性・異端なものを抑圧してしまうという危険な面があるが、人々を結びつける力を持っていて、ある程度の部分は、孤独を解消してくれる。

 私が先の大戦に「異常」なほどに関心を寄せていることも、単に私個人の興味だけではなく、現代日本に生きる一人としての必然性のようなものを感じている。つまり、私が先の大戦のことを考えることは、日本社会が先の大戦のPTSDを癒やそうとすることの一部であるということである。

 私たち現代の日本人が、先の大戦に思いを馳せ、あるいは涙を流す毎に、私たち自身の戦争の傷が癒やされ、社会全体の戦争の傷も癒やされていくことだろう。

 だが同時に忘れてはいけないのは、先の大戦にあまり関心が持てない人がいてもいいということである。それぞれがしたい範囲で、先の大戦のことを考えればいいと思う。同じことが、東日本大震災など他の集団的記憶にもいえる。私自身のことをいえば、東日本大震災の死者には、日本社会がその構成員に求めている(と私が感じている)ほどには、関心を持っていない。NHKなどが多く作る東日本大震災の特番は集団的記憶を強いられているようで、居心地の悪さも感じている。だが一方で、日本社会は東日本大震災で精神、身体、あらゆる面で傷を受けており、東日本大震災のために涙を流す人たちは必要である。人にはそれぞれ事情がある。私が先の大戦に思い入れがあるのにも、先に述べた集団的記憶の他に、個人的な記憶がある。むしろ、こちらの方が影響としては大きいだろう。私は小学校で熱心な「平和教育」を受け、ずっと先の大戦に関する本を読んできたし、岡山大空襲を経験している祖父母と同居し、長崎の郊外出身で兄を原爆で失った祖母が近くにいる。一方、東日本大震災は私が住む関西から遠い東北の出来事で、2011年当時は行ったこともなかったし、知り合いもいなかった。集団的記憶にはそれぞれのやり方で向き合えばいいし、強要するものでもされるものではないと思う。

吃音のドラマ『ラヴソング』が作る「大きな物語」と、それが語り得ない「固有の物語」

 吃音をテーマにした月9のドラマ『ラヴソング』が放送されている。多くの人に吃音を知ってもらうきっかけになることで、吃音当事者としてありがたく思う。こういう人もいるということを、事前に知ってもらっているだけで助かることが多々ある。

www.fujitv.co.jp

 『ラヴソング』は吃音をテーマにした作品の中で、日本ではかつてない影響力を持つことになるだろう。世間の吃音観はこのドラマに大きく即したものとなるだろうし、吃音者自身も、ドラマに自分を重ね合わせるだろう。『ラヴソングは』いわば吃音の「大きな物語」となる。

 だが、そこには常に危険が伴う。「ラヴソング」で語られる吃音は、多くの人が共感できるように、ある程度一般的な吃音となり、ある程度一般的なコミュニケーションの苦しみとなる。

 しかし、一般的な吃音、一般的なコミュニケーションの不全感は実在はしない。本当にあるのは、固有の吃音であり固有の苦しみである。

 一般的なものを否定しているのではない。私自身、吃音に深く悩んでいた高校2年のとき、吃音の人が書いた本を読んで、「吃音で苦しいのは自分だけでない」と知り、大いに救われた。「ラヴソング」も、吃音や、その他の言語障害、あるいはコミュニケーションに悩む、かつてないくらい多くの人々を救うだろう。

 忘れてはいけないのは、『ラヴソング』のような「大きな物語」の後ろに、耳を澄ませないと聞こえないくらい小さな「固有の物語」が、人の数だけあるということだ。ドラマで出てこない、その人自身の、不合理で、万人には共感ができない固有の吃音が、固有のコミュニケーションの苦手意識が、そしてもちろん固有の楽しさやうれしさがあるのだ。

 『ラヴソング』に共感できる多数の吃音者が、個性が強すぎて共感できない少数の吃音者を排除するということがあってはならない。「その吃音は、その苦しみは、『ラヴソング』で描かれたものと違うから、間違ったものだ」などということは絶対にないのである。

 「大きな物語」は、多くの人を情動的に内包できるもので、それ故に力強さを持つ。そして、人は多数派であるときに、自分を「正しい」と思って、それに当てはまらない人を抑圧しがちである。『ラヴソング』でも、同じ事態は、それが目に見えないものでも、起きてしまうと思う。だが、自分を多数派と思っている人も含めて、「大きな物語」に含まれない固有性を誰しも持っている。

 固有性を大切にして生きたい。自分の苦しいことを語るとき、楽しいことを語るとき、「これは『ラヴソング』で描かれなかったものだから語らないでおこう」と思いたくないし、思わないでほしい。堂々と自分の物語を語っていいし、自分の生き方をして固有の物語を作ればいい。私が書いているのも、私の物語に過ぎない。もちろん、一般性を求めて書いている部分もあるが、受けいれられないところがあってもいい。そういう気持ちで書いていくし、そういう気持ちで生きていく。

本当の自分を取り戻す

 何か書きたいと思っていたが、ずっと書くことができなかった。台湾から帰ってきてから新しい変化がたくさんあり、気持ちが整理できていないためだが、整理できないままでもいいから書くことが必要と思って、パソコンを開いた。

 2009年に亡くなった演出家に、竹内敏晴という人がいる。旧制高校に上がるまで耳が聞こえなかった竹内は、聞こえるようになってから努力して言葉を話すことを覚えた。私たちは特に意識的な努力なしにことばを話すようになるが、それを意識的にできるようになることは、たいへんなことであると想像できるだろう。だからであろうか、竹内のことばに対する感覚は鋭敏である。

 竹内は、ことばには「情報伝達のことば」と「表現としてのことば」があるという。今の社会は、前者ばかりを重んじているが、ことばの本質は後者である。人が手やからだで誰かに触れるように、ことばで人に触れることができる。

 この竹内のことばは、吃音者である私にとって、深い実感と励ましを与えてくれた。吃音は、もちろん情報伝達には不利である。だが、私にはどもること自体が何か悪いことであるとは思えない。どもるからこそ生まれることばの力や、どもること自体のおもしろさがあるのは、どこかで感じていた。

 竹内は、演劇の手法で人とのかかわり方やことばの使い方を見直すレッスンを開いていた。竹内のレッスンを引き継いでいる人のところにレッスンに行っているが、何度も衝撃を受けている。朗読や芝居をしても、どもっていい読みができたなと思うこともあれば、どもらずいい読みができたと思うこともある。芝居に入り込んでほとんど自我が消えてしまったことも一度だけあって、その時は実に愉快だった。他にも、下半身をゆらしてゆるめると、声が変わったりする。ことばを出すということ、それ自体がとてもおもしろいことだ。

 

ことばが劈(ひら)かれるとき (ちくま文庫)

ことばが劈(ひら)かれるとき (ちくま文庫)

 

 

 吃音のために、社会に適応するのに困難がある人は多くいるようだし、私自身そういう部分もある。できるだけどもらないようにするために言語聴覚士などの元で訓練を受ける人もいる。だが、そういうことばからはその人の個性が消えてしまっているように見える。これは、私がお金に苦労したことがない人間だという罪悪感を持ちながらあえて言うことだが、社会に適応することが、そんなに大切なことだろうか。社会に適応できない部分にこそ、その人の個が見えて、その個が互いにぶつかり合いながら、いかに折り合いをつけるかがおもしろいのではないだろうか。

 金を稼ぐことは大事だが、そればかり追求していくと、社会が求めるものに自分を合わせるだけになる。個の尖った部分をどんどん削っていき、社会が求める「平均的人間」に近づいていく。今、いわゆる「優秀」とされているのは、そういう人が多いのではないだろうか。ペーパーテストでいい点数を取り、東大や京大に入り、大企業に入る。それはシステムの歯車としての優秀さしか示さないのではないだろうか。人間存在の本質は、金を稼げること=社会の求めることができることにとどまらないはずである。もっと混沌としていて、非合理的なところにあるはずである。

 吃音であること、あるいは何らかの障害や困難があることは、ある意味幸せなことであるように思う。社会に適応しづらいという点で幸せである。社会に適応できない中で、個としての自分を考えざるを得ないために幸せである。

 今の社会は、仕事ができることが大切にされすぎているように思う。仕事をすることで、経済的に自立して、社会の役に立つことができると人は言う。経済的自立はわかるような気がする。私もいつまでも親の金で生きていきたくはないし、他の人がそう思うのもわかる。だが、社会の役に立つというのはどうか。水俣病の原因となる水銀を海に出している会社で働いていた人は社会の役に立っていたのか、大東亜戦争の時に児童生徒に国のために死ねと言った教師は社会の役に立っていたのか、発展途上国の子どもを働かせて作った製品を売っている企業で働く人は社会の役に立っているのか。近代社会で金を回すという点では社会の役に立っていただろう。だが、大きく宇宙の調和を考えたときに、それはむしろマイナスになっている。もちろん、消費だって同じである。だから、この近代社会に適応して金を稼ぎ使うことは必ずしもいいことではないのに、働いていることに偉そうになって、働いていない人をさげすむ人が多すぎるように思う。働いていない人の方が、近代文明に寄与しないという点で、宇宙の調和にはプラスになっているかもしれないのに。もちろん、生きていくために仕事は必要である。だが、生きていくためにしていることを、そのまま社会、宇宙のために正しいことをしていると思ってはいけないだろう。

 まだアルバイト以外に働いたことがない私が上記のようなことを述べる資格があるのか疑問だが、大学生活も終わりに近づいて、どういう仕事をしないといけないかを考えたとき、また吃音を持ちながら働いていくことを考えたときに、思い浮かんだことを述べた次第である。

 大学を出て、何の仕事をするか。私は近代の物質文明が積極的には好きになれない(と言っても、そこでしか生きられないのだが)から、それとは直接関係のない、教員にでもなろうかと思いはじめている。何の仕事をするにせよ、どのような生き方をするにせよ、宇宙の一部として自分を捉えるとよいのだろうと思う。

 近頃は、大学を出てからどうするかと思い悩むことが多くなっている。一昨年の終わりもそうで、その時はどうしようもなくなって休学を決めた。今もそうだが、自分の頭の中でぐるぐる考えてしまって、苦しくなってくる。だが、竹内さんの本を読んでレッスンを受けるなどしても思うことだが、結局はからだが知っているということだ。からだが求めることをするしかないのだ。大学生になってからよく読んだ、村上春樹phaさんも、からだを大事にしているし、精神科医の泉谷閑示などもそうだ。私はもともと、そういう考え方が好きなのだと思う。もっとからだのことを知りたいし、そのために竹内レッスンはもちろん、気功や座禅などできることをしていきたい。そういう方法で、思考ばかりで苦しくなってしまっている現状から抜け出して、本来の、からだに根ざした私自身を浮かび上がらせることができると、もっと楽に生きられるだろうし、それが他者や広くは宇宙全体のためになるのだろうと思う。

高校がつらければ中退して自力で勉強して大学を受けるのもありだと思う

 中高一貫の女子高生が書いた文章を読んだ。

anond.hatelabo.jp 

 私も中学受験をして、中高一貫男子校に通った。

今は虐められてるわけじゃない。友達も少ないながらもいる。感謝しなくちゃいけない。

でも、居場所がない。宙ぶらりんのまま落ちないように気を張ってる。

 そして、彼女の上の言葉は、私が中高の頃に感じていたものと、似ていると思った。余計なお世話かもしれないし、もしそうだったら無視してくれたらいいのだが、彼女を始めとした、学校に行きにくい中高生に向けて、文章を書きたい。

 私は、吃音が大きなコンプレックスで、中2から高2ごろまで、10名前後の友達を除いて、周囲に心を閉ざしていた。

 特に、授業で当てられるのが嫌だった。当てられるたびに、クラス40名の前でどもるのが嫌だった。だからといって、私だけ当てられないのも嫌だった。吃音については、先生も級友も、誰とも話をしなかった。一人で抱え込んでいた。

 というわけで、授業にはあまり集中できていなかったように思う。初めての大学受験では第一志望の国立大学に落ちて、私立大学に行った。だが、その大学が3カ月で嫌になって、後期は休学して、もう一度第一志望を目指すことにした。

 ちょうど両親が離婚して家庭が暗かったので、祖父母が住む地方の県庁所在都市に移って、県立図書館で一人勉強した。もっと充実した中高生活をすればよかったという強い後悔に苛まれつつ、参考書を使ってかなり真剣に勉強をしたら、成績は急激に上がった。秋からはペースが落ちたが、センターも二次も満足いく点数を取ることができて、受かった。

 何が言いたいかというと、もし増田が、高校に行くのをやめたいが、大学受験のことを心配してそれができないと考えているのだとしたら、受験は独学でも何とかなるだろうということだ。精神的に不安定な状態で授業を受けるよりも、落ち着いて一人で勉強した方が成績は上がるのではないかと思う。少なくとも私の場合は、そうだった。 

 もちろん、受験は過程にすぎない。偏差値の高い大学に行けば、すべてがうまく行くというものではないだろう。少なくとも私は、新たに入った大学でも、主にコミュニケーションで、とても苦しんだ。今も、就職を前にして、不安が大きい。

 だが、人生では、なんとか前に進めているという感覚が、大切なのではないかと思う。初めて入った私立大学で、ほとんど行き詰まったときに、一人で勉強して国立大学を目指すという選択肢を持てたことは、私を助けてくれた。増田が本当に、今の学校の生活に行き詰まったときは、学校をやめて一人で勉強して、高認を取り、受験をすることもありだということを伝えたかった。 

 ブコメに、家庭と学校以外の人間関係を持てばいいという意見があったが、それもかなり有効だと思う。私は高校生の頃は、そういうものはなかったが、大学生になって色々なコミュニティに関わるようになって、人間関係には、家庭やクラスのような閉塞的なものだけでなく、もっと開放的なものもあるのだと知ることができたし、そういう関係の楽さに、心地いいものも感じている。

大学3回生のとき、就職したくなくてうつ状態になった

大学3回生の10月、就活をしないといけないのに全くやる気が出なくて、でも時間は過ぎていくことにプレッシャーを感じて、うつ状態(正確にはわからないが…)になった。

僕は吃音(どもり)があって、それもわりと重くて、面接のような場面はとても苦手だし、コミュニケーションの苦手意識もその時は強くて、就職してから仕事や周囲とのコミュニケーションをやっていけるかとても不安だった。

僕は高校生くらいから、海外、特に中国を中心にした東アジア・東南アジアに興味があって、何度も旅行をしているし、今も中国の学生と関わるサークルをしているくらいで、中国など海外と積極的に関わる仕事に興味があったが、当時の自分はそれをする自信がなくて、それで吃音をあえてアピールできる障害者関係の仕事を探してみたが、本当の関心がないのでやる気が出ず、行き詰まってしまった。

自信を失い人と会うのも嫌になって、10月は、授業は週に2コマくらいしか行かず、期末レポートで成績をつける授業はまだしも、出席を取る語学は出ないといけないとわかっているが、語学は当てられて答えないといけなくて、吃音の自分にはわりとプレッシャーがかかり、でも1回生からなんとかやってきたのだが、その時は吃音の症状も重くなっていて、出る勇気がなくなっていた。

授業に出ず家で何をしていたかというと、だいたいネットで「大学生 働きたくない」とか調べていた。あまり参考にならないサイトも多かったが、いいサイトもたくさん見つけた。

カウンセリングサービスや、phaさんは、存在は前から知っていたが、その時に初めて真剣に読んで、とても救われたし、今でも支えになっている。

少し胡散臭いが、自殺サイトというものも見つけて(タイトルが自殺を煽っていそうだが、そのような内容ではない)、芥川龍之介の自殺に関する文章などを読んで、共感するところがあった。

吃音関係でいえば、乗り移り人生相談という、どもりで元名編集者の島地勝彦というお爺さんが読者の質問に答えるサイトがあって、どもりの人へ自信をつけさせる文章や、男尊女卑に見えて実は女性への愛に満ちた恋愛相談が面白かった。

本もよく読んだ。1回生の頃から好きな村上春樹の小説の一節が、ときどき胸に突き刺さった。中島義道も面白く読んだ。『働くのがイヤな人のための本』や『カイン』などはとても共感した。言葉の扱いが上手い人が生きにくさを言語化してくれると、自分で言語化できなかった感情を言葉にできるので、とても助かる。

何気ない風景の美しさも印象に残っている。一日中部屋に引きこもっていて、5時頃にそろそろ閉館する図書館に本を返しに自転車に乗り、ふと見上げた空が夕日に染まっていて、それが、今まで鬱屈と部屋に閉じこもっていたこととの対比のためか、とても美しかった。普通に朝昼に外出していたり、まともな精神状態だと、あの美しさは味わえないのではないかと思う。

2~3日に1日くらい身体を動かした。外を走ったり、水泳をしたり。自転車で15分すると山とちょっとした渓谷があって、山の麓や谷を走った。やはり自然がとても美しく見えた。

10月終わりには、来年度は休学することを決めた。そう決めると気分が楽になり、なんとか授業にも出席した。身体を動かすことに、吃音にいいかもしれないと興味を持って、個人的にしている水泳とランニングに加えて気功や合気道や演劇を習い始めた。合気道とランニングはすぐにやめたが、演劇は半年やって、芝居にも出させてもらった。水泳は、前にブログにも書いたが、今もほそぼそと続けている。

カウンセリングにも行った。大学にカウンセリングセンターがあって、無料で受けることができる。一度面談をしたら、あなたには女の先生がいいだろうと言われ、毎週決まった1時間にカウンセリングを受けることになった。カウンセリングの先生はほとんど何も話してくれず、基本的に僕の話を聞くだけだった。僕は初めはあまり話さなかったが、次第に話すようになった。でも基本的に特に返答はなく、物足りない感じがした。おそらくそのカウンセリングは自分の気持ちを話すことを目的としていたが、そのときは、母によく会って、気持ちをかなり率直に語っていたし、母の友達で『ねじまき鳥クロニクル』の「仮縫い」のような仕事をしている人がいて、その人にも色々話していた。一人で話したり、文章にして、気持ちを言語化することもしていた。だから必ずしもカウンセリングが必要だったとは思わないが、カウンセラーの先生は話を聞くことに慣れているから、こちらもほとんど遠慮なく話すことができたのがよかった。

祖母の炊事の手伝いもした。何をするかは祖母が指図し、僕はそれを実行した。絵も描いた。高橋留美子こうの史代の漫画をそのまま紙に写した。そういう具体的な何かを完成させるのは、自分がここにいるということを確認できるような気がしてよかった。

母子家庭や地域の子供、障害を持つ学生を支援するNPOにスタッフとして参加させてもらえないか話をしに行き、OKをもらったが、結局どこも行かなかった。僕は直接他人を支援する仕事には向かないのかもしれない。

2月からは、僕はそれまでまともにバイトをしたことがなかったのだが、校正のバイトを始めた。気軽に働いていたが、お金を貰えるのは嬉しいし、自分でもなんとかお金を稼ぐことができると小さな自信になった。

その頃から、中断していた英語と中国語の学習も再開した。夏に中国、日本の学生が両国を相互訪問するサークルにも関わり始め、ゴールデンウィーク満洲を旅行した。2015年度の上半期は、学生生活で今のところ最も充実した期間を過ごすことができた。

特に結論はないのだが、かつての自分と同じような境遇にある人が読めば何か参考になるかもしれないと思って書いた。

勉強も運動も競争ではなく一人で楽しめるともっといい

一年前から、月に二回ほどのペースで市民プールに泳ぎに行っている。

もともと水泳は苦手だった。小学校の授業では、クロールはなんとか25メートル泳げたものの、平泳ぎはほとんど前に進まなかった。

授業は落ちこぼれを待ってくれず、泳ぎ方がわからなくて何度も立つことになっても25メートル泳がされ、全然面白くなかった。

中高はたまたまプールがなかったので、ずっと水泳から離れていたが、昨年、運動不足を解消するためにふと市民プールに行き、一人で泳いでみると、意外に楽しめた。

授業ではクラスメイトと比べられるが、本来運動は競争しなくても楽しめるものなのだと気がついた。

自分の身体と向き合い、どうすればもっと息継ぎが楽になるか考え実践し、少しずつ上手くなっていく。25メートルだったのが35メートルになり、50メートルになる。

今日は平泳ぎの足の動かし方を少し掴めたし、背泳ぎで初めてまともに泳ぐことができた。

小学校時代のように、上手くいったからといって先生やクラスメイトに褒められることはないが、小さな成功を自分で喜ぶことができる。人より下手でも、恥ずかしく思わなくていい。

運動が人より得意でないことが、運動を楽しめないことを意味するわけじゃない。

運動だけじゃなくて、勉強でも、何でもそうなのだと思う。音楽も読書も語学も、自分のレベルで楽しんでいれば、少しずつ上達していく。

学校でも、勉強や運動を、競争で勝つことではなく、一人で楽しむ方法を学べたらもっとよかったと思う。

もちろん学校で学んだことが基礎になって、今一人で勉強や運動を楽しめている部分もあるのだが、それにしても学校では競争が強調されすぎていたように思える。

中島らもは、「教養とは学歴のことではなく、一人で時間をつぶせる技術のことでもある」と言ったという。そういう意味での教養を大切にできる社会になったら、もっと生きやすくなると思う。

中国東北旅行10 中国旅行を便利にする4つの方法

5/7〜8

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長春→上海→大阪)

 翌朝は長春の動物園を見る。

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 『ねじまき鳥クロニクル』の舞台となった場所だから来たが、特に気持ちが入らない。正直、ノモンハンでも、ここでノモンハン戦争が起きたというのは印象的だったが、この辺りが『ねじまき鳥』の舞台だったというのは、あまり実感が持てなかった。あの小説は、フィクションとは思えないリアリティがあるが、リアリティは小説の中で完結しているため、舞台という「現実」の場所に行っても仕方がないのかもしれない。

 上海行きの飛行機に乗る。上海から大阪の便に乗り換えるが、天候不順で出発が2時間遅れる。関空に着いたのが日本時間の23時。もう家がある大阪北部までの電車はないので、関空のホテルに泊まろうと、全日空ホテル関空に行ってみる。シングルは売り切れており、ツインを一人で使うという形になるので、1万6千円とのこと。当然払えないので、梅田までバスで行き、ホテルかネカフェに泊まることにする。次の便は0時45分ということで、マクドで時間を潰し、10分前にバス乗り場に行くと、そこには長蛇の列が。

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 これは乗れないのではと危惧していると、幸いにも臨時便が到着する。だがその臨時便も、僕の前2人のところで満席になってしまう。というわけで、次の1時45分の便に乗ることになる。

 結局3時に大阪駅に着く。近くのネットカフェに入り、シャワーを浴びて『よつばと』2巻〜4巻を読んで寝た。

 

 以上で旅の記録は終わりである。

 中国に行くといつもお腹を壊すのだけれど、今回はお腹を壊さなくてよかった。東北の料理は比較的合っていたのかもしれない。

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 何を頼んでいいか分からない時に、「不辣不油腻的」(辛くも油っこくもないもの)と書いてみせたのもよかった。(左上部に書いてる)

 

 何より、今回の旅も、現地の中国やロシアの人たちにずいぶんお世話になった。改めて感謝を申し上げたい。谢谢(シエシエ)。Спасибо.(スパシーボ)

 

 また、最後までこの旅行記を読んでくれた皆様、ありがとうございます。お礼と言っては何ですが、中国旅行にあたって僭越ながら何点かお役に立ちそうな情報を差し上げます。

1.辛すぎたり油っこすぎるものは無理して食べない

 中国に旅行・留学する日本人が、無理に食べてお腹を壊すのは、何度も目にしてきました(自分も経験しました)。これは無理と思ったら、お店の人には申し訳ないですが、無理に食べない方がよいと思います。初めから「辛いのと油っこいのはなしで」と言っておくのも一つの手でしょう。

2.SIMフリー端末を持って行き、中国の携帯会社と契約しよう

 ネット、特に中国の携帯会社の回線があると何かと便利です。メニューを画像検索したりできるのでより安心して食事ができたり、鉄道を予約できたりします。

 また、Wi-Fiが、マクドナルドやスタバ、駅、観光地など都会であれば日本以上に至る所にありますが、これらのほとんどが中国の携帯番号がないと使えないようになっています。ほんの少しのネット契約をするだけでも、これらWi-Fiが使えるので便利です。

3.中国語は少しでいいから出来たほうがいい

 中国では英語はほとんど通じません。若い人はできる人がいますが、30代以上くらいになると、日本人以上にできないと思ってよいでしょう。

 正直、全く中国語ができないで、中国の色々な町を時間をかけて旅行するのは、旅慣れている人でないと厳しいのではないかと思います。中国語がある程度できる状態で行くことをおすすめします。

 中国語は日本人にとってとても学びやすい言語です。文法はかなり違いますが、語彙がかなり共通しています。僕の経験では、大学の授業で1コマを1学期=90分授業×15回くらい受ければ(もちろん予復習をして)、なんとか一人で旅行できると思います。独学で30時間(=1日あたり30分×2ヶ月)くらいでしょうか。忙しい方でもなんとか2ヶ月くらい頑張れば、中国旅行が楽しめます。

4.学生は学生証を持って行こう

 中国の観光地は入場料が高くて、50元=1000円くらいすることはよくあります。でも、学生証があれば半額です。日本の学生証でも、10回に8回か9回くらいは半額券が買えるので、忘れずに持って行きましょう。

 

 最後に 中国を旅行するのは楽しい

 中国を旅行するのはとても楽しいです。どれだけ行っても飽きないです。中国は日本の25倍の面積があり、13億人住んでいます。そして55の少数民族がいます(いることになっています)。広くて多様です。

 そして、物価もそう高くない(場所によるけど、日本の半分くらい?)上に、近いので、気軽に行くことができます。

 僕自身、中高の時は日本を旅行していたのですが、今は正直行き尽くした感じがしています。でも、春秋航空LCCで片道1万円で行ける隣国に、まだまだ行きたい場所があるというのはとても幸せだなと思います。

 まだ中国に行かれていない方は、ぜひ行ってみられることをおすすめします。

 皆様の中国旅行がよいものとなりますように。

 

 中国東北旅行編、終わり。