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本当の自分を取り戻す

 何か書きたいと思っていたが、ずっと書くことができなかった。台湾から帰ってきてから新しい変化がたくさんあり、気持ちが整理できていないためだが、整理できないままでもいいから書くことが必要と思って、パソコンを開いた。

 2009年に亡くなった演出家に、竹内敏晴という人がいる。旧制高校に上がるまで耳が聞こえなかった竹内は、聞こえるようになってから努力して言葉を話すことを覚えた。私たちは特に意識的な努力なしにことばを話すようになるが、それを意識的にできるようになることは、たいへんなことであると想像できるだろう。だからであろうか、竹内のことばに対する感覚は鋭敏である。

 竹内は、ことばには「情報伝達のことば」と「表現としてのことば」があるという。今の社会は、前者ばかりを重んじているが、ことばの本質は後者である。人が手やからだで誰かに触れるように、ことばで人に触れることができる。

 この竹内のことばは、吃音者である私にとって、深い実感と励ましを与えてくれた。吃音は、もちろん情報伝達には不利である。だが、私にはどもること自体が何か悪いことであるとは思えない。どもるからこそ生まれることばの力や、どもること自体のおもしろさがあるのは、どこかで感じていた。

 竹内は、演劇の手法で人とのかかわり方やことばの使い方を見直すレッスンを開いていた。竹内のレッスンを引き継いでいる人のところにレッスンに行っているが、何度も衝撃を受けている。朗読や芝居をしても、どもっていい読みができたなと思うこともあれば、どもらずいい読みができたと思うこともある。芝居に入り込んでほとんど自我が消えてしまったことも一度だけあって、その時は実に愉快だった。他にも、下半身をゆらしてゆるめると、声が変わったりする。ことばを出すということ、それ自体がとてもおもしろいことだ。

 

ことばが劈(ひら)かれるとき (ちくま文庫)

ことばが劈(ひら)かれるとき (ちくま文庫)

 

 

 吃音のために、社会に適応するのに困難がある人は多くいるようだし、私自身そういう部分もある。できるだけどもらないようにするために言語聴覚士などの元で訓練を受ける人もいる。だが、そういうことばからはその人の個性が消えてしまっているように見える。これは、私がお金に苦労したことがない人間だという罪悪感を持ちながらあえて言うことだが、社会に適応することが、そんなに大切なことだろうか。社会に適応できない部分にこそ、その人の個が見えて、その個が互いにぶつかり合いながら、いかに折り合いをつけるかがおもしろいのではないだろうか。

 金を稼ぐことは大事だが、そればかり追求していくと、社会が求めるものに自分を合わせるだけになる。個の尖った部分をどんどん削っていき、社会が求める「平均的人間」に近づいていく。今、いわゆる「優秀」とされているのは、そういう人が多いのではないだろうか。ペーパーテストでいい点数を取り、東大や京大に入り、大企業に入る。それはシステムの歯車としての優秀さしか示さないのではないだろうか。人間存在の本質は、金を稼げること=社会の求めることができることにとどまらないはずである。もっと混沌としていて、非合理的なところにあるはずである。

 吃音であること、あるいは何らかの障害や困難があることは、ある意味幸せなことであるように思う。社会に適応しづらいという点で幸せである。社会に適応できない中で、個としての自分を考えざるを得ないために幸せである。

 今の社会は、仕事ができることが大切にされすぎているように思う。仕事をすることで、経済的に自立して、社会の役に立つことができると人は言う。経済的自立はわかるような気がする。私もいつまでも親の金で生きていきたくはないし、他の人がそう思うのもわかる。だが、社会の役に立つというのはどうか。水俣病の原因となる水銀を海に出している会社で働いていた人は社会の役に立っていたのか、大東亜戦争の時に児童生徒に国のために死ねと言った教師は社会の役に立っていたのか、発展途上国の子どもを働かせて作った製品を売っている企業で働く人は社会の役に立っているのか。近代社会で金を回すという点では社会の役に立っていただろう。だが、大きく宇宙の調和を考えたときに、それはむしろマイナスになっている。もちろん、消費だって同じである。だから、この近代社会に適応して金を稼ぎ使うことは必ずしもいいことではないのに、働いていることに偉そうになって、働いていない人をさげすむ人が多すぎるように思う。働いていない人の方が、近代文明に寄与しないという点で、宇宙の調和にはプラスになっているかもしれないのに。もちろん、生きていくために仕事は必要である。だが、生きていくためにしていることを、そのまま社会、宇宙のために正しいことをしていると思ってはいけないだろう。

 まだアルバイト以外に働いたことがない私が上記のようなことを述べる資格があるのか疑問だが、大学生活も終わりに近づいて、どういう仕事をしないといけないかを考えたとき、また吃音を持ちながら働いていくことを考えたときに、思い浮かんだことを述べた次第である。

 大学を出て、何の仕事をするか。私は近代の物質文明が積極的には好きになれない(と言っても、そこでしか生きられないのだが)から、それとは直接関係のない、教員にでもなろうかと思いはじめている。何の仕事をするにせよ、どのような生き方をするにせよ、宇宙の一部として自分を捉えるとよいのだろうと思う。

 近頃は、大学を出てからどうするかと思い悩むことが多くなっている。一昨年の終わりもそうで、その時はどうしようもなくなって休学を決めた。今もそうだが、自分の頭の中でぐるぐる考えてしまって、苦しくなってくる。だが、竹内さんの本を読んでレッスンを受けるなどしても思うことだが、結局はからだが知っているということだ。からだが求めることをするしかないのだ。大学生になってからよく読んだ、村上春樹phaさんも、からだを大事にしているし、精神科医の泉谷閑示などもそうだ。私はもともと、そういう考え方が好きなのだと思う。もっとからだのことを知りたいし、そのために竹内レッスンはもちろん、気功や座禅などできることをしていきたい。そういう方法で、思考ばかりで苦しくなってしまっている現状から抜け出して、本来の、からだに根ざした私自身を浮かび上がらせることができると、もっと楽に生きられるだろうし、それが他者や広くは宇宙全体のためになるのだろうと思う。