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吃音のドラマ『ラヴソング』が作る「大きな物語」と、それが語り得ない「固有の物語」

 吃音をテーマにした月9のドラマ『ラヴソング』が放送されている。多くの人に吃音を知ってもらうきっかけになることで、吃音当事者としてありがたく思う。こういう人もいるということを、事前に知ってもらっているだけで助かることが多々ある。

www.fujitv.co.jp

 『ラヴソング』は吃音をテーマにした作品の中で、日本ではかつてない影響力を持つことになるだろう。世間の吃音観はこのドラマに大きく即したものとなるだろうし、吃音者自身も、ドラマに自分を重ね合わせるだろう。『ラヴソングは』いわば吃音の「大きな物語」となる。

 だが、そこには常に危険が伴う。「ラヴソング」で語られる吃音は、多くの人が共感できるように、ある程度一般的な吃音となり、ある程度一般的なコミュニケーションの苦しみとなる。

 しかし、一般的な吃音、一般的なコミュニケーションの不全感は実在はしない。本当にあるのは、固有の吃音であり固有の苦しみである。

 一般的なものを否定しているのではない。私自身、吃音に深く悩んでいた高校2年のとき、吃音の人が書いた本を読んで、「吃音で苦しいのは自分だけでない」と知り、大いに救われた。「ラヴソング」も、吃音や、その他の言語障害、あるいはコミュニケーションに悩む、かつてないくらい多くの人々を救うだろう。

 忘れてはいけないのは、『ラヴソング』のような「大きな物語」の後ろに、耳を澄ませないと聞こえないくらい小さな「固有の物語」が、人の数だけあるということだ。ドラマで出てこない、その人自身の、不合理で、万人には共感ができない固有の吃音が、固有のコミュニケーションの苦手意識が、そしてもちろん固有の楽しさやうれしさがあるのだ。

 『ラヴソング』に共感できる多数の吃音者が、個性が強すぎて共感できない少数の吃音者を排除するということがあってはならない。「その吃音は、その苦しみは、『ラヴソング』で描かれたものと違うから、間違ったものだ」などということは絶対にないのである。

 「大きな物語」は、多くの人を情動的に内包できるもので、それ故に力強さを持つ。そして、人は多数派であるときに、自分を「正しい」と思って、それに当てはまらない人を抑圧しがちである。『ラヴソング』でも、同じ事態は、それが目に見えないものでも、起きてしまうと思う。だが、自分を多数派と思っている人も含めて、「大きな物語」に含まれない固有性を誰しも持っている。

 固有性を大切にして生きたい。自分の苦しいことを語るとき、楽しいことを語るとき、「これは『ラヴソング』で描かれなかったものだから語らないでおこう」と思いたくないし、思わないでほしい。堂々と自分の物語を語っていいし、自分の生き方をして固有の物語を作ればいい。私が書いているのも、私の物語に過ぎない。もちろん、一般性を求めて書いている部分もあるが、受けいれられないところがあってもいい。そういう気持ちで書いていくし、そういう気持ちで生きていく。