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歴史なき「平和教育」を乗り越えたい

 小学生のとき、熱心な「平和教育」を受けた。3・4年生で近代日本の朝鮮侵略と、先の大戦で日本が受けた都市空襲、6年の1学期で修学旅行先の広島の原爆について学んだ。

 その結果、「戦前までの日本はひどい国で、アジアの人たちをひどい目に合わせた。中国やロシアとの戦争に勝ったことで調子に乗って、無謀にもアメリカに戦争をしかけ、原爆を落とされ、負けた。敗戦で日本は反省して、平和を60年間守り続ける立派な国になった」という歴史観を持った。

 それがゆさぶられたのは、中3のとき、学校の図書室で小林よしのりの『戦争論』を読んだときだった。そこに述べられていた「大東亜戦争肯定論」に対し、はじめは非常に反発心を持った。だが、気になって読むのをやめることができない。中3から高1にかけて、図書室に置いてあった「ゴーマニズム宣言スペシャル」のシリーズを、何度も繰り返して読んだ。 

新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論

新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論

 

 

 小林よしのりの述べていたことで、一番はっとしたのが、戦争は歴史の中で起こるということだ。それはつまり、戦争は相手があって、原因があって起こるということだ。それは、小学生のときに受けた「平和教育」とあい対するものとして認識させられた。

 「平和教育」での戦争は、歴史がなかった。小3・4年のときは、歴史の授業はされていなかったし、広島の原爆を学んだ6年の1学期は、日本史の授業は平安時代が終わった頃だった。だから、「平和教育」では、日本史のじゅうぶんな知識なしに、近代日本、特に先の大戦のことを学んだことになる。

 6年の時に「平和教育」の授業で暗唱し、今もそらで歌える歌がある。「ヒロシマの有る国で」という歌だ。よく歌った(歌わされた)1番の歌詞は以下である。  

八月の青空に 今もこだまするのは

若き詩人の叫び 遠き被爆者の声

あなたに感じますか 手のひらの温もりが

人の悔し涙が 生き続ける苦しみが

わたしの国とかの国の 人の生命(いのち)は同じ

このあおい大地のうえに同じ生を得たのに

ヒロシマの有る国で 

しなければならないことは

ともるいくさの火種を 消すことだろう 


ヒロシマの有る国で/初音ミク

 素晴らしい詞だと思う。しかし、詞の中に、小6当時の私が、何度歌ってもわからなかったところ、そして、小林よしのりの『戦争論』を読んではじめてわかったところがある。

わたしの国とかの国の 人の生命(いのち)は同じ

このあおい大地のうえに同じ生を得たのに

 というところだ。「わたしの国」はわかる。日本だ。「かの国」はどこか。今なら当然こう答えられる。「アメリカ合衆国」と。でも、当時の私はわからなかった。それが意味するのは、私が受けた「平和教育」では、原爆を落とした主体が消されていたということである。そこでは、原爆を落としたのは、アメリカ合衆国ではなく、戦争そのものであった。あるいは、日本の侵略の罪と、それに対する天罰であった。アメリカ合衆国が登場するときは、その天罰の執行者という匿名的存在としてであった。

 この詞は、「かの国」ということばの存在によって、アメリカ合衆国が加害者の意味で登場している。ここは、現代日本に蔓延する「平和教育」的な視点では、「かの国」ではなく、「他の国」とされるべきところだろう。だが、作詞作曲をてがけた山本さとしは1985年当時*1そうせず、原爆を落とされた国=日本、落とした国=アメリカ合衆国という視点を詞に入れた。

 私の受けた「平和教育」は、原爆を落とした国=アメリカ合衆国という視点を排除した。あくまでも、原爆を落としたのは戦争そのものであった。原爆を落とした国としての合衆国の存在を気づかせると、合衆国に憎しみを持つ児童が出てくるだろう。教師は、それを怖れたのだと思う。憎むべきは戦争であり、合衆国ではないというわけである。

 確かに、それにも一理ある。私も、それが理想だと思う。だが、はじめから合衆国は憎まず戦争を憎むというのは、高度なことを求めすぎているように思う。原爆を落としたのが合衆国であると知り、それを(日本人として)許せない気持ちを持ちつつも、どう乗り越えるかというのが、自然であるように思う。

 (日本人として)と書いた。おそらく、「平和教育」ではそういう視点を排除したかったのだと思う。戦争が原爆を落としたことにすれば、敵は戦争であり、味方は人類全員である。だが、アメリカ合衆国が原爆を落としたことを思い出すと、民族としての日本が想起される。

 今の日本で、ナショナリズム民族主義)を表明するのは、非知性的な態度を示すことのように感じられる。国を超えて世界を見る方がクールという雰囲気だ。だが、私は自身が生まれ育った日本を、数多くの問題のある社会であると思うが、愛しているし、それを自由に表明したい。ナショナリズムの表明は、オリンピックなどスポーツの国際大会などにおいては日本社会に公認されているようだが、私はオリンピックには全然興味を持てないし、そもそも私が表明したいナショナリズムは、もっと本質的な(と私は思う)意味におけるものだ。

 それを述べる。私が大切にしたいのは、記憶としての歴史である。特に、先の大戦の戦死者の記憶が忘れられない。彼らが命をかけて守った日本を守りたいし、より良い方向に変えていきたい。そして、私のナショナリズムは、彼ら戦死者をはじめとした多くの日本人が、歴史的存在の日本を体現すると信じてきた天皇ーー国民のために祈ってくれる完全な公的存在ーーに集約される。

 私のナショナリズムは、権威主義とは違う。私は権威主義が大の嫌いである。私のナショナリズムは、権威主義に抵抗するための、倫理観として働いてくれる。私の内なる公共心が、ナショナリズムに支えられているのを感じる。

 例えば、私が今している竹内敏晴のレッスンを普及する活動にせよ、将来(今のところ)志している小学校教員にせよ、共に主な活動区域が関西であり、関西への愛郷心に支えられているが、同時に、日本をよくしようという愛国心*2にも支えられている。その先には、それが世界をよくすることになるという人類愛的な思想もある。

 結局、愛郷心愛国心も人類愛も、倫理観を求める働きによるものであり、どれがよくてどれが悪いということはないのだ。だが、現代日本では、愛国心だけが悪者になっている。

 それはどうしてか。先の大戦の結果で、愛国心があまりにも強調されすぎた結果だろう。しかし、悪いのは愛国心ではなく、愛国心を乱用することである。

 私が日本社会の成員に望むのは、一度先の大戦から距離を置いて、内にあるナショナリズムを見つめ直すことである。そうすれば、オリンピックや他国との紛争のような喧噪の時だけではなく、自分や家族、故郷、友人から同心円的に広がる、静かな愛国心がいつも存在することに気がつくと思う。その先には、人類、生きとし生けるもの、地球、宇宙、森羅万象への愛がある。それら全てを大切にすればいいと思う。

 だが実際、今の世界でナショナリズムは大きな力を持つ。時に戦争を引き起こしてしまうくらいに。だから、それが加熱しすぎないように常に注意しなくてはいけない。そのために、先の大戦を反省することはとても大切であると思う。だが、愛国心そのものは否定しないでほしい。

*1:http://www.satoshi-y.net/profile%202016.htm

*2:ナショナリズムを的確に表す日本語はなく、国民主義民族主義愛国心などが当てられる ここでは愛国心を使いたくなった