目的意識から離れる

吃音を治したいと小学生の頃から思ってきたし、今もそう思っているのだけれど、実際に治そうとするのは大学生の数年間にしただけで、今はもう疲れたからやめてしまった。治るかどうかわからないのに、色々と病院に行くのは消耗する。知り合いの吃音の人もわりとそんな感じで、若い人は治そうとしてがんばってるけど、おっちゃんおばちゃんはもうええわって感じでいる。

からだとことばのレッスンや気功は、吃音が治ることを期待してはじめたのだった。しかし、やってみると治るとか治らないとか関係なく、それ自体がとても楽しいことだった。

先月のからだとことばのレッスンでは、はじめの自己紹介で、「吃音があってそれで治したいと思ってはじめたんですけど、あんま治りそうにないなあって」と言ったら、ウケた。「楽しいから来てます」と続けた。実際、からだとことばのレッスンや気功をするようになったから吃音が軽くなったという感じはあんまりしない。かといって意味がないという感じもしなくて、このまま続けてたら何年後かに、急に吃音が出なくなる日が来る感じがする。

気功の先生が、「からだは急に変わることがあります。そのために、準備をするといいです。でも、変わろうと思いすぎない方がいい。自意識の働きに、からだは必ず反発するものだからです」ということを言っていた。

からだとことばのレッスンの瀬戸嶋先生にせよ、気功の先生にせよ、ぼくの吃音の症状を全然気にしないところがいいというかすごい。吃音みたいに目立つものがあると、それをなんとかしようとして先生の方が頑張ってしまい、レッスンを受ける側も、からだが期待に答えてくれないことで疲れてしまうことがあるものだが、というかそういうことが以前あったのだが、先生の方が特に気にしていなかったら、ぼくも気にせずにレッスンに行くことができる。

声を出すということは、吃音をどうするかが第一の問題だったが、それを越えるおもしろさを知れたのがよかった。どもっていてもというかどもっているからこそ言葉に真実味が宿ることがある。どもっても宿らないこともある。吃音を治そうというのは、社会に適応しようとか、「正常」になろうという姿勢であり、吃音を「悪」あるいは病気や障害としているのに対し、言葉を本当に相手に届けるとか、物語の世界を立ち上げるときは、吃音はそのように客体化することもできなくて、ただそこにあるもの、いや、ないものだ。吃音という状態も、物語の中に溶け込んでいて、忘れられうるものになっている。そこにあるのは、ただ物語であり、人や動物、山々と音など一瞬一瞬で移ろう自然だ。滝の近くにしばらくいると滝の音を忘れてしまうように、森の中を歩いていると森の中にいることを忘れてしまうように、吃音も忘れてしまう。