障害も被差別部落も「知らなくて当然」ではない

 「部落差別がまだあるなんて知らなかった」というぼくに、「ニセモノの世界で生きてきたんだよ」と答えた人*1がいた。その時はムッとしたが、歴史性と切り離されたベッドタウンで生まれ育つとはそういうことなのだろうと後で思った。

 ぼくも吃音について、「はじめはびっくりした。そんな人いなかったし」と悪気なしに言われることがあるが、そう言われて感じる違和感はまさに、「あんたの生きてきたんがニセモノの世界なんや」と答えたくなるようなものだと気づいた。厚生省の調査*2によると、国民の約6%がなんらかの障害を有している。吃音のぼくに会って驚いたなんていうのは、障害がある人と日常的にかかわる人からは出てこない言葉だろう。そして、本来は誰しもが障害がある人と日常的にかかわっているべきなのだ。そうなっていないのは、障害者を学校や会社やその他の場所から排除しているこの社会がおかしいのである。それを認識せず、驚いて当然のようなことを言うのは怠慢だ。「部落差別がまだあるなんて」などと平気で言えるのも、自分の育った近代社会(それは障害者を排除するものでもある)を当然として、歴史を学んでこなかったということであり、恥じるべきだ。

 部落差別はこのまま時代がすすめば解消するからほおっておいたらいいという、「寝た子を起こすな」論が言われるが、それは歴史を忘却せよということであり、障害者の問題にひきつければ、障害を見て見ぬふりをするとか、障害があってもそれを乗り越えて生きろということになろう。そうやって日々を送ることは、被差別部落出身者も障害者も可能である。むしろ、そうした方が金銭を得て「ふつうに」生きるにはたやすい。しかし、そこには常に痛みがともなう。見て見ぬふりをせず、自らのマイノリティ性と向き合うことが治癒であり、人生は治癒とともにある。痛みと向き合いながら人は死んでいく。

 吃音など見た目にわかる障害だと、障害をカミングアウトするのは比較的たやすい*3し、ときにはカミングアウトしなくてもわかってもらえる。障害をなかったことにするというのはさけられる。しかし、それに比べて被差別部落の出身者がカミングアウトをするというのは、なんとたいへんなことだろうかと思う。言わなければわからないものだし、言ったところで歴史を喪失した近代人たちがその深刻さをわかるわけではない。身近な友人などにそれを理解してもらうには、しっかり歴史を学ぶことを求めなくてはならない。しかし、自分のことを勉強してくれる友達がいるのはうれしいものだ。ふだん特に障害に関心を持たない友人が、ぼくが吃音だということで吃音について学んでくれたときはうれしかった。そのようにして、信頼がつくられるだろう。

*4

 

*1:東京都立南葛飾高等学校(定時制)元教諭・申谷雄二さん 昨年ー2016年ーに卒業論文のため竹内敏晴について調べていたときに お目にかかってお話しをうかがった

*2:

第1編 第1章 障害者の状況(基本的統計より)|平成25年度障害者白書(概要) - 内閣府

*3:それでも周囲にどう言うか深く悩む人は多い ぼくもそうだった

*4:この文章は 

らいとぴあ21 社会問題連続セミナー 差別するこころを科学する <第2回>

11/23、25 終活ゼミ。 ワークショップ参加者募集 - 降りていくブログ

に参加して出てきたものです。