バリバラの反響から

NHK バリバラ | 「どきどきコテージ」前編 ~ぎこちない出会いの巻~に出た

twitterみると反響が大きくてびびる 場面緘黙の人たちがすごい書いてる 吃音より場面緘黙の方がたいへんな傾向にあって 彼らかなり悩んでるっぽい

対してぼくは吃音ではもうあまり悩んでいないのである 現実的にいろいろたいへんさはあるけど まあ仕方ないというか 折り合いをつけてしまっている

「勇気を出して出てくれてありがとう」みたいな文章をtwitterでみるけど 別に勇気なんて出していないのである NHKから出てほしいと言われ 「また出れるのかー まえ楽しかったし今回も楽しいだろう ラッキー 近鉄特急にも乗れるし 志摩にもいけるぜー」 くらいの気持ちである

しかし思うに こうしてあまり悩んでいない人が出るのが大事なのだ それを見ていま悩んでいる人は あぁ…なんかどもってるのにあまり悩んでいないっぽい人がおるな と思い 自分も悩まずにすむのかもしれない と未来を思えるのである

ぼくも昔は悩んでいたのである 中学や高校のころは毎日ずっと吃音のことを考えていたのだった

あまり悩まなくなったのは 現実世界への適応が進んだからではあるが しかしそれで失ったものがなにかあるのかないのか と時々考える 別に失ってよかったもののようにも思えるし そうでないようにも思える 当時読んだ本はかつてほどの切実さをもっては読めないがいま読んでもおもしろいし 当時の気持ちを文章につづることもまあできる

悩まなくなったのは 「どもることは悪いことじゃない どもるときは恥ずかしいけれど 恥ずかしさを乗り越えよう」という考えを実践しはじめてからであった たしかに障害を「恥」としているのは旧社会的な考えであるように思う 車いすの人もふつうに道を歩けば(こげば)いいし 吃音の人もどもって話せばいいとは思う しかし同時に自分がどもるのを押して話すとき 「恥ずかしいという感情を封殺しようとしているな」とも思う

前に「恥ずかしさって何だろう?」を哲学カフェでやった 「恥ずかしさ」は大事な感情だ 自分の本心に気づかせてくれるものでもある 「障害が恥ずかしい」というのは 旧社会的価値観を内面化している面があるのは確かだが それが100%とは言えないように思う 「動物として 弱いところを見せるのは生存競争上損」というのもあるだろう 他にもなにか理由がありそうだ

恥ずかしいという感情ももっと大切にしてあげたいのだが しかしそうすると社会適応しにくくなる感じもあって難しい やはり多少ずぶとい方が世渡りはしやすい