吃音で悔しいこと

吃音で悔しいことって、職業選択の幅が狭まるとか、そういうことじゃないかとみなさん思っていると想像するんですが、ぼくの場合意外とそうでもなくて、もっと日常的なことなんです。高知県宿毛に一ヵ月だけ住んでいたんですが、そこで自転車を袋に入れてバスに乗ってきた人がいて、旅人同士親近感がわいて、その人に話しかけようかとおもい、でも結局やめたんですが、もし吃音じゃなかったら話しかけていたのではと思ったりするんです。また、そう思ってしまうのも、吃音を言い訳にしているようで嫌だなーと思うんです。

職業選択とかは、昔は本当に幅が狭まったと思うんですが、今は法律で合理的配慮を求められるようになっているし、手帳を持っていたら法定雇用の枠も使えるし、社会が進歩したおかげでそこまでマイナスでもなくなってきたと思うんですね。例えば結婚も、一昔前の、結婚が家と家との結びつきだった時代は、吃音など障害はマイナスだったでしょうが、恋愛結婚の現代だとマイナスにはならないでしょう。

でも、こういう人と人との一瞬の出会いみたいなのは、法律や制度がどうとかいう話じゃないから、むしろ吃音それ自体と一番深く向き合うことになるなーと思うんです。相手が吃音を知っているかどうかもわからない、どもって話しかけたら変な人と思われるかもしれない、そんなときにどうその人とかかわろうとするかというのが、すごく根本的なところなんじゃないかなーと思います。