マイノリティ性を自ら語ること−−バリバラ「どきどきコテージ」の批判から−−

 ぼく自身が出演したNHKのバリバラ「どきどきコテージ」について、批判文を書きました。そのことについて記します。(ツイッターに載せた文章を編集しています)

choyu.hatenablog.com

 バリバラの批判文に書いたことは、本来は収録前に制作者に伝えられたらよかったし、それが筋だとは思います。収録・放送で違和感を感じたことはいくつかありましたが、そのうちのひとつ、恋愛っぽさがあることは打ち合わせのときから聞いていて、その時から違和感を持っていました。でも、ほとんど伝えられませんでした。それはぼくのコミュニケーション力不足もありますが、「恋愛っぽさ」は制作者の中では確定事項で、どう言ってもぼくの意見は取り入れられないだろうと感じたからでもあります。強く言っても、「考えておきます」と流されるか、「わかりました」と嘘を言われるか、「なら出なくていいです」と言われるかだと思いました。

 テレビはそういうものと思われるかもしれませんが、少なくともぼくが前回(2016年秋)に出たバリバラでは違っていて、吃音でぼくについて撮るということを決められてからは、何度も打ち合わせをし、ぼくの提案も検討し取り入れてくれました。もちろん限界はありましたが、今回とは全然違いました。

 前はぼくがメインの人物であったのに対し、今回は8人もいたという状況の違いがあります。今回は一人一人の意見をしっかり聞き、打ち合わせもするというのは難しかったかもしれません。けれども、制作者があらかじめ決めた番組の型の中で役割をこなすのみというのは、無力感が強かったです。収録の中でできることは精一杯しました。けれど、番組をどう作っていくかというところから関わりたい、関わらないといけないと思いましたし、それでしかバリバラが言う「マイノリティのための」番組にはならないと思います。

 「恋愛色を出すなら出演しない」と言って断ることもできたのに、そうしなかったのは、私のことになりますが、収録してそれが放送されること自体は楽しく学ぶことも多そうだったからで、実際にそうでした。場面緘黙の人とちゃんとかかわったのは小学校以来でしたし、放送をきっかけにSNSを介して親しくなった人もいます。これらの出会いは本当に貴重であり、今後も多くのことを学ぶことができると予感しています。

 ぼく自身について言えば、出てよかったです。にもかかわらず今回批判文を書いたことは、機会を与えてくれた制作者を裏切ったようで心苦しさはあります。制作者はおそらく裏切られたと感じているでしょう。しかし同時にぼくも、収録での設定と放送された番組などから、裏切られたという感覚を持ちました。

 それはぼく個人が裏切られたということにとどまらず、社会がつちかってきたマイノリティ性への意識が裏切られたということです。番組への人々の反応—差別や偏見が再生産されていることを無視して、すばらしいものとして受容してしまうこと—もまた、それを裏切っていました。

 今書いていて「無力感」という言葉が出てきましたが、我が言葉ながらその通りだと感じ入ります。(打ち合わせ時からうすうすわかっていたこととはいえ)いいように使われた感じは放送後さらにつのり、胸の内がずっともやもやしていました。それに耐えられず、批判文を書きました。そうせずには回復できない感じがしました。

 ちなみにバリバラ制作者たちはぼくが見る限り、「マイノリティ性に関心がある→バリバラの仕事をする」ではなく、「バリバラの仕事が与えられる→番組になりそうなマイノリティ性に関心を持つ」という印象です。与えられた仕事を、NHKや今の社会の枠を超えて、本当に誠実にこなしていただけるといいのですが、やはり当人に当事者意識を伴ったマイノリティ性への洞察がないと、それは難しいのだなというのが、バリバラに3度(3度目はもうすぐ放送される)出た印象です。

 ぼくはマイノリティ系の集まりが好きで、吃音以外にも色々行っているのですが(当事者研究会、非モテの会、在日コリアンの会など)、そういうところで出会った人たちの方が、バリバラの制作陣よりマイノリティ性についてよほどしっかり考えています。あるいはツイッターやブログなどで発言されている方にも、すばらしい洞察をされると思う方が大勢います。それは今のぼくにとっては当然ですが、バリバラに出てちゃんと番組を見るまでは、「しっかりした意識を持っている人が作っているんだろうな」と思っていました。でも、マイノリティ性への真摯な意識があれば、あのような番組は作れないはずです。

 何が言いたいかというと、当事者の語りこそが最も信頼できるということです。自分たちでどんどん語っていくのが、遠回りなように見えて、最も確実で本質的な社会変革となるのです。バリバラのようにテレビを介すると、普段はマイノリティ性を考えないような大勢の人に一気に伝えられて、近道であるように見えますが、実際はその過程で多くのマイノリティ性を損なってしまうのです。権力や権威に頼るのではなく、自らの力を信じそれを使うのです。その力を誰しもが持っています。