体があるから恥ずかしい

「恥ずかしいという感情は規範から外れるときに起こる」と友人が言っていた。にしても、この体さえなければと思うことは多い。誰だってそうだがぼくも、この体に望んで生まれたわけではない。やたらとどもるし、同年代男子に比べて小さいことで、昔から悩んできた。今は折り合いをつけてしまっているが、小学生のころは神社にお参りしては「ことばがつまるのが治りますように。背が伸びますように」とお願いしたものだ。

体がなくて、認識の世界だけで人と関わることができればいいのにと思う。もし発言主体を何らかの形で実体化させないといけないとしたら、ヴァーチャルYouTuberを使えばいい。それならどもらないし、背も自由に選べるし、見た目もかわいくできる。映像技術はまだ進歩途上にあるから、ちょっとダサいところがあるかもしれないけれど、どうせ自分の体じゃないから恥ずかしくない

などと言ってみたが、先に書いたようにぼくは自分の体と折り合いをつけてしまっており、自分の体いいなと思うところもあるのである。どもるのはふつうに不便だが、研究対象としてはおもしろいと思う。背が低いというか正確には背が低く体重が軽いのだが、これもミニマリストっぽさが気に入っている。筋トレというものを多くの男子は中学生~大学生のころにしたくなるらしいが、ぼくは全くしたくならない。自分の体に筋肉がついている状態を美しいと思えないのである。筋トレするのは、今の体より理想とする像が他にあり、それに近づけようということであろうから、ぼくはこのミニマリスト的体が実は好きだとすら言えるかもしれない。

テレビでみる海外旅行の紀行番組に憧れていた。そこではビデオカメラが海外の町並みや自然を映していた。自分も海外に行き気づいたのが、そうだ、体があるんだった、ということだ。つまり、テレビではビデオカメラという体のない存在が町を歩いていたので、自分も海外に行ったら体がなくなると思っていたのだ。しかし体はやはりあるから、町の人に見られたり、物を買うときにコミュニケーションで手間取ったりしないといけない。海外に行けば恥ずかしい体から解放されると無意識に思っていたのだが、やはりどこに行っても付きまとうのであった。

体が恥ずかしくないのは、部屋にいるときがひとつである。野山でひとりでいるときもそうだ。プールで無心で泳いでいるときもそうだ。つまり、人がいなければ(あるいは気にならなければ)いい。人と関わるにしても、インターネットを介して文字で人とコミュニケーションをしているときである。文字ってすばらしい。それについても、文体という形で「体」が出ると友人は言っていたが、文字だとどもらないし、やはり恥ずかしさは減るように感じる。もっとも別種類の恥ずかしさが生まれる気はするが(好きな人に書いた手紙を何度も読み返して、ここは書き直そうとか何回もするやつとか)。

かつてぼくはコミュニケーションに悩んでいて、人前に出ると体をずっと気にしないといけなくて疲れきっていたから、多くの時間を部屋で引きこもってすごしたが、今はそうでもない。自分の体のことをあまり考えず人と関わる時間も増えてきている。いくらか、他の人に気に入ってもらえている感覚はあるのだが、人がぼくのどこを気に入るかというとそこにはこの体が含まれている。ぼくが他人に好感を、あるいは嫌な感じを持つときも、当然体は含まれている。

ぼくがこの世の中で何かするというときに、やはり体があるから意味があるのだと思う。抽象認識だけなら、ぼくよりよくできる人はゴマンといる。この体をしたぼくがこう言うから意味があるということは多いだろう。という当たり前の結論で終わってしまった。オチのない文章で申し訳ない。