ふれること・ふれられること

ふれることもふれられることも、生きていくのに大切なことだ。赤ちゃんは親や周りの人にふれられて育つ。ある程度大きくなっても子どものうちは、からだがふれることは自然なこととして受けとめている。赤ちゃんや子どもにふれることで、おとなも気持ちよく感じる。気持ちよさは一方ではなくて、両方にある。

ある程度の年齢同士になると、からだがふれる機会は減ってしまう。そこには何か必然性のようなものがあるのだと思う。性的なパートナーとはからだがふれあうが、その他の人とはほとんどふれなくなる。赤ちゃんや子どもとかかわることがなかったり、恋人がいなかったりすると、下手したら何ヶ月も人にふれてなかった、みたいなことが起こる。

ぼくはというと、赤ちゃんや子どもとかかわることはあまりないが、同居している祖父が子どもみたいなものなので、よく頭や背中にふれている。ふれているというのはちょっと嘘で、実際は、ぼけていてリビングの真ん中をうろうろしているので、「邪魔や、のいて」と押している。「調子どう?」と背中を軽くたたくこともある。人にふれるのはそれくらいなもので、だから人のからだを慈しむ機会はほとんどない。まれに、人の赤ちゃんを抱いたりすると、その心地よさに後から気づく。

その心地よさを、自分に対してしようというのが、気功である。信頼している気功の先生がいて、4年ほど通っている。しかし、自分の家では、痛かったり凝っているときに応急処置をするくらいが精いっぱいで、なかなか真面目にやる気になれない。人というのは、自分のからだを大事にするのは苦手で、他人のからだに対する方が丁寧になれるのだろうか、などと思うこともある。

信頼しているマッサージの人と整体の人がいて、それぞれに数ヶ月に一度だけ行く。人に、からだを大切に扱ってもらうのは必要なことだ。先日、マッサージを受けたが、その人は「人はお腹のなかで羊水に包まれているわけでずっとマッサージを受けているということね」と言っていた。赤ちゃんや子どものうちは、からだに大切にふれられることがいつも欠かせないが、おとなになってからも、時々はそういうことを必要とする。

20代の男性が「セックスがしたい」と述べる言説はよく見かけるが、実際に求めているのは、人のからだを慈しむこと、慈しまれることではないかと、我が身をふりかえっても思う。それが結果として、セックスにつながる。結果的にたどり着くセックスを目的化すると、むなしさを感じることになる。

というわけで、恋人がほしいなあと思う。人のからだを愛でたいし、愛でられたいと思う。赤ちゃんや子ども相手とか、あるいはおとな同士でも気功とかマッサージとか、あるいはそういうワークショップとかでふれたりふれられたりはできるし、そこで回復するのだが、性愛の強さにはかなわないな、と先験的に思っている。