台湾ボランティア記・第6週

もうボランティアしてませんが 続きます

第37日 1月8日(火) 幕屋と仏教と渓谷と
 今日は幕屋のおじさんと一緒に、花蓮を巡ることになっている。雨が降りそうな天気で、9時出発の予定が10時になった。バイクで、日本時代の軍人の集合住宅であり、戦後は中華民国の軍人が住んだ「将軍府」に行くが、朝は閉まっていた。しかし雰囲気のあるところであったので、また今度行こうと思う。日本式の祠があったので、簡単に手を合わせた。次に、松園別館という、戦中に「花蓮港陸軍兵事部」の事務室であった建物に行く。高台にあり、花蓮の町がよく見渡せる。建物は白く美しい。また、「松園」だけあって、台湾には珍しく松が至る所にある。ここにホテルを建てようとなったとき、地元の人たちが反対してくれて残ったと、幕屋のおじさんは言っていた。また、花蓮から沖縄へ特攻隊が行くときに、将校がこの場所から敬礼して見送ったとも。台湾の花蓮や宜蘭には、先の大戦の特攻基地がいくつかあった。しかしここもこの日は休館日であった。月に1度、第2火曜日にしか休まないのに、今日がその日だから、むしろ当たってすごいと幕屋のおじさんと話した。
 今度はバイクに乗って北上する。きれいな海を見せてくれるという。石がころがっている浜に着いた。石がいちいち全部きれいだ。タロコ渓谷からやってきた大理石だそうである。タロコ渓谷というのは、台湾で有名な観光地を3つ挙げよと言われたらそこに含まれるような、有名な景勝地で、川が高山を削って、断崖絶壁になっている。ぼくはまだ行ったことがないが、この日はじめて行くことになっている。
 さらに北上し、慈濟という1966年に花蓮で創設された新仏教の本山、「静思精舎」に行く。いまは台湾全土と世界各地に支部がある。静思精舎は建物が質素でしかし美しい。アポなしであったのに、おばさんが丁寧に案内してくれた。せっかくだから昼ご飯食べて行けということである。幕屋のおじさんは「悪いですよ〜」と言っていたが、ぼくはまあそんなこともあるわな、と内心思っていて、そんな顔をしていた。みなが食べている食堂のような場所でごちそうになる。肉や魚は使わない食事である。女性ばかりだが、開祖が女性で、女性信徒が多いようだ。そして、花蓮のここは特別に、女性が修行をする場所になっているらしい。食べようしていると、手がかゆい。幕屋のおじさんも、手に何か薬を塗っている。どうやら、空気のきれいな場所にしかいないという、特殊な蚊に手を刺されたらしい。おそろしくかゆくて困る。
 食べ終わって、バイクでさらに北上する。かつての神社がカトリック教会になっている場所があるらしく、行く。鳥居、左右の狛犬、参道、灯籠、すべてきれいに残っているが、ところどころにカトリックの装飾がなされている。神社のお社にあたる場所には、マリア様の像があった。教会が隣りにあり、附属の幼稚園のような場所もあった。
 次に、近くに幕屋のおじさんの知人が住んでいるらしく、バイクで向かう。鬱蒼と草木が生えて、ところどころに畑があるような場所に入っていく。なわばりに入ってきたということで、犬がおいかけてきて、しかしその道でなかったので引き返し、また犬においかけられ、とてもこわかった。ぼくは後ろの席なので、噛まれるとしたらぼくなのだ。そんな感じでしばらく探して、やっと小屋を見つけた。幕屋のおじさんがおーいとか何とか呼ぶと、その人が出てきた。30代か40代はじめくらいで、母親が日本人で父親が台湾人で、ずっと台湾に暮らしているらしい。都市生活は合わないらしく、このタロコそばの草木生える場所に小屋を建てて、機械の修理と畑の手伝いをして暮らしているそうだ。なんともたくましい。簡単な日本語ができるらしく、「障害者施設でボランティアしました」と言うと、「言葉できないでしょう」「いえ、少しわかります」などとやり取りができた。幕屋のおじさんは安心したふうで、「○○さんに、元気だったって言っておくよ」みたいなことを言っていた。
 いよいよタロコ渓谷に向かう。相変わらずバイクの後ろに乗せてもらうが、時々落石があるので、危険ではある。しかしまあ滅多にないので、気にせず行くことにする。やはりすごい高さの崖を、細い道が進む。道は3000m級の山を越えて、西側の台中まで続いているのだが、15kmほど行った「天祥」という所で折り返すことにする。天祥のセブンイレブンのイートインで少し休憩しようということになり、ココアを飲みながら幕屋のおじさんと色々と話す。吃音のこととか、これからどう生きていこうか、などと話した。幕屋のおじさんは、アメリカや台湾に留学したりして生きてきたらしい。幕屋にはずっと属しているが、それ一辺倒というふうでもないと感じた。そして、深い教養のある方だとも思った。今後どう生きるにせよ、教養を身につけて、人格的に成長したい。
 幕屋のおじさんと色々と話せたことに満足しつつ、折り返しである。渓谷を下り、国道を花蓮の町へと戻る。家に着いて休憩する。ご飯をいただいた後、家で開かれる中国語勉強会に参加させてもらう。幕屋のおじさんの奥さんと、住まわれている幕屋の娘さんが、昨日おじさんに出された課題を覚えているかのチェックを受ける。けっこうな分量で、ふたりとも全部は覚えきれていないが、しかしそれでも大部分を覚えている。すごい。ふだん自分がどれだけなまけているかを実感させられる。
 日本語パートナーズという、台湾の中学高校で台湾人日本語教師の助手をする仕事の募集があって、それのESを考えたりしつつ、幕屋の本を読み、寝る。

第38日 1月9日(水) タイヤル族のニホンゴ
 朝ゆっくり起きる。宜蘭に行くというと、幕屋のおじさんが宜蘭の町の行くといいポイントを教えてくれた。家を後にする。バイクで花蓮駅まで送ってもらう。この日の宿は、台北に取ったが、途中通る花蓮県宜蘭県の間の山間部には、原住民タイヤル族が住むエリアがある。このエリアのタイヤル族は、日本語と原住民の言葉が合わさったクレオールを話す。そのクレオールは「ニホンゴ」と呼ばれている。原住民の学生が映像を作っていて、

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youtubeで見ることができる。これを見て、「ニホンゴ」を聞いてみたいと思った。山が海にせり出した部分があって、そこは鉄道の駅がある。そこなら行きやすいし、聞けるかもしれない、そう思って、行ってみることにする。東澳という町である。
 小さな町であるから、普通列車しか停まらない。花蓮駅から乗ると、扉を挟んだ隣りに、見たことのあるおじさんが座っているのを見つけた。まさか、と思いつつ、声をかける。ちょうど一年前、2017年の12月に、台北の宿で出会った旅の音楽人Iさんである。三線を持って弾きながら台湾を旅しているとそのとき言っていたが、やはり今回もそうしているそうである。もっとも、ずっと台湾にいたわけではなく、途中日本に何ヶ月か帰っていたそうだ。こんな偶然もあるのかと驚きつつ、色々と話をする。一時間ほどたって、東澳駅に着き、降りる。降りたはいいが、周りはいかにも田舎で、しかも雨が降っている。駅のロビーでずっと待っていたが、やみそうにない。そして、着いてから気づいたのだが、列車の本数がとても少ない。東澳の次は南行きの列車を南澳で降りてタイヤル族博物館に行こうかと思っていたのだが、南澳に行く列車は2時間後である。南澳で先に降りて、それから東澳に行くべきだったか、いやしかしそうしても結局、東澳で長く待つことになる。もっと早く起きて便利のいいダイヤの時刻に着くべきだったか、しかしそうしたらあのおじさんには会えなかったな…などと思う。
 ロビーに、背広を着た集団がいて、うちのひとりにダメもとで「東澳の人ですか?」と聞いてみたが、やはり違うということである。そのままいても仕方がないので、近くの食堂に入る。食堂で少し料理を頼み、「ここの人は日語を話すと聞きました」と紙に書いて、店の人に見せるタイミングを計る。いまいちつかめない。この東澳の町に2時間いるのは退屈なので、バスはないかと調べたところ、一日に二本しかない南澳行きのバスが、あと20分ほどで来るとわかった。会計をし、意を決しておばさんに見せたところ、おばさんは原住民らしき肌の黒い若い女性の店員を呼び、紙を見せた。その若い女性は、「那邊…」と指さし「老人說…」と店員同士話した後、「むこういーけー!」と指さして、ニホンゴで教えてくれた。もうそれで満足である。ニホンゴ、やはり話されているのだ。若い人にも受け継がれている。ただ、動画で知ったことだが、学校ではタイヤル語は教えてもニホンゴは教えられないし、小さい子も中国語で育つようになっており、クレオール語のニホンゴはやはり消滅の危機にあるようである。
 バスが来て乗る。ここでも台湾版ICOCAが使えた。道路は東海岸を南北に突き抜ける国道9号線だが、ここはひたすら山を登っていく。国道なのに断崖絶壁である。うねうねと何度も急カーブをへて、峠を登り、また下り、列車で5分ほどのところを20分以上かけて、南澳に着いた。さっそく、タイヤル族博物館に行く。日本の支配期に、タイヤル族の部落にいた警察が日中戦争に出征するとなり、原住民の少女サヨンが警察の荷物を運んでいるときに、嵐で川に流されて亡くなったという話があり、それが李香蘭主演で「サヨンの鐘」という映画になったのだが、その映画が一部上映されていたりした。
 なんとなくグーグルの地図を見ていると、近くに「南澳神社」の旧跡があるとわかり、行ってみることにする。歩いて15分ほどである。神殿へ続く階段がきれいに残っていた。台湾には各地に、神社跡が残っている。
 さらにひとつ南の駅、武塔駅付近には、「サヨンの鐘」と名づけられたリアルな鐘と、サヨン記念碑があると、博物館でもらったパンフレットで知る。しかし列車は全然来ないので、タクシーを呼ぼうかとセブンイレブンに向かう。台湾ではコンビニでタクシーが呼べるのだ。と、その前の道にタクシーが停まっていたので、行ってくれるか聞いてみると、200元(約700円)でOKということである。往復700円なら安いなと思い、お願いすることにする。
 タクシーで10分弱である。サヨンの鐘は民主化後新たに建てられたものらしく、きれいである。サヨン記念碑は戦前のもので、日本語で書かれていた。
 満足し南澳駅に戻る。着くと、400元だという。200元じゃないのかと問うと、片道200元だから往復400元だということで、うーん、往復200元は安すぎるが400元は高いなと思い、300元はどうかと聞いても首を縦にふってくれず、350元でOKとなった。南澳駅はわりと大きな駅で、特急も急行も停まる。といっても東海岸だから本数は少ない。30分ほど待って、次に来た特急で礁溪溫泉に向かう。ここは公衆温泉もあるらしく、入ろうと思う。南澳では少し雨が降っていて、雨露にぬれた。列車が着くまでの40分間、休息である。指定席を買ったが、ガラガラだったから自由席でじゅうぶんだった。宜蘭に行くと幕屋のおじさんには話したが、時間がないので今回はあきらめる。列車に乗るころに、楊くんが契約してくれた4Gが切れた。あとはフリーWi-Fiで生き延びるしかない。
 礁溪駅に着き、4Gが残っていたときに読み込んだGoogleマップのデータで公衆浴場までたどり着く。礁溪溫泉はにぎやかな温泉街である。浴場に着いて切符を買い、入る。少し雨が降っている。体が冷えていて、気持ちいいが、少しぬるい。風邪を引くかもなと思う。そして、お湯が全然掃除されていないらしく、きたない。一時間余りゆっくり入って、浴場そばのバスターミナルに行き、台北までのバスチケットを買う。台北行きのバスは5分毎に出ている。所要時間も一時間かからない。鉄道だと山を迂回しないといけないのだが、高速道路のトンネルが数年前に開通して、すぐ行けるようになった。
 長いトンネルを出て、バスが台北の町に出た。台北の町はやはり小さくて、意外にすぐに台北駅に着いた。地下鉄を乗り継いで、台北大学そばのAirbnbの宿へ向かう。最寄り駅に着いたものの、Wi-Fiが通じなくて宿の場所がいまいちわからない。あきらめて、4Gを契約しようとするも、店を見つけるのに手間取って一時間くらいかかり、やっと契約する。4日間で300元もする。
 宿は、韓国人の女性のシェアハウスである。着いたらひとりいて、ホストの人かはわからないが挨拶したが、ちょっと冷たい感じの反応だった。

第39日 1月10日(木) 冷たいシェアハウス
 朝起きて、共有ルームにいた韓国人の女性に英語で洗濯機はどこか尋ねるが、「私は日本語はわからない」と英語で吐き捨てるように言われる。なんなんだこれは…と戸惑いつつ、顔を洗ったりしていると、ホストの人と会えて、洗濯機の場所を教えてもらえた。
 台湾に来て、人に冷たくされたことが本当に一度もなかったし、日本でも冷たくされることは滅多にないから、ちょっとびびる。ここに泊まったのを後悔したが、あと2泊しないといけない。宿をかえることも考えたが、お金が余計にかかるし、移動は面倒だし、我慢することにする。
 何はともあれ、ブランチを食べに外に出る。近くにいい雰囲気のベジタリアンの店があって入る。台湾は仏教徒ベジタリアンが多く、ベジタリアン料理店(「素食」という)がたくさんある。そこも安くてうまかった。たぶん80元くらいだった。少し観光しようと、国父記念館へ行く。国父とは孫文のことである。記念館前で大陸政府が法輪功を弾圧しているというビラを配っていて、日本人とわかると日本語版をくれた。
 そして、台湾史を研究しているYさんに、台北の東の方で会う。日本語の堪能な方で、色々とお話しをする。本をもらったりする。夜に京都で知り合った台湾人の友達と会うことになっていたが、ちょっと時間があるので、鉄道で基隆に行く。基隆は高1のときに行き、美しい港街というイメージが残っていた。滞在時間はほんの10分しか取れないが、基隆の海が見たいと思った。30分ほど列車に乗り基隆駅に着く。駅を出るとすぐ港で、巨大なクルーズ船が泊まっていた。ボーと汽笛が鳴る。感動した。来てよかったと思い、またすぐ列車に乗った。台北駅で降りて地下鉄に乗りかえ、中山駅で友達と、その友達に会う。この人たちも女性である。夕食に連れて行ってもらう。そして、象山という台北市街が見える山に登ろうと言う。本は重いから登山道の入り口の草木に隠した。歓談しながら登る。とても楽しい。シェアハウスの韓国人の女性がとても冷たかったからか、優しさが身に沁みる。今日この人たちと会えてよかったと思った。登ると、台北101がきれいに見えた。これが台北の町かーと眺める。高いところから町を見ると、なんとなくその町の歴史がイメージされる。
 象山なので童謡の「ゾウさん」の歌が日本語にも中国語にもあるとか、「空気がおいしい」と日本語で表現すると言うと彼女らが驚いていたりとかしながら、山を下りて地下鉄に乗って別れる。あのシェアハウスに戻るのは嫌だな…と思いつつ、宿に帰る。

第40日 1月11日(木) ハンセン病療養所「楽山院」
 日本にハンセン病療養所は今もいくつかあるが、戦前に日本領だった台湾や韓国にもハンセン病療養所があったことはあまり知られていないかもしれない。
 台湾には、旧台北州(戦後は台北県、2010年に新北市と改称)にふたつあった。ひとつは台湾総督府立の「楽生院」(1930年〜)、もうひとつは宣教師であり医師であったカナダ人、グッシュテイラー(George Gushue-Taylor)が建設した私立「楽山院」(1934年〜)である。
 楽生院は新北市桃園市の境の山際にあるのだが、2000年代になってから、MRT(地下鉄)建設のため、古い建物が取り壊されることになり、その反対運動が盛り上がって話題になった。運動の結果、取り壊されたのは一部分にとどまった。
 もうひとつ楽山院は、台北のかつての外港として有名な観光地・淡水の対岸の、八里という場所にある。こちらは、楽生院ほどは有名ではない。楽生院が現在も(元)ハンセン病患者の住まう場所であるのに対して、楽山院にいたハンセン病患者は(19○○年に)楽生院に移動し、楽山院は1971年から、障害のある子どもたちの住まう場所になっている。
 台湾にもハンセン病療養所があると知ったのは、東京は東村山と清瀬の境にある、国立ハンセン病資料館を訪れてのことだった。静岡は御殿場の、国立駿河療養所(1944年〜)と、私立神山復生病院(1889年〜、現存する日本最古、院内に博物館があるので事前連絡の上ぜひ行ってみてください)は行ったことがあったのだが、旧植民地にも建設されていたことは知らなかった。
 楽山院に関心を覚えた私は、見学に行きたいと玉井の障害者施設に滞在していたときからメールをし、OKをもらっていた。朝ごはんを食べ、MRTで中和新蘆線の終点蘆洲駅に行き、バスに乗りかえ、八里のバスの終着駅に着いた。ここまでだいたい1時間少しだろうか。そこから20分ほど歩いたところにあった。
 門番の人に伝えると、話を通してくれていたみたいで、しばらく待っていると案内の人が来た。40歳くらいの女性で、中国語と英語とどちらができるみたいなことを聞かれ、同じくらいかなと答えたが、話しているうちに英語の方ができるやろと思われたのか、英語で話した。建設当時から使われていた赤煉瓦の建物が「戴仁壽醫師紀念館」という資料館になっていて(戴仁壽はグッシュテイラーのこと)、鍵を開けて入れてくれ、詳しく説明してくれた。
 宣教師の建てた療養所であるから、教会がある。祭壇と患者が座るところに低い壁があったりするのは、病気がうつらないようにするためで、ハンセン病療養所だからこその設計だそうである。
 患者が住んでいた建物もよく残っている。数年前まではそこに障害児たちが住んだようだが、新しい建物ができて引っ越したらしい。中はかなり汚れてしまっている。色んな人が寄付をしたらしく、寄付した人や団体の名前が刻まれている。台湾人の名家、西洋人の宣教師と教会、皇室、台湾総督府、財閥、銀行など様々である。
 その後、新しくできた建物に行き、院長さんなどに会う。日本語ができる人もいた。施設に住む障害児の人たちとも会う。楽山院を紹介した絵本などをもらう。「いつかここでボランティアしてみたいのですが」と思い切って言ってみると、「今までそういう例はないけど…部屋があいて、あなたがもう少し中国語ができるようになればできるかもしれない」と言われる。
 その後も、少し院内を案内してもらう。畑があったり、遊具があったりする。外見は他と同じ古い建物だが、女性物の衣服が干してあって雰囲気が違うところがあり、あれはどういう使われ方をしているのかと尋ねると、ベトナム人介護士が住むところだという。台湾はずいぶん前から東南アジアからの労働者を受けいれていて、多くが介護の仕事についている。やはり女性が多い。
 バス停から20分ほどかかるので、送ってくれるという。せっかくなので、「十三行博物館」という考古学博物館までお願いした。皆さんとても歓迎してくれてよかった。お礼を言って別れる。
 考古学はよくわからなくて、さくっと見たが、原住民についての展示があってそれをじっくり見た。淡水に渡しのボートで行けるみたいなので、船着き場に向かう。バスが来たが手をあげるのを忘れていたら通り過ぎてしまった。こっちのバスは手をあげないと止まってくれない。5分ほど待って次のバスで、渡しの駅に行く。船着き場は観光客向けの店で賑わっていた。少し疲れたので一服し軽く食べようとお店に入ると、観光地値段でやたらと高く、ハマグリか何かのスープだけ頼んだ。それでも150元(約500円)くらいした。しかしその分、店内はすいていて、いい休息になった。
 休憩し終えて席を立つと、外がずいぶん暗くなっていた。淡水までは片道34元(約110円)である。淡水の明かりがまぶしい。「千と千尋の神隠し」のはじめの方、神々が海か川を船に乗ってこちらに渡ってくるのを千尋が見る場面を思い出す。日月潭に行ったときも同じことを思った。
 淡水に着き、どこかご飯を食べるところはないかと探したが、どこも観光客で賑わっていて入る気がしない。MRTに乗って台北に帰る。ふとFacebookを見ると、いま通り過ぎた士林駅の教会でTaizéの祈りをやっているようである。30分ほど遅刻することになるが、戻って行ってみる。教会の一番後ろの席に座る。中国語で歌ったりする。西洋人の牧師さんか神父さんが中国語を話していた。最後に全員で写真を撮る。誰もぼくが日本人だとは思わないだろうな、きっと近くの学生か何かだと思っただろう、と思う。
 士林といえば夜市で有名である。10年前にはじめて台湾を訪れたときに行った。久しぶりに行くが、とても混んでいる。ご飯を食べるところを探したが、ここで食べたいというところがない。やむを得ずまたMRTに乗って、古亭駅へ行く。もう22時くらいで、ご飯食べるところなんてないよなと思いつつ少し歩くと、食事を出すネットカフェを見つける。あの冷たいシェアハウスにはいたくないから時間をつぶせるし、ご飯も食べれるし、最高だと思い入る。お店の人に案内してもらう。たまたまかもしれないがうまく音声だけでやり取りでき、ネットカフェの案内文を「読めますか?」と言われ渡されたのはおかしかった。日本人の多くがそうだが、読む方が得意である。ネットカフェは、ホテルのロビーみたいな雰囲気で、日本のよりずっと高級感があった。半個室みたいなところに座る。何かいい漫画はないか探す。日本の漫画と中文に訳したものがほとんどだが、香港の劇画みたいなのが少しだけある。中国語でも楽しく読めるものは…と探していると、『よつばと!(中文タイトル:四葉妹妹!)』があった。字が少ないし、文脈でわかるので、「へぇ〜中国語ではこう言うのか〜」と勉強になりおもしろい。満腹になり、そろそろ0時くらいになったので、あの冷たいシェアハウスに戻ることにする。

第41日 1月12日(金) 再見台湾
花蓮キリストの幕屋のところに泊まったが、台北にも幕屋があるということである。メールアドレスがわからなかったので、台南の玉井にいたときに手紙を書いて、ここにメールしてくださいと伝えたら、メールが来た。今日は夕方の飛行機で日本に帰るが、朝のうちに会うことにする。といっても、昨日出歩きすぎたせいかうまく起きられず、10時に会う約束が10時半すぎになってしまう。マンションの一室にご夫婦でお住まいで、台北での活動のことなどを聞く。昨年琵琶湖であった大会の映像を見せてもらったりする。奥さんが大阪のぼくと同じ市の出身だと知る。自転車で10分ほどのところにお住まいだったらしい。幕屋にかかわりがある台東にお住まいの人が、ぼくと同じ中高の出身だとも知る。世間は狭い。お昼ご飯をごちそうになり、お別れする。台北秋葉原といわれる忠孝新生駅のあたりに電子辞書を探しに行ったが、台湾はもう電子辞書の時代ではないようで、ろくなものがなかった。最後に、台北駅北西の大稻埕という歴史ある乾物を多く売るところに行き、カラスミを買って、飛行機の時間がと焦りながら空港MRTに乗り、桃園空港に着いた。チャイナエアラインで帰る。片道1万5千円ほどで、予約キャンセルもきくし機内食も出るから、下手にLCCを使うよりもいいような気がする。テレサ・テンの音楽も機内のイヤホンで聴けるし。離陸のときはさすがに寂しく思った。今回の、1ヶ月あまりの滞在が今までの台湾滞在で一番楽しかった。3時間ほど飛んで、夜の関空に到着である。これで台湾日誌という変なタイトルの日記は終わりである。台東までは毎日書いていたが、それ以後は日本に帰ってから書いた。それがずいぶんと時間がかかってしまった。日常というのはやはり忙しい。帰ったらもっと中国語勉強しようと思ったが、ふだん中国語スピーカーとかかわる機会がないためか、ろくに勉強しておらずいささか困っている。日常的にかかわれる仕組み作りをしないといけない。

以上で台湾でのボランティアの記録は終わりです ご覧になってくださった方 ありがとうございました