ベビーシッターズクラブ(Netflix, 2020)の紹介

ベビーシッターズクラブというアメリカのネットフリックスのドラマを紹介します。ちょっとだけ感想もついてます。さっと英語版wikiなどで調べただけなので間違っているところがいくつかあると思います。
 
The Baby-sitters Club (2020. U.S.A , Netflix original)
 
5人の少女がベビーシッターをしてお金を稼ぐ話 一連のシリーズ
舞台はコネチカット州ニューヨーク州マサチューセッツ州の間にある小さな州)の架空の都市 
同じ学校の同じ学年に通う12歳の少女たちだが、みな様々な属性を持つ
原作小説は1986~2000年に、213出された。
いま見ているのは、2020年にNetflixがドラマにしたもの。全10話のうち8話まで見た。
映像化されるのは、1990年のドラマ、1995年の映画に続いて3回目。
主人公は以下の5人
クリスティ:白人で、母と弟と妹がいるが、父はいない。しかし母が恋人を作っており、その人が「父」になるかもしれない。ベビーシッタークラブを考えた本人で、代表。少し自己中心的な性格。
メアリー・アン:父が白人で母が黒人。しかし母は亡くなったので父と二人暮らし。父は過保護で、保守的で子供っぽい服装しか許さず、門限も厳しい。とてもおとなしい性格。ベビーシッターとしては優秀。
クラウディア・キシ:ジャパニーズアメリカン。祖母と父母と姉と暮らす。祖母は小さいころは日本語を話していた。父母は日本語を話せない。姉は日本語を学習しておりかなりのレベルまで話せるようだが、クラウディアはまだ勉強するつもりがない。美術の才能がある。
ステイシー:白人。ニューヨークシティから引っ越してきた。1型糖尿病であり、はじめは病気のことを隠していたが、後にみなにカミングアウトし、こっそりつけていたインスリンポンプの機械も堂々と着けるようになる。ベビーシッター業務に差し障りがないことも、利用者である親たちに向けて説明会を開いて説明する。
ドーン:転校生。スペイン系? 物語の途中で出てきたのでまだよくわからない。
各話、それぞれの少女たちをピックアップしたストーリーとなっている。
今日は2つの点から述べたい。まず1つ目、地域共同体について。
舞台は、コネチカット州という小さい州の、小さな都市である。そこで、ベビーシッターをしてお金を稼ぐなかで、町の人たちとかかわっていく。地域共同体があまりない社会に住んでいる自分としてはうらやましく思う。
とはいえ、アメリカ合衆国でもやはりそれが失われていて、だからこそドラマで理想化されているのかもしれない。ベビーシッターの依頼受付方法は、ドラマの設定が2020年現在であるにもかかわらず、固定電話である。SNSのアカウントはある程度の年齢以上でないと作れないからというのがその理由になっていたが、小説が当初書かれた1980年代の「古き良きアメリカ」がイメージされているのかもしれない。
ぼくも、近所の人たちに困ったことがあったら助けるようなことができたらいいかもしれない。お年寄りが多いのでお年寄り向けとか。
もうひとつは、クラウディア・キシの話。
日本人としては(←主語が大きい?)どうしても、クラウディア・キシが気になってしまう。Momona Tamadaという日系カナダ人が演じている。
クラウディア・キシの、ファッションセンスの良さは劇中でも目立っているし、好きな男子ともうまくコミュニケーションが取れてしまう。学業は苦手だが、絵や彫刻にセンスがあって、美術展にも出展している。いかにもカタブツそうな両親と姉は、学業の方に注力するようにいつも言っている。
Mimi Yamamotoというおばあさんがいる。Mimiは日系アメリカン2世で、先の大戦のときにカリフォルニアのマンザナー強制収容所に収容された。Mimiがある日脳卒中で倒れ、それからMimiは記憶が混乱する。いつも桃の缶詰ばかり食べさせられたことから、「モモ peach」と何度も言ったり、また馬小屋に寝かされたから「ウマ horse」とも言う。Claudiaは歴史には興味がなかったが、姉がマンザナー強制収容所のことを知っていて、Mimiとも日本語でも話すことができるところなどを見て、先の大戦下における日系人についての本を読んだりする。
Claudia Kishi は80年代、90年代の合衆国におけるアジア系の子どもたち(特に女の子)にとって、希望の星であったらしい。というのも、当時の合衆国のマスメディアに、アジア系の人々は主体としては登場しなかった。出てきても、脇役でぱっとしなかった。しかしクラウディアは、アートの才能があるし、いつも堂々としている。その姿に励まされたアジア系アメリカ人(の女性)は多かった。Netflixも、「The Claudia Kishi Club」という17分の短い番組を作って、そのことを紹介している。

My一人称が「うち」だった話

『ぼくはかぐや姫』という小説がある。センター試験国語の過去問集に出ているから知っている人も多いだろう。主人公の女子生徒は、自分を表す人称として女性としてはめずらしく、「ぼく」を使う。そこには、自分の存在をわかりやすい何かに回収されたくないという思いがあったように記憶している。
さて、ぼくはぼくのことを「ぼく」と言っている。「おれ」は使わない。幼稚園のころ、周りの人たちが使っていたから真似てみたことがあったのだが、父に「ぼくって言いなさい」と注意され、その後「ぼく」を使うようになった。幼稚園や小学校では周りの男子はほとんど「おれ」だったので、少し気恥ずかしかったが、私立中高に入って以後は、「ぼく」を使う人が周囲に増えて、特に恥ずかしくはなくなった。また、「おれ」は正直ちょっと粗野な感じがして、自分には合わない気がするのに対し、「ぼく」はおとなしく純朴な感じが合うように思うので、いまもそのままである。
だが、小学3年のころだけ、違う人称を使ったことがある。「うち」である。「うちな〜、きのう京阪電車乗ってんけどな〜」などのように、上方の少女や若い目の女性が使う言葉である。たぶん、同じクラスの女子が使っているのを聞いて、それがうつったのだと思う(テレビの影響もあるかな?)。クラスの女子に、「八木くん『うち』って言うん?」と怪訝な顔をされたのと、母にも「女の子が使う言葉やで」と注意されたことから、すぐに使わなくなってしまったが、短い間だけでも自分がそう言っていたことはいまも印象に残っている。
「うち」はいうまでもなく、「家」を連想する。小3当時、「自分」と「家族」が27歳のいまより未分化で、自分の考えや行動は家族の影響が大きいと感じられたからであろうか、「うち」は居心地のいい人称であった。「うちはこうする」と言えば、「自分」は免責されて、「我が家ではこうすることになっている。したがって自分もこれからこうする」と根拠づけることができたように感じられたのかもしれない。

「吃音という言葉使っていいですか?」丁寧な配慮に感動した話

先日、当事者研究の仲間と話していたとき、何かの流れでぼくが吃音のことを少し話した。

すると相手は、自分も意見するというときに、「吃音という言葉使っていいですか?」とことわりを入れてきた。

ぼくはこれに感動してしまった。

ぼくは今でこそ、吃音をある程度は受け入れているが、高校生までは全くそうでなく、吃音のことを誰かに言われるだけで、泣きそうになっていた。

「吃音についてネガティブなことを言われたときに泣きそうになっていた」ではなく、ただ話題に吃音が出ただけで泣きそうになっていた。

今でも、「吃音」と他の人から言われるだけで、ちょっとびびる。自分でその言葉を言うときも、一瞬ためらう。

何らかのマイノリティ性を有する人に対して、それを表す言葉を言うだけでも、実はちょっと危うさのあることだと思う。

けど、その危うさを乗り越えないと語るのは難しい。言葉を避け続けるのもまた、当事者自身も発言しにくくなるという抑圧を生む。

だから、非当事者も、当事者がその言葉を使っているのを確認してからに限ってだが、使っていいと思う。ぼくの意見をいえば、使ってほしい。が、そのときはできるだけ慎重に使いたい。

最近USAなどに「文化の盗用」という言葉があるようだが、非当事者がたとえば吃音について安易に語るのもまた、文化の盗用だと思うのだ。正確には「当事者性の盗用」と言うべきか。当事者はおそろしいまでの時間そのことに悩んで、ぎりぎりのところで言葉や論理を組み立て納得してきた(そして今も多くの部分で納得できないでいる)のだから、非当事者がその場の思いつきやせいぜい本を二冊読んだくらいで、当事者に意見することはかなり失礼である。

が、それでも、非当事者の意見が有効なことはある。その当事者でない人の語りでも、それがマイノリティの目線で語られるとき、普遍性を持って訴えかけてくることがある。吃音でない人の意見で、吃音について考えがより深まることがある。だから、意見してはいけないというわけでは、全然ない。

だがそのときは、相手の当事者性という文化にできるだけ敬意を払うことが必要だ。そのときに、最初に述べた、「『吃音』という言葉を(非当事者のぼくが)使ってもいいですか?」という問いかけは、丁寧of丁寧なものだったと思う。

みなにそうしてほしいとは、個人的には思わない。心にもないのに形だけされても困る。「○○という言葉使っていいですか?」はぼくも言ったことがない。まだそこまで、他者の当事者性に敬意を払えていない。でも願わくば、そのくらいの丁寧さを持ちたいと思う。

「蝶々さん」 半植民地にされることの悲しさ

NHKのドラマ「蝶々さん」(2011)が再放送されていて見た。蝶々さんは長崎県の田舎の武士の娘だが、父を佐賀の乱、母と祖母をコレラで失い、親戚によって置屋に売られる。武士の娘としてよい教育を受け、英語を学んでいた蝶々さんは、芸者になってからも英語の学習を欠かさず、いつかアメリカ合衆国に行きたいと夢見ていた。

そんなある日、アメリカ海軍の軍艦が機関の故障で長崎にやってくる。上陸したある士官と蝶々さんはパーティーの場で出会い、恋に落ちる。正式に祝言もあげ、蝶々さんは士官の子を身ごもる。が、船の修理が終わり士官は長崎を発つ。「必ず帰るから待っていてほしい」と言い残して。

蝶々さんは子どもを産むが、士官は帰って来なかった。しかし、士官の妻がやってくる。なんとアメリカにすでに妻がいたのである。蝶々さんはそれも知らされていなかった。妻は蝶々さんを見て、「まぁなんて可愛らしいこと。夫もあなたが人形のように可愛らしいと手紙に書いていましたわ」と屈託なく言う。このアメリカ人の夫婦はどちらも、蝶々さんを人間、ひとりの女として見ていないのである。そして妻は、「養子にしてアメリカで育てるため、子どもを引き取りたい」と言う。蝶々さんは同意し、子どもを渡した後、自害する。

屈辱である。ドラマであるし、そもそもがオペラであって、実際にあったこととはずいぶんと違っているとはわかっている。が、これがイタリアやアメリカで大人気になったのである。なんたるアジア人蔑視、なんたる日本人蔑視であろう。

人権の問題である。が、当時の日本人が、国権の問題だととらえたのがわかる。列強に領事裁判権を握られていた半植民地日本に対してだからこそ、このようになめたことができたのだ。本国に妻がいるのを隠して結婚したのだから、本来日本の法律に基づいて裁くことができたのではないか。自由民権運動の活動家たちや政治家の一部が、民権の確保のために国権の回復が必要だとしたのは、蝶々さんのような屈辱を見ていたからなのかと思わされる。

民権の確保のために国権の回復・伸長が必要だという意見を、中国人がツイッターで述べているのを見たことがある。「以前、中国人は外国に行くといつもバカにされていた。が、中国が大国になった今、バカにされることはほとんどなくなった。外国人にバカにされないためにも、国に力が必要なのだ」というようなことであった。

人権の視点でいえば、バカにするのが悪い。シンプルに、「国籍や民族を理由にバカにするのをやめるべし。人権侵害だ」と言えばいい。「国に力を」など、新たな抑圧や人権侵害を生む危険がある。が、その中国人の意見は、それもまた今の世界の真実なのではないかと思えた。

日本人もまた、同じことをしてきただろう。邱永漢という台湾人の作家に『たいわん物語』というものがある。1980~81年に「週刊ポスト」に連載された短編集である。邱永漢は大正13年に台南に生まれており、父は台湾人・母は日本人である。頭脳明晰で、当時の台湾で最高級の学校に行き、東京帝大に入学する。戦後台湾に戻るも、政変のため香港に亡命し、その後日本に移り住む。その人の『たいわん物語』だが、日本人駐在員と台湾人ホステスの恋愛物語である。アメリカ人士官と日本人芸者という身分構造が、1890年代の長崎と1970年代の台北という時と場所を越えて、再現されている。

蝶々さんはアメリカに憧れていた。アメリカ人士官の妻になろうと思ったのも、それ故であるところは大きいだろう。『たいわん物語』においても、日本人駐在員は台湾人のホステスによく惚れられている。当時の日本と台湾の経済格差はとんでもないものである。台湾人ホステスも、圧倒的な先進国である日本の文化と、その金銭に惹かれた面は大きいだろう。日本人は駐在員であるから、2~5年もすれば東京や大阪に帰ってしまう。アメリカ人士官のように「また帰ってくるよ」と言い残して去った彼を、台湾人ホステスは待つ。が、しだいに手紙が来なくなる。日本人は東京で、いい奥さんを見つけていたりする。

以前『たいわん物語』のことを、日本人の女性に話したことがあった。するとその人は、「ひどい話だ」とかなり立腹していた。ぼくは正直、その怒りがよくわからなかった。台湾人ホステスも、お金や日本国籍取得という下心があって駐在員に近づいているのだから、裏切られたからといっても、そう文句が言えないのではないか——と思っていたのである。

が、今回「蝶々さん」を見て、認識の誤りに気がついた。ぼくは「21世紀の日本人男性」という特権者の視点にあまりに依っていた。「19世紀の日本人」ないし「19世紀の日本人女性(芸者)」という、従属下に置かれた視点から見ると、「下心があったから」なんて責めるなど、人民からガッツリ搾取している資本家が、工場に落ちていたクギを盗んだプロレタリアートを責めるようなものである。

アメリカ人士官は、日本流の「祝言」などさぞ物珍しかったであろう。ふつうの旅行者には体験できないような、「日本文化の奥深いところ」まで見れて、さぞよいみやげ話になったことであろう。同じく、日本人駐在員も、日本語をよく学んでいる女性のもてなしを、日本ではありえない破格の値段で受けることができ、さぞ満足したことであろう。そして両者とも、国や会社のためによく働いて稼いだお金を使ってあげているのだから、そういうケアや「幸運」を授かる資格はあると思ったことだろう。他の文化を盗用するとはまさにこういうことで、これは現代の観光産業にも通じる問題だろう。

最後に、邱永漢はどういうつもりで『たいわん物語』を書いたのかについて述べたい。つまり、台湾人として日本人を告発するために書いたのかということであるが、答えはおそらくNOである。彼は、日本人駐在員の視点で書いている。彼自身が大成功した企業家であったし、また上に述べたように日本語で教育を受けて、日本に長く住んでいるわけで、心情的には日本人に近しかっただろう。邱永漢は「あとがき」でこう述べている。「題名の『たいわん物語』は荷風散人が明治の末期に書かれた『あめりか物語』や『ふらんす物語』にあやかったものである」。『たいわん物語』も『蝶々夫人』もエキゾチックな恋愛体験として消費されたが、そこにはグロテスクな経済・政治格差があり、涙を流した女性たち、涙に気づかなかったか、気づいても知らないふりをした男性たちがいたのである。

「笑っていい」とされているけど嫌なこと

世の中には、これは笑ってええやんな、これ笑うことで仲良くなりまひょ、というコードになっているものがある。たぶん「ひと息つける共通の話題」のつもりなのだろう。毎回天気の話してもしょうもないから、もう少し笑える話題のつもり、か。でも、そういうのって実は全然おもしろくない。そういうのでぼくが嫌なものを2つ挙げる。

言語
大阪弁出ませんね」とか、笑って言ってくる人がいるが、ぼくは大阪・近畿・日本・東アジアあたりのなかで自分の歴史的・地域的アイデンティティをどう位置づけるかいつも考えているので、それめちゃめちゃセンシティブな話題なのだ。そして、大阪とか近畿とか大事にして、その言葉を使っていこうとしているつもりなのに、「マイルさんは標準語話されますね」とか、笑いのノリで言われるととても悔しい。

もっと太らなあかんで
昔は、もっと食べて大きくならな(背を伸ばさな)あかんでと、よくおばちゃんやおばあちゃん世代の人に言われたものである。特に、ご飯を食べさせてくれるときによく言われた。ぼくはずっとクラスで一番背が低かったので、それを言われるたびに自分の背の低さが思い出された。さすがに20代になると、さらに身長を伸ばすことは求められないが、でも痩せてはいるから、今もあいかわらずおばちゃんたちは、ぼくにご飯を食べさせるときに「マイルくんはもっと太らなあかんな」みたいなことを言う。で、ぼくは食べさせてもらってるので何も文句言わないけど、それけっこううっとうしいです。ぼくは今の体型気に入ってる。もう少し太った方が貫禄がつくとよく言われるけど、今で不自由がないし、太ったら歩いたり走ったりするのがたいへんそうや。おばちゃんたちは、自分らがもっと痩せたいのと、ご飯食べさせるのちょっと照れくさいからそう言ってるんやろうけど

言語にせよ体型にせよ、本気で興味持って言われるのなら、ぼくも反論したり一緒に考察したりできるのだが、とりあえず互いに笑えるものとして話されるので、反論することははじめから禁じられてしまっている。反論が禁じられるなか、できる精一杯の抵抗として、「一緒になって笑わない」ということをしている。とにかく、真顔で返事をする。少し伏し目がちになるとかもいい。「マイルくんはもっと太らなあかんね」に対して、「はぁ、はい」と、ちょっとうんざりですみたいな雰囲気を出しながら返事をして、とりあえず不快感は出しているつもりである。伝わっているかどうかはあまりわからない。

先日、乃木坂46の堀未央奈さんが「のぎおび」というニコ生みたいなやつで個人配信していたとき、いくつか来ていた「目の下にクマがあるよ」というコメントに対して、クマは遺伝だと断った上で、「ちなみにクマあるよって言われるの私好きじゃないので言わないでください。今後一生。」と発言していたが、これくらい言えたら最高なんだけど、なかなかそうはいかないものである。


これも、視聴者は堀さんに、ちゃんと寝てますかって心配で言ったのかもしれないし、ぼくに「もっと太らなあかんで」と言うおばちゃんたちも、ぼくがちゃんと食べてるか心配なんかもしれん。相手の愛情は伝わるので、あんまり厳しい返事をするのもどうなのかなとおもっている。

こういう、決して悪意から出たものではないけど、嫌なこと言われる現象をマイクロアグレッションと言うらしい。

そういえば、漫画の絶望先生でも、「あなたにとってはその話はじめてでもこっちは言われるの百万回目ですから」みたいな話があった。珍しい苗字の人がそれについて何か言われるのもう飽きてるとか。そういうのも、笑いのネタみたいに言われるとムカつくもんやと思う。

で、セクハラ問題でもよく言われることやけど、「なら何を話したらええんや」という反論が予想される。ぼくがそれに答えるなら、真面目にしゃべってくださいということである。いや、笑いがダメということではなく、笑いを定式化せずに、まず本当に興味持って話を聞いて、それでおもしろいところが出てきたら、笑うに任せればいいのである。「これを言えばお互い笑える」なんてのは勘違いなのだと気づいてほしい。それはマジョリティ規範にやむを得ず従っているだけなのである。

台湾・花蓮 語学留学記

201991日から、2020年1月半ばまでの4ヶ月半、台湾の花蓮に語学留学をしていました。

大学名は言いませんが、仏教系の大学の中国語センター(華語中心)です。大学の頭文字を取って、C大学とします。

非常によい体験で、また中国語も伸びました。C大学はお勧めしたいので、どのような環境だったか、ご紹介します。僭越ながら、読み手の方々に助言をするという形式で進めます。

 

1.中国語を一からはじめる人は9月以外からがいいかも

 台湾での語学留学に関心がある人はご存じのこととおもいますが、台湾の華語中心は4学期制です。いち学期がだいたい2ヶ月半です。華語中心は、4つの学期のうちいつ入っても制度上は変わらないのですが、実際の体験としては大きく変わるだろうと思いました。

 理由を述べる前に、「年度はじめ」について考えます。日本での年度はじめが4月からであるのに対し、国際的にはふつう9月はじめです。つまり、9月は人の入れ替わりが激しいということです。C大の華語中心も、ぼくと同じく9月から来た学生が多くいました。その結果、一番初級クラスの人数があふれかえっていました。

 C大の華語中心をクラス別にみると、9月からの学期はだいたいこんな学生数でした。

totally beginner 16人(8×2クラス)

初級1 4人

初級2 3人筆者はここ

初級3 3人

中級1 0人(開講せず)

中級2 4人

中級3 2人

高級  0人(開講せず) 

 つまり、totally beginner(完全に一からはじめる人)のクラスだけふたつもあり、しかもひとクラス8人もいたのです。他のクラスはだいたい3名前後でした。

 C大学の特徴は、なんといってもその少人数制にあります。なおかつ、クラスの種類も多いです。他にも、少人数の華語中心を持つ大学はありますが、それだとクラスの種類が少なくて、レベルの合わない人と一緒に授業を受けないといけなくなることがあるそうです。花蓮にもうひとつある大学の華語中心はそうだったと、過去にそこの大学にいた人に聞きました。

 さて、先に華語中心は4学期制で、ひと学期が2ヶ月半だと書きました。ぼくの通った華語中心は、9月の最初にはじまったので、11月の半ばに学期が終わりました。まるまる一週間の休みをはさんで、11月終わりから次の学期がはじまりました。

 そのときのクラス編成はどうなったかというと

totally beginner 7人

初級1 16人(8×2クラス)

初級2 4人

初級3 3人筆者はここ

中級1 0人(開講せず)

中級2 3人

中級3 4人

高級  2人

 だいたいこのようになりました。9月に、totally beginnerだった人たちは、ひとつ進級して初級1になりましたが、やはり人数は多いままです。

 ぼくが今回、この大学に行ってよかったと思うのが、なんといってもその少人数制です。なのに、9月から中国語をスタートした人たちのクラスでは、そのメリットを活かしにくかったこととおもいます。

 

2.クラス選びはたくさん見て回るといいです

 中国語を一からはじめる人は、totally beginner クラス一択ですが、そうでない人はクラス選びをしないといけません。C大学では、はじめの3日間だけ、自由にいろんなクラスを見ることができるものの、4日目からは固定でした。クラスが自分のレベルにあっているかを選ぶのですが、といっても、教科書が自分のレベルにあっているのか、先生の話す速度があっているのか、クラスの雰囲気があっているのか、など選ぶポイントはいくつかあります。ぼくは、「他の同級生の話すスピードがあっているか」これが何より重要だとおもいます。先生は、話すスピードや語彙を、生徒のレベルに合わせてくれます。教科書は、よほど簡単すぎなければ、どの教科書からでも学ぶことはたくさんあります。しかし、同級生のレベルが自分より低すぎたり、あるいは上すぎると、かなりストレスです。華語中心の学生は、一日3時間の授業のために少なくないお金を払うことになります。一日のメインイベントが授業です。なのに、同級生が自分にはわかりきったところでつまづいて授業が進まないとか、先生がレベルの低い同級生に合わせて簡単な授業をしたりとか、あるいは逆に授業がわからないとか、そういうストレスをかかえて月~金の3時間を過ごすのは、かなりきついです。

 なので、同級生たちのレベルが合わないかもとほんの少しでもおもったら、必ず一個上や下のクラスを見るようにしてください。ぼくの感覚では、あえて無理をせず、ちょっと簡単めかな、くらいのところに行くのがいいとおもいます。というのも、せっかく語学留学をするにあって、授業で一番大事なのはよく発言することだからです。たくさん発言してたくさん間違えてたくさん訂正してもらうのがいいです。

 ただ、ぼくは9月からの学期はよかったのですが、11月終わりからの学期で、自分よりずいぶん下のレベルの人がクラスに入ってきてしまい、ストレス大でした。その人はその学期からC大学に入ってきたのですが、事前のSkype面接で高級班になり、そこからどんどんクラスを降りてきて、ぼくのクラスにやってきたのでした。C大学華語中心の大きな欠点として、留学前にSkypeでする班決めの面接がザルでほとんど意味をなさないという点があります。他の大学だと、はじめに筆記や面接のテストをして決めてくれるところもあるようです。

 なんにせよ、このクラス選びは本当に大事だとおもいます。自分に合ったクラスを見つけられるよう、できるかぎりのことをされるのをおすすめします。その11月に来た人は、どうしても授業のレベルが合わなくて、結局最後は来なくなってしまいました。そういうことになるのは、とてももったいないです。

 

3.寮に住むといいかもです

 住む場所ですが、ぼくは寮を選びました。これが大正解でした。寮の仲間たちと交流するのが本当に楽しかったです。いつも、寮の仲間たちとご飯を食べに出かけていました。ときに、一緒にグラウンドで走ったり(ぼくはほとんど歩いてましたがw)、バドミントンをしたり、意味なく遅くまで話したり、大部屋で映画を見たり、海辺に出かけたり。逆に、寮に住まずに、たとえばアパートの一室を借りてひとり暮らしをしていたら、どんなに退屈だったことだろうかと思います。C大学の寮は、基本は4人部屋で、家賃は、電気水道と飲み水込みで一ヵ月あたり日本円で9000円くらいでした。でも、必ずしも4人部屋全部埋まるわけではなく、2人か3人で4人部屋を使うというパターンが多く見られました。また、仏教の活動のボランティアで数日~数週間滞在する人のためにあけている部屋もあって、その人たちがいない時期は(ほとんどいないです)、その部屋を勝手に使うことができました。音読したりネットで動画を見たりは、ひとりの空間がほしいので、そういう空き部屋を使いました。

 ふだん住む部屋はwifiが届いたのですが、隣の部屋や向かいの部屋は届かなかったようでした。これは運次第です。ぼくは気になりませんでしたが、同部屋の人が遅くまで起きて騒いでたり、夜中のトイレの音がうるさく感じたりした人もいたようです。やはり同部屋なりの苦労はつきものだとおもいます。しかしこの大学はきれいに掃除された空き部屋があるので、こっそりそこで寝ればいいのです。

 寮には何歳の人でも住めますが、比較的若い人たちが寮暮らしを選んでいました。単純に、安いからかもしれません。だいたい30代までの人が寮に住んでいました。華語中心で学ぶのは18歳~30歳くらいの人がほとんどでしたが、中には4050代の人もいました。彼らはアパートかゲストハウスに住むことを選ぶことが多いようでした。他に、宣教師の人たちも来ていて、彼らは教会の寮に住んでいました。あとは、花蓮の人と結婚したとか、家族で東南アジアから花蓮に移り住んだという人が、家から通っていました。

 寮には食事はついていませんが、大学に食堂があります。しかし、朝ごはんを除いて、なかなか相当にまずいです。ぼくも含めほとんどの人が、外に食べに行っていました。外にはいろいろお店がありました。

 

4.英語はできた方がいいでしょう

 特に、寮に住む人にいえることなのですが、英語を使う機会は多いです。立場が同じである、華語中心の学生たちと仲良くなるとおもいますが、彼らの中には中国語がうまく話せない、あるいは全く話せない人がたくさんいるわけです。そして、今回行ってわかったのですが、みなよく英語ができました。

 また、華語中心の先生たちも、totally beginner のクラスでははじめ、英語で授業をするそうです。全く英語ができないと、先生の説明もわからないことになります。華語中心の先生やスタッフは、みな英語がよくできるようでした。

 ちなみに町中では、若者は日本以上に英語がよくできますが、中年以上の人は日本と同じような感じで、ほとんど通じません。でも、若者・中年以上の人ともに、日本語ができる人も多くいます。最近の若者では、韓国語ができる人も増えているようです。

 

5.アルバイトは見つけられるとおもいます

 ワーキングホリデービザで来ている人は、アルバイトをすることができます。花蓮という、都市圏人口20万人の小さい町でも、自転車をこいでいるとたくさん「徵(zhēn)」つまり、「求人募集」の看板を見ましたし、日本人でワーホリビザで来た人たちも、日本料理店(たくさんあります)やリサイクルショップなどで働いていました。給料は台湾の最低賃金150元(≒500円)のようでした。

 日本語を教える仕事を花蓮で見つけるのは、とても難しいです。個人的なつながりしか頼ることができません。大手の外国語塾は、地球村が駅前にひとつあるだけです。

 

6.自転車は必須です

 C大学は花蓮の町中から6km山手にあります。大学の近くにもスーパーや飲食店街はありますが、バイトを見つけるとか、本を買うとか、映画を見るとか、それらをするには町中に行かないといけません。でも、市バスは本数がとてつもなく少なく、使い物になりません。日本の運転免許をJAFで中文訳してもらって、バイクに乗るのも手ですが、自転車があればこと足りるとおもいます。しかし、台湾の交通は危ないのでヘルメットと前後ろのライトをつけた方がいいとおもいます。自転車は、大学の中にいらなくなったのが捨ててあるので、それをひろって、近くの自転車屋さんで修理するのがおすすめです。一番近いところはぼったくりなので(ぼくを含め華語中心の友人何人かが被害にあいました。でも中国語はじめたばかりの日本人の友達はうまく値切って自転車を買ってました。すごい。)、二番目に近いところがいいです。おじさんが職人かたぎの親切な人でした。朶利車自行車行というお店です。調べてみてください。

 また花蓮という町の周辺を、自転車でサイクリングするのはとても気持ちがいいです。花蓮は水が澄んでいてスピードの早い水路が多いのですが、その水路に沿って、田畑や山を眺めながら自転車をこぐのは爽快でした。自転車で山のそばまで行って、山の遊歩道を歩いたこともあります。台湾西部は大気汚染がひどいですが、花蓮は空気もほんとうにきれいです。山はぼくの住む近畿ではほとんど見られない急峻さで、いつも見とれていました。(近畿では、滋賀の蓬莱山や伊吹山が似てたかな。あのクラスが連なっています)

 

7.その他勉強あれこれ

 特にはじめて中国語の勉強をする人に向けてですが、紙のでも電子辞書でもいいですが、辞書は持ってきた方がいいとおもいます。単に教科書の例文を覚えるだけではなく、自分で作文をする機会も毎日のようにあるので、辞書はよく使います。日本の出版社刊の中日・日中辞典は、台北や高雄の紀伊国屋などでは手に入るとおもいますが、花蓮の本屋ではおそらく手に入りません。スマホのアプリもありますが、辞書の方がクオリティは格段に高いと思います。

 C大学は注音(ㄅㄆㄇ)ではなく、ピンインで授業をしていました。いまは、多くの大学の華語中心が、ピンインを使っているようですが、中には注音のところもあるようです。C大学華語中心の先生たちも、生徒に注音ユーザーが多かったら、注音で教えることもあるようです。台湾人は注音を使いますし、台湾で売っている子ども向けの書物のルビもすべて注音です。なので、今後大陸ではなく台湾で中国語を使っていくのでしたら、注音は覚えた方がいいとおもいます。といいつつ、ぼくはまだちゃんと覚え切れていません。

 簡体字繁体字については、これはすべて繁体字で授業がされているようです。おそらく、台湾全土でそうだとおもいます。

 パソコンは持って行った方がいいです。というのも、プレゼンテーションにまとめて発表するという授業が結構たくさんあったからです。

 

8.その他生活あれこれ

 花蓮の物価は、台北に比べると安いですが、台湾全体で見ると特に安いわけではなく、一食100元くらいふつうにします。南部の大都会である、台南や高雄の方が食費や寮費は安いようです。

 大学図書館は、日本語書籍がたくさん置いてあります。これはC大学に限らず、どこの大学もそうであるようです。日本語で読む物がなくなるのが心配だからという理由で、日本から本を持って行く必要はないとおもわれます。

 花蓮は、都市圏人口20万人くらいで、文化的にはやはり保守的だとおもいました。台北などであれば、様々なマイノリティについての集まりなどがあるのだと思いますが、そういったものはなさそうに見えました。台湾社会の先進的な状況を知るという点では、花蓮はほとんど使い物にならないとおもいますが(でも原住民の権利運動の活動はやってるのかな)、空気がとてもきれいで、なおかつ必要なものはだいたいなんでもそろうので、のんびり中国語を勉強するという点では最高かとおもいます。

 あと、町中のカフェで毎週月曜日に Language Exchange の集まりがあります。ぼくはいつも台湾史の話をしていました(笑) Facebookにページがあります。

語言交換在花蓮 Language exchange in Hualien公開グループ | Facebook

 ビザ取るか問題については、ぼくは3ヶ月内ノービザの仕組みを使って、途中で出国してまた入国しました。ただ、すでにコロナ後の世界に入ったので、安全のためビザは取って行った方がいいと思います。いざというときに、台湾政府が我々をどれだけ保護してくれるかということを考えないといけません。

 

9.障害がある人へ

 ぼくは吃音という発話の障害があり、外国で障害を持ったまま生活してみるというのはどんなものか、不安でした。特に、中国語の授業を毎日受けるわけで、言語の障害があるのはたいへんではないか、とおもいました。実際は、先生も同級生たちもみな、よく理解してくれました。障害者に対する人権意識が日本より遅れている、ということはないように感じました。

 C大学では、車椅子に乗っている人は少しだけ見かけました。ただ、正直いって、車椅子の人にC大、というか花蓮のような田舎町は勧められません。花蓮は田舎で公共交通も不便極まりないです。自転車かバイクがないと、ほとんどどこにもいけません。移動が制限される障害がある方は、地下鉄が発達している台北か高雄の大学に行かれるのがいいとおもいます。台中もやっと一本目の地下鉄が、今年202011月に開通するようですね。

 

10.おまけ.華語中心の学生たち

 自分で思いついておもしろいと思った、役に立たないことを書きます。華語中心の学生たちの傾向をぼくの偏見に基づいて区分してしまうという野蛮な遊びです。

 学生たちを見ていると、あぁ、こういう人たちはこういういきさつでここに来ているのか、というまとまりが見えてきます。それを示します。

 まず、ぼくが親しくしていた人たちは、地域別には主に以下の3種類にわけるといいように感じられました。右のダッシュ部分は後で解説します。

・東南アジア人——エリート華人たち——

・欧米人——趣味人たち——

・日本人——意識高い苦学生たち——

です。それぞれに傾向があります。

 まず、東南アジアの人たちはほとんど全員、華人(華僑)です。これが意味するのは、彼らの親も、彼らが中国語を学ぶことを期待しているということです。つまり、金は親から出ています。なので経済的にゆとりがあります。

 そして、みな英語がよくできます。中国語を学ぶ前に、英語の教育をしっかり受けることができる学校や大学に通っていたのだとおもわれます。といっても、東南アジアで高等教育を受けるとなると必然的に高度な英語力が求められますね。みな、基礎教養のしっかりした、エリートたちでした。学生がほとんどでしたが、職業を持つ人たちは、医師や料理写真家といった専門職でした。学んだ中国語は、将来の仕事に活かそうとおもっているようでした。

 次に、欧米から来た人たちです。彼らは趣味人でした。言語を学ぶのが好きとか、中国文化が好きとか、そういう理由で来ています。あと、山が好きだから花蓮に来たという人も何人かいました。暇をみつけてはハイキングに行っていました。お金は、自分で働いて貯金して来たという人が多いようでした。学校や会社のエリートという感じの人は少なかったですが、基礎教養はしっかりしていて、知り合った人全員英語がよくできました。親しくしていた24歳のアメリカ人女性は、NYの生まれ育ちで、ロッキー山脈あたりで環境保全の仕事をしていたということでした。この人も立派な人だった

 最後に日本人です。日本人は苦学生でした。苦学生というのはそういうものなのかもしれませんが、みな意識が高かったです。ワーキング・ホリデーのビザで来ている人も多く、中国語の授業を受けた後に、花蓮の町中のバイト先まで7km自転車をこいで行き、時給150元(≒500円)で働いていました。将来の職業に活かしたいという人も、広い世界を見たいという人もいましたが、とにかくよく頑張っていました。日本人同士なのでよく話したのですが、「おぉ、やる気あるなぁ」と内心しばしばびっくりしていました。

 他に、C大学の仏教ボランティアネットワークで来ていた、モザンビークの人たちが数名いましたが、彼らとはあまり話していないので、よくわかりません。ボランティアネットワークをきっかけに来たという、東南アジアの華人も、少なくない数でいました。宗教ということでいえば、キリスト教の宣教師たちもいました。

 以上、東南アジア・欧米・日本の3グループ(と、仏教やキリスト教で来た人々)にわけましたが、みな真面目に中国語の学習をしていたようでした。そして、こういう区分わけが往々にしてそうであるように、例外が多々あります。というか例外だらけです。たとえば、日本人であるぼくは全然苦学していないです。実は資金は祖父母の貯金とパトロンの寄付で出ていて、わりとのんびりと、ひまな時間は自転車をこいだり、パソコンで随筆を書いたり、昼前まで寝たりして暮らしていました。台湾や中国の文化が好きなだけで、将来の仕事に特につなげる気もなく来ているという点からいっても、上のぼくの区分によれば、どちらかといえば欧米人タイプなのかな。でも、東南アジアの華人たちと一緒にいることも多かったですし、資金の出方も華人っぽいですね。(将来の仕事につなげる気がないという点で)はじめから家族の期待を裏切る気でいる華人ということでしょうか。家族のネットワークが強い本物の華人ではあり得ないことかもしれません。

 

11.留学先選びは運ゲー? 成功大学での失敗記

 人生の選択ってそういうものなのかもしれませんが、台湾の語学留学も、選んだ大学が自分に合うかどうかは、運要素が大きいなと思います。それに、なかなか事前情報が手に入りにくいですね。だからぼくもこうして書いて、他の人に参考にしてもらおうと思ったわけですが、でも肌に合うかどうかは始めてみないとわからなかったりするよなぁと思います。

 実はぼく、大学4回生を休学していた2015年に、台南の名門国立大学である成功大学に語学留学をして(名門大でも語学留学なら金さえ払えば誰でも入れます)、友達全然できず、授業も途中で行かなくなって引きこもっていたという苦い経験があります。だから今回花蓮に行くのもすごく不安だったのですが、うまくいって本当によかったです。

 花蓮C大学は少人数制ですが、成功大学はひとクラス8人くらいで、吃音のぼくに発言するのはハードル高すぎと初日の授業見学で思って、一対一の授業に換えてもらったんです。それが、一日2時間だったのですが、全然おもしろくなかったです。なんでおもしろくなかったんやろうやっぱり先生と一対一じゃ気が詰まるんやろか。それとも、その頃は中国語やる気あんましなかったんやろか。謎です。C大学は一日3時間の授業ですが、成功大学は一日2時間にプラスして、週に3コマほど、歌を習うとか、台湾の地理を習うとか、そういう文化発展的なクラスがありました。それは大人数で、ぼくはそこでも発言できず、それもすぐに行かなくなりました。

 C大学は大学提供の寮がありますが、成功大学は語学留学生用には民間の寮しかなく、そこでも全く友達が作れませんでした。ひとり部屋だったのですが、ずっと引きこもっていました。ずっと引きこもっていると、肩や背中が痛くなります。なので毎日、台南水都水世界というプールに行って、泳いだり、暖かいお湯が出るところでくつろいだり、ぼーっとしたりして1時間半~2時間過ごしていました。それは楽しい時間で、この台南語学留学では、中国語はほとんど伸びませんでしたが、水泳だけはうまくなりました。

 あと、FBの日本人と台南人が交流するページに、言語交換を呼びかけて、ひとりとてもすばらしい友人ができました。言語交換といっても、彼が日本語ペラペラだったので、日本語だけで話しました。彼とは今でも親しくしています。

 今回のC大学は、成功大学よりは自分に合っていたかなと思います。実際、楽しく終えることができてよかったのですが、それも、幸運やったなぁと思う点がひとつあります。C大学の初級〜中級あたりのクラスは、金曜日だけ「會話課」という、ふだんのテキストとはちょっと違うものを使い、先生も別の人に変わる授業になります。ぼくは11月〜1月の学期では金曜日だけ、ひとつレベルが上のクラスに入ってみたのですが、そのクラスの人たち(の内2人)ととても相性が悪いことが、入ってからわかりました。1月に全クラスで各国の料理を作り正月の過ごし方について発表するという授業があったのですが、その共同作業をする段になって、大ゲンカすることがありました。正確には、ぼくがあんまりやる気ない感じでいたら、いきなりキレられたのですが…。それはさておき、もしぼくがいち学期早く、つまり5月にC大学に入っていたら、毎日彼らと同じクラスだったわけで、9月から行っておいて本当によかったなぁ…とおもいます。5月に行ってたら、途中で嫌になって帰国していたかも。いやぁ、ほんと運ですね!人生は運ゲー

 でも実際、2015年の成功大学がうまく行かなくて、2019年のC大学が楽しかったのは、自分のいわゆるコミュニケーション能力?みたいなのが上がったかもという要素は大きいのだとおもいます。この言葉は就活くさいし、能力主義的なのであまり使いたくはありませんが、使ってしまった…。

 

12.おわりに

 花蓮の語学留学が終わってもう3ヶ月たつのですが、夢のようにおもえます。でも、ふと思いだすと、まるで自分の体があのC大学の寮や、花蓮の町にいるような気がします。とても楽しい日々でした。遊んでばかりいたような書き方になってしまいましたが、勉強もよくしていたんですよ。授業の3時間に加えて、毎日自分でも3~5時間くらい勉強していました(9月~11月の先生は宿題も多かった)。君は真面目な生徒だとよく褒められましたし、日常会話が以前よりはだいぶできるようになりました。それでもまだまだ、聞き取れないことがほとんどなのですが。帰国してからも、台湾で手に入れた漫画や絵本、小中高の教科書、あるいは日本で手に入る教材など使って継続的に勉強できているので、学習継続の波をつくるいいきっかけになったなとおもいます。

女性の吃音者と男性の吃音者〜見た目問題としての吃音〜

吃音がある女性と男性とで何か違うところがあるだろうか、と思っていた。吃音の男:女比は3~5:1なので、女性はマイノリティになる、以外には特にないと思っていた。

しかし、先日、吃音のある小中高生を対象にした合宿に参加した友人が、「女の子の方が男の子よりもちゃんと考えているように見えるなぁ」と言っていた。ほんとだろうかと思ったが、同時期に、別の、女性の身体をした人から、「女性のほぼすべての人が、外見にコンプレックスがあると思う」と聞いた。だいたい8~9割くらいかなと思っていたが、ほぼ全員というのに少し驚き、しばらくたってたしかにそうかもしれない、と思った。そして、それでつながった。特に女性の場合、吃音が見た目問題につながるのではないか、と。

あるていど重い吃音の人がどもるとき、顔をゆがませたりすることは多い。また、声も一種の見た目である。女性の身体の人は今の社会では、外見が「評価」されることが、男性の身体の人に比べて格段に多い。声もまた、「萌え要素」のようによく見られる。ある女性身体の友人は、性に対する嫌悪感があると言っていたが、それも社会に置かれている女性身体の地位によるところがおおきいようだ。

そのような社会において、女性が安心してどもることができるだろうか。どもるときの外見は、男性身体のぼく自身、いくらかは気になっていたのだが、女性の場合それが何倍も気になることは、ありえると思った。

押見修造の『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』という漫画があるが、そこでは女性の主人公の「志乃ちゃん」が顔をゆがませてどもる場面がある。押見修造もそのような意識から、主人公を女性にしたのかもしれないと思った。

女性の吃音の人が、「恋愛が不安」と語るのを聞くことが多かったが、今まではよくわからなかった。恋愛は人と人とがほんとうに結びつくことなのだから、どもるかどもらないか、という全人格のほんの一端の現象を気にしなくていいのではないか、と思っていた。しかしやはり、男性がアホすぎて女性の外見しか見ていないという現実があるのだった。そして、女性がどもっていると「外見的にアウト」と思う男性もいるのだろうと思った。あるいは、どもっていて「萌え」と、アニメの登場人物のようにしか受けいれられないこともありうるだろう。「男性がアホすぎて」と先に書いたが、社会構造的な問題でもあるから、しゅうと・しゅうとめなどで吃音の「嫁」を嫌がる人もいるかもしれない。

友人が参加した合宿は、「吃音を受けいれよう」ということが前提になっているものだった。ぼくも何年か前に参加したのだが、その時も今回も、小中高の参加者は女性が多かったようだ。男性にとってよりも女性にとっての方が、吃音を受けいれるのは難しく、しかし同時に必要性のあることなのかもしれないと思った。

『天気の子』の国家論——近代を抱いたまま沈む東京と日本——

 『天気の子』のラストで帆高は、「ぼくらが世界の形を変えてしまったんだ」と言う。しかし実際、帆高と陽菜が変えたのは世界全部ではなく、日本の東京という一地域である。単に地域の天気を変える話であれば、例えば大阪や岡山や小豆島なんかでも成りたつ。しかし本作では、東京の新宿が選ばれた。そこが日本の近代を象徴する場所だからだ、というのが本稿の趣旨である。

 物語の最後に、東京は沈む。いけにえを捧げなかった神罰である。むかしの日本にはどこの村にも天気を操る巫女がいて、最後はいけにえとして死んでいったと、気象神社の神主は語る。それが天気に関するものであったかはともかく、日本の村々で若い女性をいけにえに捧げたということは、史実である[1]

 近代日本において、東京の天気は穏やかであった。だから、劇中におばあさんが語るように、二百年かけて海だった場所を陸にし、街を作ることができた。そこに神話的な意味を見いだすならば、太陽神で女性神である天照大神の地上における体現者、天皇が移ってきたことがいえるだろう。天皇を戴く東京は太陽神に微笑まれ、安定した天候に恵まれた。

 かつて村々にいた巫女が近代にいなくなった理由は、国家による神道の中央管理化が進んだことがいえるだろう。明治6年には巫女を禁じる法令が発せられている。[2]天皇の威光が日本全土を照らし、いけにえを村々という小さな単位で行う必要がなくなった。太陽神が全国をおおった。

 東京の長雨が意味するのは、近代の終焉ではないだろうか。劇中で天皇は登場しないが、もしかしたら天皇制は終わっているかもしれない。あるいは、天皇制は形としては続きつつも、中身が死んでしまっているのかもしれない。いずれにせよ、東京は太陽神から見放されている。

 天皇制それ自体が、いけにえのシステムだといえた。皇室に生まれたというだけで、一般の日本「国民」が享受する人権を奪われる。東京は、日本は、いけにえを中心に発展してきた。近代天皇制という大きないけにえが、村々の少女が巫女として捧げられることから解放したのかもしれない。

 だが、天皇ではもうだめになった。新たないけにえが求められ、陽菜が選ばれた。陽菜が祈った場所が、代々木という明治神宮の所在地であることは象徴的である。近代日本最初のいけにえが眠る場所を見下ろして、陽菜は祈る。願いは、晴れること。明治天皇天照大神の力が働く。それは、陽菜が祈って晴れにした一番大きな仕事が、明治神宮外苑の花火大会という祭りであることにも示されている[3]

 しかし陽菜は結局、地上に戻ってきてしまう。いけにえを捧げなかったむくいとして、東京は毎日雨が降り、徐々に沈んでいく。帆高が高校を卒業して3年ぶりに東京に行くとき、東京の鳥瞰図が写される。そこでは、皇居の森はかろうじて残っているものの、その東の下町エリアはほぼ沈んでいる。そして、水上バスが行き交っている。

 私は、水上バスがせわしなく行き交う東京を見て、意外に思った。東京を放棄するという選択肢は選ばれなかったのか!と思ったのである。根拠はないが、あの賑やかさから、東京は首都のままかもしれない、と感じた。

 首都東京が徐々に沈みゆく運命にあるとき、遷都は当然考えられる選択肢である。日本において首都とは天皇のいるところである。天皇が東京にいては太陽神は輝き給わないのだから、他の地(おそらく京都や大阪になるだろう)に移して、輝きを取り戻していただく、と考えることができる。

 それはすなわち、近代の終焉となる。東京遷都とともにはじまった日本の近代だが、神に見放されたのだから、首都移転によって近代を断ち切って、ポストモダン日本として再生する。そうした歯切れのいい方法を、劇中の日本人は選ばなかった。選んだのは、神に見放された東京と近代を抱きながら、冷たく沈んでいくことだった。

 物語の最後に帆高は、「世界がどれだけ狂っても、ぼくらふたりは大丈夫だ」と言う。「東京と日本、そして近代が沈んでいこうとも、ぼくらは大丈夫だ」という意味である。もちろん、となりに陽菜がいるから。陽菜にとってはとなりに帆高がいるからである。

 「世界なんてもともと狂ってたんだ」と須賀も言うように、東京も日本も本来はわけのわからない世界だった(東京の下町はかつて海だった)。そこに秩序を与えたのが、村々にいた巫女=いけにえであり、天皇(=いけにえ)を中心とした国家体制だった。秩序が失われようと、おばあさんが言ったように、「元に戻っただけ」だ。我が友人の小峰くんは、帆高と陽菜という二者の結びつきこそが本当の公共なのだと述べている。映画では、児童相談所や警察といった近代の「公共(秩序)」を名乗るものが、実際は形のみのものであり、陽菜と凪の二者、帆高も加えて三者(あるいは編プロのふたりも加えてもよいか)の生み出していた公共を破壊する働きとなっていたことが示された。近代が終わりつつあるいま、身近な関係(それは必ずしも恋愛関係でなくてよいだろう)から個々人が公共を作っていく。そういうメッセージがあるのではないだろうか。

 さて、新海誠はなぜ今のタイミングでこの、東京が太陽神に見放され、いけにえに陽菜という女性が選ばれる物語を作ったのか、考察したい。太陽神を地上に体現する天皇制は、まもなく終わろうとしている。皇位継承者を男系男子に限るという今のシステムでは、悠仁親王に男子のお世継ぎが生まれなかったら、天皇制は終了となる。女性(女系)天皇を公認するかどうかが目下の問題である。今まで男子のみが天皇といういけにえになったのだが、天皇制を続けるには、今後は女子もいけにえとしなくてはならない。つまり、陽菜は今後生まれる女性天皇を象徴する。劇中では帆高が、近代日本が終わろうともあなたが必要だといって、地上に戻してくれた。しかし未来の女性天皇がそのように、社会の犠牲ではなく個人としての結びつきを得ることができるのだろうか、そのような問いが発見されるのである。

 最後に、『天気の子』の性風俗描写について、記しておきたい。はじめに、「バーニラ バニラ バーニラ 求人」と性風俗の宣伝車が新宿の町を走るが、これは陽菜という巫女との出会いの伏線となっている。というのも、巫女はかつて、性を売る者でもあったからである。日本の遊郭は神社を中心に発達してきたが[4]、ここでは明治神宮と歌舞伎町(陽菜)がセットになっているだろう。

 古来、巫女は処女であることが求められた。陽菜がラブホテルでエロビデオの撮影をされそうになり、結局帆高くんの(無用な?)活躍で逃げられたが、もしあのまま撮影していた場合、天気の巫女としての働きはその後も有効だったのだろうか、と気になる。また、「されそう」と書いたが陽菜は、貧困のためやむにやまれずとはいえ、撮影に合意しているのであり、大きな抵抗は見られない。性を売る巫女としての姿がここにも見えた。巫女が処女であらねばならないということと、性を売る巫女というのは当然矛盾するのだが、巫女にも色々な形態があったようである[5]。ラブホで最後の夜を過ごす、帆高、陽菜、凪はとても楽しそうである。そこにも、性の場所に輝く巫女の姿がある。

 

[1]日本巫女史』(初版は昭和五年 2012年国書刊行会より復刊)p225 第二節 人身御供となった巫女 「現在ではこの民俗の存したことは、単なる文献や伝説ばかりでなく、考古学的に遺物の上からも証明されるまでに研究が進んできた。」「人身御供に上げられる女性のうちに、巫女がその多数を占めている」

[2]日本巫女史』p640

     達第二号       府 県

従来梓巫市子並憑祈禱狐下ケ杯ト相唱玉占口寄等ノ所業ヲ以テ人民ヲ眩惑セシメ候儀自今一切禁止候条於各地官此旨相心得取締厳重可相立候事

   明治六年一月一五日  教部省

[3] 第1回は1980年に明治神宮鎮座60年記念としてはじまった 神宮外苑花火大会 - Wikipedia 

[4]日本巫女史』p425に例が多数挙げられている。伊勢神宮と古市遊郭にはじまり、「奈良の木辻と春日社、摂津住吉社と乳守、広田社と神崎、下関の赤間社と稲荷町筑前の筥﨑宮と博多柳町、讃州金毘羅社と新町、日吉神社と大津の紫屋町、出雲の美保神社と同地の遊里、越後の弥彦神社と寺泊、敦賀気比神宮と六軒町、熱田神宮と宮ノ宿、静岡市浅間神社弥勒町、伊豆の三島神社と三島女郎衆、常陸の鹿島社と潮来遊郭、武蔵府中の国魂神社と同所の遊女町、信州の諏訪社と高嶋遊郭、陸前の塩竈神社と門前の遊郭などを重なるものとして、ほとんど枚挙に遑あらずという多数である。」

[5]日本巫女史』p422「人妻であっても、娼婦であっても、物忌だに済せば、再び元の処女として、神に仕える事を許されたのである。しかしてこの思想は、巫女と娼婦の境界線を撤廃するに、大きな力となって、社会的に動いていたのである。」また同書の一番はじめ(p18~35)には、様々な種類の巫女が一覧になっている。

台湾の元・ハンセン病療養所「楽山教養院」訪問記

 2018年12月から1月にかけて一カ月間、台湾は台南の郊外の知的障害者の施設でボランティアをしていた。ボランティアといっても、障害者の人たちと同じような生活をしていたのみであるが。その日々はnoteに記した。

 ボランティアの滞在が終わってから、東回りに北上し、台北に行った。そして、日本の植民地時代からハンセン病者の療養所であり、1971年からは障害のある児童が住む場所となっている「楽山教養院」を訪れることにした。

 楽山教養院を知ったのは、東京は清瀬と東村山の境にある「国立ハンセン病資料館」を訪れてのことだった。御殿場の私立神山復生病院(1889~)と国立駿河療養所(1944~)*1は行ったことがあったが、旧植民地にハンセン病療養所が作られたということは知らなかった。しかし冷静に考えれば、決しておかしいことではない。

 台湾には、旧台北州(戦後は台北県、2010年に新北市と改称)にふたつあった。ひとつは台湾総督府立の「楽生院」(1930年~)、もうひとつは宣教師であり医師であったカナダ人、グッシュテイラー(George Gushue-Taylor)が建設した私立「楽山院」(1934年~)である。

 楽生院は新北市桃園市の境の山際にありますが、2000年代になってから、MRT(地下鉄)建設のため、古い建物が取り壊されることになり、その反対運動が盛り上がって話題になった。運動の結果、取り壊されたのは一部分にとどまった。

 もうひとつ楽山院は、台北のかつての外港として有名な観光地・淡水の対岸の、八里という場所にある。こちらは、楽生院ほどは有名ではない。楽生院が現在も(元)ハンセン病患者の住まう場所であるのに対して、楽山院にいたハンセン病患者は楽生院に移動し、楽山院は1971年から、障害のある子どもたちの住まう場所になっている。

 「ひょっとしたらボランティアという形で滞在させてもらえるかもしれない」と、楽山院に関心を覚えた私は、台南にいたときからメールで訪問のアポを取っていた。そして、帰国する前日の1月11日の木曜日、あいにく時々ポツポツ雨が降るような天気だったが、訪れることができた。

 台北からはいくつかの行き方があるが、MRTで中和新蘆線の終点蘆洲駅に行き、バスに乗りかえ、八里の終着駅に着き、20分ほど歩くルートをとった。

 

  門に着くと守衛の人がいて、話を通してくれていたようで、数分すると女性の方が案内しに来てくれた。建設当時から使われていた赤煉瓦の建物が「戴仁壽醫師紀念館」という資料館になっていて(戴仁壽はグッシュテイラーのこと)、鍵を開けて入れてくれ、詳しく説明してくれた。

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療養所の土地を購入する証書 昭和六年とある

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左:gushue taylor 右はおそらく奥さん

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当時のカルテ もう亡くなっているので公開しても構わないとのことだった

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当時の医療器具も

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建物外観

 記念館を出て、院内の教会へ。Gushue-Taylorは医師であると同時に宣教師でもあった。宣教師たちはハンセン病者の救済に活躍し、日本でも多くの療養所を開設している。国立療養所が整備されはじめるのは1909年ごろからだが、御殿場の私立神山復生病院が1889年に開設されるのを皮切りに、1890年代に東京の目黒や熊本などに宣教師によるハンセン病療養所が開設されている。また、国立の療養所では、その目的を治療というよりは収容としたように思えるくらい、非人道的な生活を送らされたのに対し、これら私立の療養所では、自分たちで畑を耕し、余暇の時間もあり、キリスト教の精神に基づいた、比較的に人道的な生活が営まれたようである。当時発展途上国であった日本や台湾という異国におもむき、社会から最も差別されたハンセン病者と共に生きた宣教師たちを尊敬する。

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教会

上の写真が院内の教会であるが、特徴的な点がひとつある。それは、祭壇と一般信徒の立ち入る場所が、小さな壁で仕切られているところだ。感染を防ぐため、壁を作って行き来できないようにしたのだろう。

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低い壁がある

院内を散策させてもらった。数年前に新棟が完成するまで、戦前からの建物に障害児たちが住んでいたらしい。台湾や日本、西洋の実業家、銀行、政府関係、教会など数多くの機関・個人から寄付を受けたようで、その名前が部屋の上に刻まれている。

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辜顯榮氏の文字が見える 台湾総督府と結んだ台北の実業家で戦後は漢奸とも言われた その孫であるリチャード・クー氏は野村総研の主席研究員として活躍している

 

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トロントの聖アンドリュース教会の寄付

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ハンセン病者と障害児が住んだと思われる部屋が並ぶ 今は使われておらず 廊下もこの通り掃除されていない

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日本語の詩が壁に書かれていた いつの時代のものだろう 消えかかっている

上の写真の日本語の詩であるが、1980年から84年に堀田久子(崛田久子?)という宣教師が滞在していた('82年までは院長代理)と資料館に書かれており、その人の詩かとも思ったが、にしては新しすぎるようにも感じた。日本の詩人が立ち寄って書いたのだろうか。

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公園(今はあまり使われていないように見えた)

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小さな畑もあった

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少し行くと山

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ベトナムから働きに来た女性たちが住んでいるところ 台湾では東南アジアの女性たちを介護労働者として大勢受けいれている

その後、数年前にできた新しいビルにお邪魔して、院長の方などとお話しすることができた。楽山院についての漫画や本もいただいた。

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楽山院でいただいた漫画と絵本 George Gushue-Taylor(戴仁壽)医師について

台南の障害者施設でボランティアをしたことを伝え、ダメ元で「ここにも滞在してボランティアのような形で関わりたい」と言うと、「うーん、前例がないけど…住む場所がなぁ…でも部屋に空きが出ることもある。部屋が空いていて、そしてあなたの中国語がもっとうまくなったら、来ていいよ」と言われた。

中国語ができるようになるために、語学留学をすることにします。その費用をクラウドファンディングで集める予定です。ご協力いただけますと幸いです。

*1:現存する日本最古のハンセン病療養所。院内に博物館があるので事前連絡の上ぜひ行ってみてください

台湾ボランティア記・第4週

22~23日目 12月24日(月)〜25日(火)
 24日は朝はひとついいことがあったが、基本的にだるかった。その前の日、夜中の0時半までにアニメの「ハイスクール・フリート」(女子高生が軍艦でドンパチやるやつ)を見たせいだろうか。本を読もうとしても入ってこない。
 午後は住友化学ゆるキャラと思しき「sumikaちゃん」が来て、プレゼントを障害者の人たちに渡していた。sumikaちゃんはググっても出てこなかったからよくわからない。住友化学がお金をくれているのだろう。しかしアホみたいだからスマホをさわっていた。
 だるいから早めに帰って、今日はもうダメだなと観念して、そのアニメを最後まで見た。海軍の号令はカッコいいなあ。数字をひと、ふたと呼んだりとか、取り舵いっぱいとか。
 夜はクリスマスイブということでカトリック教会でごはん会があった。施設の人に誘われて行ったが、ずいぶんと高齢化していた。となりの長老派教会はいろんな世代がいたのだが。少し拝んで帰った。前日に果たせなかった約束である将棋を、同居人のドイツ人と指した。ヨーロッパ大会にドイツ代表として出たというからどんなもんかと思ったが、弱かった。だるいので日誌も書かずに寝た。
 そして翌日の今日は、ゆっくり起きてシャワーをあびた。時間を気にせずシャワーを浴びられるのはすばらしいが、贅沢をいえば湯船に浸かりたいものだ。ボスが昼ご飯に連れて行けるかもと昨夜言っていたから、ずっとたまっていたメールを出すなどの仕事をする。お昼に連絡があり、食べに行こうということである。車で迎えに来てくれる。近くの店だろうと思っていたら、麻豆という30kmくらい離れたところまで連れて行かれた。ボスは女性だが、制限速度90kmの道を時速140kmくらいで、しかも施設の名前がどーんと入った車でぶっ飛ばしていて、豪快である。今まで乗った車で一番速かった。新快速ですら時速130kmなのだからすごいと思った。
 麻豆について名物のものを食べた。やわらかいお餅がご飯の器いっぱいに入っているもの。特別うまいというわけでもないのと、炭水化物が少ししか食べられない体なので、残してしまう。他はきれいに食べたのだが。それですぐ帰る。台湾人は○○は食べたかということをめっちゃ聞いてくるし、食べ物へのこだわりがすごい。食べるの好きなことを中国語で吃貨というらしい。帰りに旧糖廠のアイスを買って食べようということで入ったが、休みだった。旧糖廠は台湾の至る所にあり、どこもかしこも文化センターになっている。どれも日本時代に明治製糖などが作っているから、日本時代をしのぶよすがともなっている。ここ麻豆の糖廠跡も、当時の宿舎などがきれいに残っている。和服を着た台湾人の子どもたちが写真撮影をしていて、ここは日本なりやと一瞬まがいそうになる。あいにく休館日で建物の中には入れなかったが、外から見物できてよかった。少し寄り道しながら帰る。近くの店だと思って水を持たずに出たので、喉が渇いて困った。
 帰ってからも、ずっと出そうと思っていたメールやwechatやらを送る。テレビでこち亀ドラえもんを見た後、2度ほど行った店で夕食にしようと出るが、その店は閉まっており、しばらくうろついて、他の店に入る。いささか汚そうで賑わっている店にした。あらかじめ、「飯 湯 菜」とノートに書いておいて見せた。それぞれご飯、スープ、野菜の意味である。「リップンナ」と店の人たちが言っているが、これは台湾語で日本人の意味である。台湾語わからないけど、これとドゥオシャー(ありがとう)だけはわかる。ちなみに「日本人」は北京語では「リーベンレン」なので全然違う。台湾語と北京語はドイツ語と英語よりも離れているらしい。さて、何の飯や、何のスープや、何の野菜やと聞かれ、これがあるで、あれがあるで、ということで、炒飯と魚のスープと青い野菜を注文する。持ち帰るか中で食べるか迷うが、中で食べる。隣りに座っていたおっちゃんに店の人が、リップンナと、つまり日本人だと言い、隣のおっちゃんは簡単な日本語で話しかけてくれた。店の人とも、どのくらいいるのかとか、日本のどこからかとか話す。炒飯が食べきれなかったので持ち帰る。全部で150元(500円くらい)であった。やはりそんなに安いわけでもない。
 その隣のセブンイレブンに、台湾版アマゾンの博客來で注文した本が届いたとメールがあったので取りに行く。店の同い年くらいの女性に話しかけると、英語で答えてくれた。台湾コンビニは荷物が受け取れたりsimが買えたりですごい。買ったのは、『伊沢修二と台湾』という出たばかりの本である。ふつうに買うと1200元(4000円くらい)とおそろしく高いが、博客來で22%オフになっていた。台湾大学の出版センターが出しているが、中身はすべて日本語である。伊沢修二は日本領台湾の近代教育の先駆けとなった人であり、また近代日本の吃音治療の先駆けの人である。吃音と台湾というぼくの関心事はふつうつながりそうにないが、伊沢修二においてつながるのである。というわけで22%オフでも高いけれど、日本で手に入らなさそうだし、買ったのだ。
 夜もメールを出したり、今後の予定を確認したりした。こういう日も必要である。これから『伊沢修二と台湾』を読もうと思う。

24~25日目 12月26日(水)~27日(木)
 明日結婚のセレモニーをするとかで、紅白の湯圓(台湾式ぜんざい)の準備をする。ぼくはひたすら紅白の餅をまるくした。
 夜市で揚げ物を食べたせいでビールが飲みたくなり、同居人の障害者の人を前に「我想喝啤酒!(ビールが飲みたい!)」と子どもみたいに飛び跳ねながら言っていたら、おじいさんに買いに行けと言われて、ドイツ人の分も買った。同居人の障害者の人は実年齢40くらいだけど精神年齢が12歳くらいに見える。施設の障害者の人たちの多くがそんな感じである。彼らを前にすると気兼ねなく子どもに戻れて楽なのだ。
 ビールを飲みながらドイツ人と将棋を指して、相変わらずボロ勝ちしてしまった。次やるときは飛車落ちか二枚落ちにしよう。ビールのせいで日記が書けなかった。
 AKB48から派生した上海のアイドルグループSNH48youtubeで見て、中国語の勉強に歌を覚えようかなと思った。SNH48は日本の本部に反乱を起こして独立しているらしい。だからか、中国のはやりの歌(小蘋果)を歌っていたり、愛国的な歌(歌唱祖国)を歌っていておもしろい。台北TPE48も日本の本部とごたごたがあったとかで、AKB48 Team Tp として再出発したらしい。なんか権利関係たいへんだな。チームタイペイの新しいPVが昨日出たとかで見た。阿里山で踊っていた。日本人のアイドルが中国語で歌っているのはおもろい。時代が変わったな〜と思う。
 今日は朝8時に施設に行く。元職員が結婚するらしく、みなで写真を撮ったりした。終わってから、リョウタツがドイツ人とふたりで写真を撮っていて、「あ〜、やっぱりイケメンの白人が好きなんやな…」としょんぼりしていたら、「ともひろ!一緒に写真を撮ってくれる?」と聞いてくれ、リョウタツはなんと優しい女なのだろうかと、感銘を受けたのであった。楊くんに「彼女いる?」と聞かれ、いないと答えると、「ぼくもいないんだよ、23年間ずっといない」ということであった。しかし楊くんはとてもいい男である。
 そういえばリョウタツについては先日、「どこかに一緒に遊びに行く時間はありますか?」と聞いたところ、4連休は台南にいないから、一緒に出かけるのは都合があわないけど、どこかで晩ご飯を一緒に食べましょうと返事をもらった。楽しみだ。
(公開設定を変えたので【裏】じゃないです 無印と裏とふたつ書くのめんどくなった)

26日目 12月28日(金) 孤独なりフライデーナイト〜発達障害っぽい行動記〜
 少し風邪ぎみで起きる。台湾の家は防寒対策がされていないから、早朝、外の空気が冷えるとそのまま部屋の中まで寒くなる。午前はひとりで布を切る作業をする。午後は「人在囧途-Lost on Journey-」なる人情ものコメディをみなで見る。大陸のものである。台湾人は大陸の作品もふつうに見るのだろうか。言語が(ほぼ)同じだから見るんじゃないかな、ぼくだったら見るなと思う。にしても囧なんてはじめて見たと思い調べると、大陸で使われる顔文字らしい。映画はとてもおもしろかった。
 障害者の人たちが帰ってから、彼らが手洗いや歯磨きを毎日したというチェックシートを、何日分もまとめて書く作業をする。一日につき何項目もあるが、出席の日はすべてに✓を、欠席の日はすべてに△を入れるので、ようは出席か欠席かだけでいいはずである。市役所にでも出すのだろうか。なんにせよ、おそろしく意味のない仕事である。
 金曜は同居人の障害者の人たちもおじいさんも実家に帰る。帰っても寂しいから施設に残っていたが、点検があるから早く帰るように言われる。帰ったがドイツ人はどこかに行っているのかいない。テレビを付けてこち亀を見たがあまりおもしろくない。暇だし腹が減ったからから夕食を食べに出かける。施設の中を通ると、受付の人に明日から4連休だからセキュリティのために施設に入る鍵を返すように言われ、なんじゃそりゃと思いつつしぶしぶ返す。途中、楊くんに遠くから話しかけられたが、楊くん誰かと何かしていたし、返事できずに通り過ぎる。門を出てなじみの店の前まで行ったがなぜか気が進まないので引き返す。思うに、さっき楊くんに話しかけられたのに、返事しなかったのが気にかかっている。確かに少し遠かったが、それなら歩いて楊くんのところへ行けばよかったわけで、つまらないことをしたと思った。施設の裏門はさっきまで持っていた鍵で自由に出入りできるが、表門はインターフォンで名前を言わないと入れない。名前を言って入り、何しに来たのか聞かれたので忘れ物を取りに来たと言う。さきに、楊くんを無視してしまったのが気にかかっていると述べたが、この時点ではそれはしっかりと自覚できていない。綾屋紗月さんが『発達障害当事者研究』で書いていた「意味のまとめあげがゆっくり」が自分にはとても当てはまると思うのだが、何をしたいのかがわかるのに時間がかかり、それまで思考と行動が停止することがある。ちょうどその状態だった。だから、せっかく施設に入ったのに、楊くんを尋ねることができず、ない忘れ物を取りに行き、施設を出てまた店の前に行き、やっぱ違うなと思いまた施設の前に戻ってきた。それでやっと、楊くんを夕ご飯に誘おうかと、現実的な行動を思いついた。しかし施設に入るにはまたインターフォンを押さないといけない。それは不審な感じがする。LINEをしようかと思ったが、対面で言う方がいいと思い、施設と外をわかつ壁が低くなっているところがあるので、そこをのぼって入った。その少し前にパトカーがそばを通っていったので、危なかった。ぶじ施設に入ったものの、受付を通らずに楊くんに会うための道がすでに閉じられていた。いったん落ちつくために家に帰る。家の玄関までたどり着いて、楊くんにLINEをした。しばらくこち亀を見ながら待っていると、OKの返事があり、一緒に食べに行った。実家暮らしだから家でご飯があるなら一緒に食べなくていいよと言ったが、ふだんから外で食べているらしい(台湾では普通)。「今夜はひとりでご飯を食べたくなかったんだよ。だからありがとう」みたいなことを言った。草履の鼻緒が切れたのだが(昨日切れて応急処置したがまた切れた)、直すのを手伝ってくれた。これがうまいよ、とか言って注文もしてくれる。
 ふだんぼくは実家暮らしだから、ひとりでご飯を食べることがあまりない。でもたまに旅をして、ひとりでご飯を食べるのが続くと、親しい人がご飯を作ってくれたり、あるいは誰かと一緒に食べるというのはすばらしいことだなと実感する。
 日本語パートナーズという台湾で日本語教師の助手をする仕事に応募しようと思って、推薦状がいるので施設のボスに書いてくれるよう頼んだが、ボス曰く5ヶ月以上働いた人でないと書けないと理事会の人たちが言っているからダメだということである。なんじゃそりゃと思うが、やむなしである。ボスは「日本はいいところだけど堅苦しいね」と言っていたが、この施設も堅苦しく見える。もちろん様々な事情があることは想像できるのだが。

27~28日目 12月29日(土)〜30(日)
 この日から四連休である。施設は休みで、同居人の障害者の人たちとおじいさんは実家に帰っている。のんびりシャワーを浴びて、出さないといけないメールを出し、今後の予定を考える。今夜は斗六という雲林県(台湾中南部)の町で台湾人の友人Tくんと観劇の予定である。三時前に玉井を出るバスに乗り、約一時間かけて善化に行き、そこから鉄道である。鉄道は距離80kmほどなのに急行で一時間半もかかった。台湾の鉄道は本数が少ない上に遅い。沿線人口や経済規模からしてポテンシャルがあるだけに惜しい。
 斗六駅でTくんと一年四ヶ月ぶりの再会である。彼はアメリカに留学していて、冬休みで帰っているのだ。Airbnbの宿に荷物を置いて、少し夕ご飯を食べてから、劇のシアターに行く。彼は劇のチケットをまだ買っていないという。ギリギリに着く。チケットは日本でやるように現地でメールを見せたらいいのかと思ったが、セブンイレブンで発券しないといけないらしい。発券しようとしたが、ネットで買うときに入力を間違えたのか、それともすでに劇がはじまっているためか、発券できない。シアターに戻る。ボランティアらしきおじいさんおばあさんにメールを見せると、入れ入れと言ってくれて、チケットを買っていないTくんまで入ることができた。劇を見る。台湾語の音楽劇で、日本統治時代の警察が公學校(台湾人用の小学校)の女教師と恋に落ちる話である。結婚するが(日本人と台湾人はある時期まで正式な結婚はできなかったはずだから事実婚か?)、日本の敗戦で夫は帰国せざるをえなくなり、妻が夫を追って密入国してThe Endである。台湾語はさっぱりわからないが、隣でTくんが解説してくれた。この劇のことは台湾の新聞記事をFBの台湾人の友人がシェアしたことで知ったのだった。新聞記事で催しを知って何かに行くというのははじめてだ。日本の新聞記事が紹介している催しは行きたいと思うものが全然ない。さて、この劇は大きなホールにお客さんいっぱいだった。音楽劇であるが、曲がたいへんよかった。
 翌日、つまり今日だが、知人も出るという台北の芝居を見ようかと思ったが、台北は寒いし(この二日ほど急に寒くなった)遠いし雨降りそうだし、Tくんが台南に行くというから、それに同行するために、台北行きはやめる。行啓記念館なるものが斗六の街中にあるので行く。昭和天皇が皇太子時代に訪れたのかと思って行ったが、裕仁皇太子殿下の汽車が斗六駅に一分間停まっただけで、別に斗六の町を歩いたわけではないようである。台湾は同様に、特に皇太子が歩いたわけでもないのに、台湾に来たというだけで建てた記念館がそこらじゅうにあったらしい。盛り上がりが推察される。
 その近くに日本時代の警察の宿舎が保存されていた。これも台湾のいたるところにある。日本領台湾の警察は本土の警察とは違い、地域のなんでも屋さんだったらしい。つまり治安維持以外にも、行政官のような役割も担っていたのだと思う(あんまり正確に覚えていないので調べてください)。
 Tくんと一緒に特急に乗って台南へ向かうが、ぼくは手前で降りて普通に乗りかえ、さらにバスに乗って台南郊外の国立歴史博物館へ向かう。3年ぶりである。14時に入るとちょうどアニメーション映画がやっているということで見る。台中郊外に生まれ、今はアメリカに住む女性が、身ごもって里帰りし、小学生時代のことを思い出すという話しで、現代的な内容だった。アニメーションはアメリカ風であり、中身でもアメリカが、少女時代から現在にいたるまでずっと出てきた。台湾は日本に日本統治下はもちろん戦後も大きく影響を受けている。が、同時に台湾が大きな影響を受けている国として、アメリカがある。アメリカに留学する人の割合は、日本よりもずっと多いと思う(データ調べる元気がない)。
 映画を見終わると16時で、特別展に行く。台湾での学校がテーマで、日本時代から戦後国民党の戒厳令下の学校が詳しく述べられている。日本時代の資料がたくさんあっておもしろい。そうしていると17時の閉館時間になってしまった。入るときに常設展用の100元(360円ほど)の日本語音声ガイドを買ったのだが、全くの無駄になってしまった。
 台南駅のあたりでTくんと彼の友達と一緒にご飯を食べることになっており、バスに乗る。台南駅まで50分ほどである。すると、日本人の知人のAさんから連絡があり、台南に着いたということである。Aさんとは一ヵ月くらい前までは台南に行くから会おうと連絡を取っていたが、その後こちらが連絡しても反応がないので、来ないのかと思っていたが、来られたので一緒にご飯を食べることにする。駅前でみなで待ち合わせる。Aさんは暖かいと言っていたが、ここ二日ほど台南も寒い。Tくんは寒いアメリカから来たから大丈夫らしいが、ぼくは体が冷えてきたので、鍋を食べたいと言って、我が希望より鍋になった。成功大学近くの店で食べる。四連休でみな実家に帰っているのか、学生街はむしろすいているようであった。鍋を食べて暖まり、少し古本屋に寄って、Aさんとバス停で別れ、70分かけて玉井に帰った。Tくんを暫定我が家に泊める。

29日目 12月31日(月)
 Tくんと一緒に玉井の我が家を出る。タパニー事件の記念館を見て、バスに乗り台南へ。台南第一高中でAさんと待ち合わせて、日本時代の台南知事の公邸、古本屋などに行く。途中、テレサ・テンと校園民歌のCDが売っていたので買う。どちらも玉井の夜市に売っていたもので、玉井ではそれぞれ300元だったが、ここでは200元だった。校園民歌とは1970年代、80年代に学生たちが歌ったフォークソングで、中国語で歌われている。
 その後、市の自転車を借りて古い台南の中心部へ行く。BRUTUSで有名になった國華街などである。
 今夜は玉井に帰ろうと思っていたが、Tくんが年越しを台南の友達と一緒にしないかということで、迷ったが行くことにする。Tくんは友達と夕食なので、ぼくは古本屋で高校の歴史の教科書を買い、モスバーガーで時間をつぶすことにする。台南は教科書専門の古本屋があったりして、書き込みの入った教科書を安く買うことができる。モスバーガーで豚汁を頼んでそれを読んでいると、その友人の人たちはやっぱり気心が知れた人たちと過ごしたいようで、やっぱり玉井に帰ることになった。
 玉井に帰ったが小腹が空いたので、コンビニで何か買って食べようかと思うも、前まで行ってやっぱ違うなと思い、引き返してスープがうまそうな店に入った。注文しようとすると日本語が達者な女性が来て、メニューを解説してくれた。食べていると、台北パナソニックで働いていたという、これまた日本語の達者なおじさんが来て、色々と話した。パナソニックと聞いて、ぼくは大阪出身なんですと言うと、三国の工場に研修に行ったとか教えてくれた。玉井のような人口1万4千人の田舎でも、日本語がよくできる人がたくさんいるようである。台湾おそるべし。夜は年越しのためかなかなか寝付けなかった。

第4週終わりです お疲れさまでした 次のページから2019年(民国108年)です