台湾ボランティア記 第3週

第15日目 12月18日(火)
 昨晩早く寝て、5時ごろに目が覚め、短歌を二首ほど作り、スマホこち亀の中文版を一話見て、また寝た。起きるといささか風邪っぽく、鼻水がやたらと出る。しかし気分はそんなに悪くない。昨日シャワーを浴びなくて、今朝浴びたかったが、時間がないのであきらめる。
 今日は果物農家の直営店に、施設に子どもを預けている親たちと一緒に行くことになっている。車で20分くらいのところにある。昨日まで練習していた劇とダンスの本番である。ふつうに楽しく終わった。ぼくとドイツ人は、つまりボランティアふたりは、花束と感謝状をもらった。風邪もひとまず治ったようである。
 夕方、封筒と便箋を買いに文具店に行った帰り道で、施設を辞めると言っていた同い年くらいの男性の職員と、ばったり出くわした。ちょうど辞めたところだという。台南でプロブレムがあって、他の場所で新しい人生をはじめるんだと言っていた。連絡先を交換できてよかった。
 この施設には一ヵ月お世話になりたいと伝えていたが、これはぼくとしてはだいたい一ヵ月という意味であった。やはり着いてからでないと、どのくらいいたいかわからない。先日、1月に新たに障害者の人をいまぼくの住む場所に住まわせるから、終わりの日程を教えてと聞かれ、長くて12日までいていいですか?と伝えたのだが、新しく住まわせる準備をしないといけないからと、ちょうど一ヵ月で帰ることになってしまった。つまり5日までである。ほんとは12日までいたかった。
 台湾は他に、いまの新北市にある日本時代のハンセン病療養所が、障害がある子どもの施設になっていて、そこもボランティアを募集しているので、来年あたり滞在しようと思っている。玉井のこの施設もいいところだったから、遊びに来たいものだ。なんにせよ、人を住まわせるというのはたいへんなことだ。この一ヵ月だけでも部屋をあけてくれたことはありがたい。

【裏】 第15日目 12月18日(火)
 ツイッターの裏垢や学校の裏サイトなど、ネットには裏の世界があるものだが、わたしも裏日記をFBで書くことになるとは思わなかった。それもこれも、母親が我がFBを見ているからである。生存確認のためにFBを見れる設定にせよと言われており、それでも見せたくないものは非公開にしているが、毎日日記を書いているわけでいきなり第15日目だけ飛ぶのは不自然である。であるから、このような措置を取るのやむなきに至ったのである。以下は我が母と、施設の人(彼らは日本語は読めないが翻訳機能を使われると困るので)に非公開で書く。
 台東旅行で施設の同い年くらいの女性職員が話しかけてくれて、ふつうに一瞬で好きになったと書いた。その人とは部署が違ってふだん話す機会がないのだが、今日は果物農家に出かけるということで久しぶりに会うことができた。それで、やっぱこの人かわええな〜と思ったのだった。
 なので明日は仕事終わってからもなんとなく職場に残って、話すきっかけを探すぞ!
 この施設を離れるまであと2週間と少ししかない。職場体験をするには1ヶ月は充分だが、女性と仲良くなることを望む可能性を考えていなかった(当然か)。時間あるときどこかいいところ連れて行ってくださいとか頼むかな。
 これまでは慣れるのに精一杯で、女性のこと考えるひまがなかったが、やはり心惹かれる女性がいるということは、いま生きる上での最重要事項といって差し支えない。
 非モテ研の仲間に相談したところ、的確なアドバイスをいただいた。頼りになる仲間がいてすばらしい。
 恋路は秘すべきものだが、このFBに書いてもいまお世話になっている台湾の人たちにバレる心配はないから、例外的に書くことにする。

第16日目 12月19日(水)
 朝昼といつも通り。夕方にとつぜん、クリスマスの出し物で使うからとダンボールで琵琶を作るように言われる。台湾でも人気な沖縄の音楽、「涙そうそう」を流すらしい。その製作に時間がかかる。
 夜市に行った。キリスト教の人たちがメリークリスマスと言って町を歩いていた。
 夜市に行くために鍵をしめるとき、おじいさんが「window offにして」と言っていた。これを翻訳すると、「窓を閉めて」の意味である。中国語では電気を開ける、または閉める(開、關)というのだが、そのため窓の開け閉めにもon offを使ったものと思われる。これと同じ間違いを、台湾人のお母さんがすると溫又柔(『台湾生まれ 日本語育ち』など)が書いていた。「電気を開けてね」とか言うらしい。
 昨日の夜、台湾に語学留学していたという日本人のブログを見つけて読んだ。そういうものは本当にたくさんあるが、台湾に残りたいと望んでも、ほとんどの人が仕事が見つからないということで帰国している。昨夜読んだ人は中国語はかなりのレベルに達したみたいだったが、それでも帰国してしまっている。外国で働くというのはなかなか難しいことだ。しかしぼくがいましているような形で、団体や何やらのお世話になることなら、そう難しくはないと思われる。第一歩目にはいいのではないかと思う。

【裏】 第16日目 12月19日(水)
 裏こそメインの台湾日誌である。恋愛という最重要事項について記す。
昨日書いた、心惹かれる人の名前を日本語読みすると、リョウタツである。ひとりで考えるときはリョウタツと呼んでいる。これなら皆がいるときに独りごとでも言えて便利である。
 朝から今日はリョウタツに会って話そうと思っていたのだが、いつもの仕事が終わってから、クリスマスの出し物のためにダンボールで琵琶を作るよう言いつけられてしまい、それをやっていると遅い時間になり、少し施設内を探したが、リョウタツはすでに帰ってしまったのか、それとも今日は休みの日だったか、どこにもいなかった。今日はリョウタツに会うのを楽しみに生きていたようなものだったのに!明日こそは話せたらいいのだが…もっとも、話したところでどうなるかなどわからないのだが…悩ましいことだ…
ところで今晩、テレビでクレヨンしんちゃんの中文版を皆で見たが、高校生のしんのすけがボクシングを闘って同級生のななこ(普段は大学生だがこの時は同い年の設定)に認めてもらう話しだった。ぼくはこういうの実は好きだ。それでどれだけお金を稼ぐかにかかわらず、いい仕事や活動をしたい。いい仕事をしていたら人間関係は後からついてくる。ここ数年がそうだった。前までは全然友達いなかったのだが(高校のころの友達を除いたら1人とかだった)、特に友達を作ろうと思ったわけではなく、興味のあることをしていたら、気がついたらたくさん友達ができていた。恋人がいないとかで悩んでいないのも、これだけ友達いたらそのうち恋人的な人もできるだろうと思ってのことだ。逆に友達いないときは、恋人という一対一の関係を強く求めて、得られず苦しんでいた。友達の定義は難しいが、自分にとって大切なことを話せる相手のことかな。
 さて、まったくアホらしい、というかこれを言うと読んだ人から「恋愛相手に属性を求めるな」と怒られそうで怖いのだが、台湾人の女性と結婚できたら楽しそうだと思っている。理由は、ひとつには台湾社会を知るのに、最も効果的な方法だと思うからだ。それに、もし子どもができたら、その子は日本・台湾の両方の文化を受け継ぐわけで、そして生まれながらのマイノリティなわけで、色々悩んでくれそうだ。我が子には、日本・台湾・中国の教養をしっかり仕込みたいと思ってしまうのだが、まさに抑圧的な親だな。子育てって自分との向き合いでもありたいへんそうだ。知らんけど。(まだ先…というか実現するかどうかも不明なことだから無責任)

第17日目 12月20日(木)
 今朝はまた遅刻してしまった。ほんとはみなが集まる8時に着きたかったのに、仕事開始の8時半に着いた。スタッフの人には8時半でいいと言われているのだが…いつも寝るのが遅いのがよくない。しかし台湾日誌を書くのに時間がかかるからな。そして朝は気功の湯あてをするのに時間を取られる。
 今日は気温も高くて気分がよかった。朝の体操の後は、布を切った。昼の休憩時間に庭で本を読んでいると、小楊(楊くん)というかわいい男がやってきて、仕事疲れた〜とか言って少し話した。楊くんめっちゃフレンドリーな人で、みんなからかわいがられている。楊くんが「智大はこうやって外国でボランティアとかできてうらやましい」と言うので、「君は仕事をしないといけないから他の場所に行ったりできない?」と聞くと、「お金ためないと」と言っていた。ぼくは祖父母やパトロンの金を使っているのですまないような気持ちになる。楊くん、廈門に友達がいると言っていた。台湾と廈門はやっぱり交流が盛んなのだろうか。
 さて、17日間もいると中のことがなんとなく見えてくるわけであるが、楽しそうに働いている人と、つらそうに働いている人と、その間の人がいる。障害者の人たちはもっぱら楽しそうにしている。みなが楽しく暮らせたらいいのだが、この地球には色々なことがあるから、そういうわけにもいかない。(『この世界の片隅に』でもすずさんが「みなが笑って暮らせりゃええのにね」と言っていた)
 少し不思議なのは、障害者施設なのに、事務員が多すぎるのではと思えることだ。実際に障害者と関わったり、裁縫や手芸や料理の仕事を障害者と一緒にしている人と、事務員とが、同じくらいの数いるようである。ぼくは障害者の人たちといつも一緒にいるが、スタッフが足りていないように感じる。事務みたいな作業は効率化してできるだけ小さくできたらいいのにと思う。ITの発展に期待をかけよう。
 午後はまた気功をやらせてもらった。その後、ボール遊びをしたのだが、障害があるたぶん同い年くらいの女性と、いいやり取りができた。ぼくは執事みたいに、その子に合わせて球を投げ、あらぬ方向へ行った球を取って…とした。楽しかった。
 昨日言いつけられたダンボールの琵琶も完成させた。琵琶はふたつ作るように言われたけど、ひとつで力つきた。
 その後、キリストの幕屋という日本の新宗教台北支部にあてた手紙を書く。幕屋が台湾に進出していて、訪れてみるつもりである。幕屋はネットではヤバい噂しか見ないが、ぼくがそのクリスチャン性を最も尊敬している友人が幕屋の一員だから、信頼しているのだ。しかし、前に大阪の幕屋の集会に行ってみたが、大声をあげて「天のお父さま!」とか叫ぶとともに、ぼくにもそれを求めるのには閉口した。
 台湾の仏教を調べてみたが、’60年代後半〜’00年代前半にできた新しい組織4つで、人口の半分をしめると中国語のwikiに書いてある。半分とはあまりに多すぎではないだろうか。wikiなのでいまいち信用できない。でも台湾仏教が元気なのはきっと本当だろう。ひとまず、帰りにそのひとつ、花蓮の本山には寄ってみようと思う。関西にもそれぞれ支部があるようなので、行ってみよう。

【裏】 第17日目 12月20日(木)
 恒例の裏日誌である。裏というと暗い感じがするが、要は母ちゃんに見せないということであるから、【母ちゃん以外】とかしてもいいような気がするが、それはそれでなんとなく格好がつかない。
 リョウタツ(昨日読んでない人のために注釈:リョウタツは同い年くらいの女性)に会えるかなと今日も楽しみにしていた。リョウタツは子どもとかかわる部署だと言っていたから、昼にそれとなく、子どもたちがいるところをのぞいたりしたのだが、いなかった。
 明日、クリスマス会があって、ひとりふたつプレゼントを持ってくることになっている。ひとつはクジで決まった人に渡すのだが、もうひとつは自由に好きな人に渡すことができる。ぼくのプレゼントの手持ちは、日本から持ってきた京都銘菓の千寿せんべいと、台南の古書店で買ったが日本語の翻訳だからいらない、トトロと魔女の宅急便のイラスト付き解説である。クジではたまたま楊くんという親しくしている人に当たった。そして、自由に渡す相手はリョウタツにしたいと思うのだが、リョウタツは若くて美人でモテモテだろうから、ライバルが多そうでちょっと気が引ける。楊くんには千寿せんべいを渡して、リョウタツにはトトロと魔女の宅急便の本を渡すかなと考えていた。しかし、リョウタツジブリに特に興味がなかったら、興味がある人に渡した方がいいので、どうなのか聞きたいと思っていた。
 一日のプログラムが終わって時々、リョウタツいないかなと探していたのだが、やっと3階で明日のクリスマス会の準備を手伝っているのを見つける。親しくしてくれる30歳くらいのお兄さんもいたので、その人にHiと挨拶して(台湾人はHiとかHelloとかBye-byeと挨拶する)、自然な感じで作業に加わる。リョウタツにもHiと声をかけ、中国語の名前を呼ぶ。
 話しかけるタイミングをうかがっていたが、どうもなさそうだと、手紙を書いていた部屋にいったん戻ろうと階段を降りたところで、リョウタツも何かものを取りに来て、すれ違いざまに「智大は明日のクリスマス会に出る?」と聞いてくれた。ぼくは話しかけてもらってばっかりだな。それはさておき、そうだと答え、この機を逃すまいと、事前に用意していた紙を見せて(こういうのって外国語だし吃音的にもやむを得ないのだけれど、準備してるのがバレるのが難点だ)、「トトロや魔女の宅急便は好き?」と聞く。「そうね、うん、好きだけど…台湾人はみんな好きよ。わたしは…猫的○○(聞き取れない)が一番好きかな」と答えるので、少し考えて「猫の恩返し?」と日本語で聞くと、そうだということである。なかなかしぶい。なんにせよ、ジブリは台湾人にとって基礎教養らしく、リョウタツもおさえているようだったので、本はリョウタツに渡すことにする。
 「君も明日の会は出る?」と、会話を長くするためにわかりきったアホみたいな質問(しばしば逆効果になるあれだ)をし、いらんことを言ったと後悔したが、リョウタツは「明日はわたし司会するのよ。緊張するわ(笑)」とうまいことつないでくれたので、「この間、果物農家でも司会してたけど、よかったよ」と、褒める機会をいただいた。ありがたい。リョウタツは「それじゃ、これちょっと持って行くから」と言って去っていった。
 リョウタツの話し方が、昭和後期くらいに消滅した「女ことば」なのは、翻訳だから仕方がないと思ってください。そして、いちいち全部会話を全部覚えていることも気持ち悪いと思わないでください。ぼくは小学生のときに好きだった人とのやり取りや会話、いまでもいくつか覚えているからな…

19〜20日目 12月21日(金)〜22日(土)
 昨日(19日目)は夜はクリスマスパーティーで、帰ったら風邪っぽくてすぐ寝たので、日記が書けなかった。これまで毎日書いていたのに…。そして、一日たつとかなり忘れてしまっている。クリスマスパーティーでは楊くんという親しくしている同い年くらいの人がいいものをくれた。
 風邪のためか今朝はずっと寝ていて、起きたら8時半だった。8時半といえば本来着いていないといけない時間である。いまの家から施設までは徒歩2分だが。昨日シャワーも浴びていないが、それでもゆっくり朝ごはんを食べて、9時半に行ったが、特段怒られなかった。水木しげるは小学校を毎朝遅刻したが、必ずゆっくり朝ごはんを食べていたらしいことを思いだした。
裁縫の仕事をして、よく寝たから昼寝はせず庭で『風立ちぬ』の中文版の続きを読み、午後はみなで歌を歌った。歌はyoutubeをプロジェクターで映し、音はスピーカーを鳴らし、カラオケである。いくつかいい歌を知れたのでよかった。ぼくはなんとなく気が向いたので『ラバウル小唄』という軍歌を歌った。軍歌はヤバいかなと思ったが、みな「好聽好聽(いい曲だね)」と言ってくれたからよかった。これはFBに書くと怒られそうだな。
 夜は教会でクリスマス会があって、行きたいのだが体調がいまいちだからやめる。家で19歳のドイツ人の同居人と一緒に残り物を調理する。彼とは英語で話す。彼はこれを食べたら、台南のヨーロッパ人が集まるパブに行くという。一緒に食べながら色々と話しができてよかった。ドイツ政府は海外のボランティアにお金を出すらしく、彼ももらっているようだ。「ドイツは金持ちの国だなぁ」と言うと、「うん、こんな国は世界でもドイツだけだと思う。だからドイツ人はみな海外へ行く。台南で出会った欧米人たちも、8人がドイツ人で、他の国の人は2人か3人だけだ」とかいうことである。大学に行くのかと聞くと、行かないという。少しアルバイトをして、お金が尽きるまで南米を旅行するんだということである。「ドイツの本は一冊だけ読んだことがある。『帰ってきたヒトラー』は日本でもポピュラーで読んだよ」と言うと、微妙な反応であった。グリム童話とかもドイツだよと彼が言い、あーそれ知ってる、などと話す。ミヒャエル・エンデの『モモ』も挙げたが、あまり反応がなかった。そして驚いたことに、将棋を指すという。中国式ではなく日本式の将棋だ。なんと今回も将棋の駒を持ってきているらしい。ドイツで指しているのが300人くらいだから、ヨーロッパ大会に出たよと話していた。明日指すことになった。楽しみである。彼もなかなか変わった男である。
 客家のテレビでドラえもんの映画「のび太と翼の勇者たち」がやっていたので見たが、客家語であった。字幕がついているので内容は理解できる。CMで客家語運動30年ということがたびたび出てくる。客家語スピーカーは、抑圧されていた民主化以前よりも少ないだろう。台湾語ですら廃れていく中、客家語を残すというのはたいへんなことだ。しかし、テレビのキーの電波をひとつ持つくらいなのだから、たいしたものだ。

【裏】 19〜20日目 12月21日(金)〜22日(土)
 クリスマスパーティーでリョウタツにトトロと魔女の宅急便の本を渡そうと思ったが、プレゼント交換の仕組みを勘違いしており、自由に好きな人に渡すことはできなかった。しかし幸運にも、親しくしている同い年くらいの楊くんが交換相手のひとりだったので、彼にトトロと魔女の宅急便の本を渡した。我々は偶然、お互いがプレゼント交換の相手だと事前に知っていた。彼は、ドラえもんの筆箱をくれたが、これは小さい時から行っていたがもうつぶれてしまった文具店で、彼の誕生日に買ったものだという。とても思い入れのあるものをもらってしまった。大切に使うことにする。
 ちなみにもうひとつのプレゼント、千寿せんべいは、同じチーム(成人障害者の係)の人に渡すことになった。また、ある人から来年の手帳をもらった。
 リョウタツに渡せなかったのは残念だが、楊くんと交換できたのは幸運だった。楊くんは『耳を澄ませば』が一番好きらしい。リョウタツは『猫の恩返し』が一番好きである。日本に帰ったら、何かグッズを見つけて送ろうかな。
 今朝はリョウタツとすれ違ったが、出会い頭に「バイバイ」と微笑んで去って行った。どうやら今日は仕事はない日だったらしい。リョウタツにどこかに出かけようと誘いたいが、月曜日に機会を見つけよう。
 今日、誘ってみるつもりだったのに機会を失ったので、ずっと意気消沈していた。ひとりごとでリョウタツに会いたいな〜などと何度もつぶやく。
昼休みにジブリ風立ちぬ』の本を読んでいると、恋愛とはなんとはかないものか…と感じいった。二郎はもともと、菜穗子の侍女であったお絹に惹かれていたのだった。菜穗子にはじめて会ったときは子どもとしか思っていなかっただろう。しかし、お絹とは縁なく、菜穗子とは奇跡的に再会をしたのだった。二郎は菜穗子に、ひと目会ったときから好きでしたと言うのだが、そう思い込んでいるだけであって、事実ではないだろう。
 わたしも、恋をしうる女性はあまたいるはずであり、どの人と結ばれるかは全くの運であり、縁であろう。この人でないといけなかった、ということが本当にあるとは思えないが、運命によって選び取っていくまでである。
この人が好きだと思ったけど、会うことができなくて縁が切れていったという話しはいくらでも聞く。同い年くらいの友人たちなど、そんなことばかりしている。リョウタツが美しいと思っても、はかないものである。どうせ後2週間でここを離れるのであり、大阪に帰ったらいまの気持ちなんて忘れてしまいそうで怖い。気が移るだろうとわかっていながらも、しかしいま気をひかれる女性がいるのだったら、できることはするべきかとも思うし、下手に何かするのは無責任なことかもしれない、とも思う。
 そして、わたしは無力である。特に台湾社会においては無力の極みである。いまも施設の人の好意で生きている。熊谷晋一郎という小児マヒの医師で当事者研究をしている人が、「自立とは依存先を増やすこと」と言っていたが、こと台湾社会においては、わたしの依存できる先はごく少ししかない。日本だと障害者手帳があったり、実家があったり、ネイティブの日本語圏があったりで、仕事に就くのもそう難しくはないし、いざとなっても助けてもらえるが、台湾ではいまのわたしは就労ビザさえ手に入らないし、そもそも3ヶ月たつとビザなし滞在が切れるから出て行かないといけない。このような状態で、台湾人の女性を魅力的だと思ったところで、ほとんど遊びとしかいえない。遊びは遊びでいいと思うが、それより選びようがないのは悲しいことである。
 遊びの恋愛はそれはそれでいい。そこから学べることも多くある。しかし、いつかこの人と家庭を築きたいと思う人と出会う日が来ることと思うし、その日のために準備をしておきたい。やはり、もっと自立しなくてはいけない。熊谷さんの言葉を借りると、依存先を増やすことだ。帰国したらすぐ、障害年金の手続きを進めるつもりである。信頼できる社労士さんをやっと見つけることができた。いまは祖父母とパトロンのお金にしか経済的には頼っていないが、障害年金が手に入ればかなり大きな支えになる。さらには、お金を稼ぐという意味での仕事も、もっと心を入れてできるものを見つけたい。いままでのバイトは、わたしにとっては特に大切なものではなかった。そこからの学びは少なく、お金のためのみでしていたからか、やる気にならなかった。
 「自立とは依存先を増やすこと」と言うが、わたしは日本の国だけに頼るのも嫌なのだ。国がおかしくなって、国と共倒れなんてことは嫌だ。日本以外の選択肢を持ちたい。
 台湾には今後も関わりたいと思うのだ。日本にしか居場所がない状態を考えると、いくらか息がつまる思いがする。しかし、台湾の就労ビザは取るのが(わたしにとっては)おそろしく難しそうである。台湾人と結婚すると自動的に就労ビザがもらえるのだが、そのために結婚するなんてズルのような気もするし、制度なんだからうまく使えばいいじゃないかというような気もする。
 今日のこの文章はあまり考えられていない。普段ならもっと考えてから出すのだが、日記という毎日更新するものの性格上、あまり考えずに出すことにする。それにしても考えがまとまっていない感がある。今日書いたようなことは、台湾に対して真剣に思っている人が書くべきで、自分にその覚悟がありやという疑問もある。
 最後に、ドイツ人の同居人とリョウタツが英語でよく話しているので、今晩彼と一緒にご飯を食べながら、リョウタツのことは好き?(Do you like…)と聞いてみた。しかしリョウタツの中国語読みが通じず、「20代前半の女性で英語を話す…」と言うと、「あー、彼女はいい英語を話すね、この施設で…唯一の英語が話せる人だ(笑)」ということであった。ぼくはこのドイツ人とリョウタツがよく話していることにいささか嫉妬しているのだ。それで、彼がリョウタツをどう思っているか知りたかったのだが、それは聞けなかった。まあその方がよかったのかもしれない。
 そして、楊くんやドイツ人の同居人やら、よい出会いがありながら、美しい女性のことばかり考えているわたしは何なのか。これはしかし生命的反応であって、無理に抗う必要もなしだが、抗うのもまた人間の知性的生理だとも思う。
 追記:途中らへんやっぱ消したいな 明日になったら短くなってるかもです 今日は疲れて編集する元気もなし

12月23日(日) 二度目の台南旅行
 今日は10時から台南の街中の映画館で、国立台湾歴史博物館主催の上映会があるというので、見に行った。日本統治時代の映像を流す。FBの台南日台交流会に玉井に住みますと投稿したのだが、それで連絡をくれた許さんという日本語のよくできる人も観に行くということで、ギリギリになりそうだったので整理券をぼくの分も取ってもらい、見ることができた。内容はよくある記録映画に思えたが、わりと大きな映画館が満員になっていて、人々の関心の高さがうかがい知れた。
 その後、お昼を一緒に食べていたら、日本語のよくできる乞食の人がお金くださいと言ってきたので、15元(50円ほど)だけ差し上げた。乞食の人を見ると前は嫌悪感を覚えたものだが、大学を卒業してニートなどをしているとどうしても親近感がわく。そういえば人間立て看の人もゴザにお椀という乞食スタイルをされていた。最近は見かけたら気持ちだけお金を差し上げている。
 次に古本屋に行き、1990年代の小学校の国語の教科書を手に入れた。この時代までは「挿絵」という言葉が似つかわしい絵がところどころに入った、シンプルなデザインなのだが、2000年代に入ると「イラスト」と写真ばかりでごちゃごちゃしており、全然美しくない。中国語の勉強をするのに、国語の教科書を使いたいのだが、いまの時代のは手に入りやすいものの美しくないから買いたくない。苦労して古い教科書を探すことにする。今日一日目の書店で手に入ったのは幸運だった。
 施設の同い年くらいの親切な青年、楊くんが「集市」なるものに連れて行ってくれるというので、書店まで迎えに来てもらう。集市は路上販売のイベントみたいだった。特に興味がないので、ふーんと見て回る。彼はけっこう興味あるらしい。ひととおり見た後、どこか行きたいところある?と聞かれ、古本屋行っていい?と聞くとすんなりOKしてもらう。この一ヵ月くらい、台南は廟のお祭りらしく、特に今日は街中を仮装した人たちや竜や太鼓や爆竹やらがバンバンドカドカやりながらわーわー歩いていて、バイクの後ろに乗りながら非常におもしろく見た。
 古書店をふたつ行った後、楊くんおなじみのカトリックの教会へ行く。フランス人の神父さんと韓国人の修道士がいた。フランス人が中国語を話していてすごいと思った。夕食においしいおでんを食べた。
 帰りのバスで、暗くて本は読めないがフリーWi-Fiもあることだし、何か動画を見ようと思ってYouTubeを開いていると、「あなたへのオススメ」で「はいふりハイスクール・フリート)」なるアニメが出てきた。女子高生が先の大戦時の海軍の船に乗ってドンパチやる感じの話、つまりガルパンの海軍版らしいが、見るとこれがおもしろい。いいものに出会えてよかった。
帰ったら夜10時で、ドイツ人との将棋の約束は果たせなかった。謝って、明日指そうと言った。

第3週終わりです お疲れさまでした 次のページに続きます

台湾ボランティア記 第2週

台南郊外の知的障害者施設滞在の日記 続きです

第八天 12/11(火)
 昨夜遅くまで起きたため寝不足だった。朝、施設に行くと庭を掃除している人たちがいた。同じ家の他の住人たちが出るのを待って出たが、早く出て掃除をした方がいいかなと思った。工作をして、昼ご飯を食べて、昼寝する。昼寝ができて助かった。施設の職員が利用者の障害者に水を飲まそうとしているのを見る。ぼくに、水をちゃんと全部飲むか見ておいてと言うくらいだから、悪気がない。その職員は決して悪い人ではなく、ぼくにもよく気を遣ってくれる人だ。だからショックを受ける。絵を描いたりして終わる。
朝8時半から15時半までのプログラムだが、正直結構つまらない。朝の掃除や、売るための手芸・工作なんかはやる気が出るが、特に障害者には向いていないように思えるストレッチをしたり、視聴覚室みたいな大きな部屋を運動のためにひたすらぐるぐる歩き続けるのに至っては、もっとやり方があるだろう、と思う。体を使うことは確かに必要だと思うが、それなら楽しいことをすればいいじゃないかと思うのだ。せっかくブランコとかボールとか遊具があるのに、ずっと同じ場所を歩くのはどういうわけなのだろう。苦しいことをするのが訓練と思っているのだろうか。というわけで昨日提案した気功は、明日できることになった。昨日は20分でと言われたのに、今日は10分でと言われたが、まあいいかと思う。
 むかし小学校の先生が、「人間は苦しいこともせなあかんもんや、遊んだら、つらいけど勉強も頑張らな」みたいなことを言っていたが、そんなの嘘なのだ。つらいと思ってすることなんて、身にならない。楽しくする方法を考える方がよほど有意義だ。
 その後、施設の障害者3人と、世話をしてくれるおじいさんと、19歳のドイツ人とぼくとで住んでいる家に帰る。ここが、とても心地いい。障害者のうちのひとりが、親しく話しかけてくれる。ただ、彼は文字が書けなくて、ぼくは文字は読み書きできるが聞き取れないという、コミュニケーションにおいて一番相性が悪い状態で、自分の中国語の勉強不足を嘆く。障害者を相手にする仕事をしていた友人が、「障害者の声って聞き取りにくいから、その施設の人が話す言語に精通しているのは大事なんですよ」と言っていたが、その通りだ。彼はそれでも話しかけてくれる。音を聞いてネットで検索をかけ、画像を見せて確かめるという方法でコミュニケーションをする。おじいさんは我々を孫を見るような目で見てくれる。彼らと一緒にテレビを見るのが大事な時間になっている。今日はアニメのこち亀ドラえもん、「フズリナの記憶」なる日本人も出てくるドラマを見た。仲間とひとつのものを見るのはいいものだ。それに映像作品は中国語の勉強にいい。日本に帰ったら、もっと映像中心に中国語を勉強しようかと思う。

第9日 12/12(水)
 曇っていたため寝覚めは悪かった。しかし早めに行って朝に庭を掃いている人にまざって掃除しようとしたが、あまり歓迎されない様子だった。まあ人の仕事を奪うことになるからな。明日からはいつも通りの時間に行くことにする。
 プログラムはやはり退屈だが、少し気功をやらせてもらうことができた。昨日書いた、水をやたらと飲ませる先生も、気持ちいいと言ってくれた。もうすぐクリスマスということで、その出し物の劇の練習をする。水を飲ませる先生はキーボードだが、叩きつけるようにJoy to the World(諸人こぞりて)を弾くので、聞くのが苦痛である。この先生はやっぱり体の感覚が鈍すぎる。小学校の女の先生にこういうタイプの人が多い。小学校の先生、よく「なよなよするな」って言うけど、人間はなよなよしてなんぼだ。叩きつけずに、やわらかく弾いてほしい。
 終わってから、親しく話しかけてくれた同い年くらいの男の先生が、今週いっぱいで辞めるから、何か施設について思うことがあったら遠慮なく聞いてほしいと言われる。言語や文化の違いがあるのでずいぶん困りながら、「体の感覚をもっと尊重できないか」などと言ってみる。しかし、「体の感覚といっても、彼らがお菓子を食べたいと言ってほしいままに与えるのは違うでしょう」と答えられる。まさにその通りである。中国語や英語もそうだが、障害者教育や、身体への知識が少なすぎて、語る言葉を持たないなということを実感する。
 家に帰ってから、1時間半くらいかけて部屋の掃除をする。もともと見える部分はきれいだったが、ベットの下が2年くらい掃除されてなさそうだった。他にタンスの上などを拭く。ホコリアレルギーなので気になるのだ。
夕飯を食べ終えてから、週に一度の夜市にはじめて行く。人口1万4千人の町なのだが、とても賑やかである。CDがいっぱい売っていたから、帰る前に買おうと思う。台湾は田舎町でも賑やかで、食べるところもたくさんあったりする。

第10日 12/13(木)
 朝起きたらだるくて風邪っぽく、休んで一日寝ていた。仕事なら無理してでも行ったが、ぼくがいなくて迷惑がかかるわけではないのだ。
 気功の先生は風邪のときは目を休ませるように言っていた。だからスマホを見るのはよくないのだが退屈なので、ドラえもんクレヨンしんちゃんの中国語版を見たり、聖書を除いて日本から持ってきた唯一の本である『思春期をめぐる冒険 心理療法村上春樹の世界』を読んでいた。
 お世話になっているおじいさんが、昼ご飯も作ってくれた。
 この家はとても居心地がいい。施設の人たちもひとりひとりはいい人だ。ただ、施設全体をおおっている雰囲気は、学校みたいであまり好きになれない。
 ぼくがなぜのらりくらりと就職をしないでいるかというと、組織の雰囲気に染まるのが嫌だということがある。先日書いた水を無理に飲ますことも、順調に新卒で就職して気功など習わずにいたら、変に思わなかったかもしれない。あるいはこの施設で勤めると決めたら、自分が適応するために、これは必要なことなんだと自分を納得させるかもしれない。抑圧的な中高に通っていたが、そこで不登校になった人のことは、先生やクラスメイトと同様にぼくも軽蔑していた。集団の中にずっといると、どうしてもそこをおおっている空気に染まることになる。すると、世界に対してひどいことでも、してしまえるようになる。水俣湾に水銀を流していた企業の人も、薬害エイズを引き起こした会社の人も、吉田寮自治を壊そうとする京大職員も、ひとりひとり属する組織について何らかの違和感を持ちつつも、しかし賃金という生命線を握られている中、思考停止したのだと思う。そうはなりたくないのだ。もっとも、何かの組織のようなものと深く関わる機会はいつかまた出てくるだろう。しかしそれは、もっと「個」を確立してからにしたいのだ。そうすれば、自分だけは踏みとどまってものを考えられると思うのである。と書いてみたものの違和感が出てきた。個の確立はたぶん幻想だ。それよりも信頼できる人やコミュニティとの多様な関係を築くほうがいい。それによって信頼できる「個」が一時的に成り立つ。それを絶え間なく続けるべきか。
 施設には1ヶ月お世話になると伝えていた。もし居心地がよかったら1ヶ月半いようと思ったが、やはり1ヶ月で終えることにする。その後は台湾を半周しながら、余力があれば離島や大陸にも寄って、帰ることにする。

第11日 12月14日(金)
 夜11時に寝て、目覚ましが鳴る3分前の6:57に起きた。昨日は一日寝ていて、シャワーも浴びていないので、朝ごはんを食べてから浴びる。目や肩の湯あてもする。そんなことをしていると40分遅刻して8:40に行くことになった。
 行くと、台南市知的障害者自己啓発なんとかの集会をするとかで、それが9時半ごろからはじまった。障害者のためというよりは、職員のためのような会に思える。スタッフは相変わらず障害者の人たちに、前を向いて座れとか言っている。アホらし…と思いながら、スマホをさわったり、図書館で借りたジブリ映画『風立ちぬ』の子ども向けの本を読んだり、隣の席の障害者の人としゃべったりして過ごす。
 昼食の後、タオルや靴下の袋詰めをする。障害者の人たちが3時半に帰った後も、少し手伝いをする。おととい、今週で辞めると言っていた人に連絡先を聞こうと会いに行くと、人手が足りないから今月いっぱいはいることになったと言われる。今日の会はどうだったかと聞かれ、どう答えたものか迷いつつ、障害者の人ではなく職員のための会だったと言ったものの、その意は伝わらず、これは障害者の人のための会だとマジレスされる。中国語と英語が下手すぎて議論にならないので、話しを聞いているだけである。
 金曜のプログラムが終わると障害者の人は実家に帰る。世話をしてくれているおじいさんも家に帰る。ドイツ人は台南に派遣先の研修に行っている。というわけで今夜はひとりである。しかし、施設のボスが、友達が来てるから一緒にご飯食べに行こうと言って、車で山の上のレストランに連れて行ってくれた。梅の鍋を食べる。うまかった。
 昨日、休息が取れてよかった。4日に台湾に来たが、それから一日も休みなしだった。台東旅行は楽しかったがハードだった。そもそも台湾に来る直前も大阪でかなり忙しくしていたのだった。明日と明後日は自由である。明日は台南に、明後日は玉井の教会などに行くかと考え中。
 図書館で借りたトトロ(龍貓)をパソコンで見る。映像で勉強するのは効果的だと実感する。

第12日目 12/15(土) 台南旅行
 まずは昨夜金曜日の夜の続きから。ドイツ人は台南で研修、みんなは家に帰っていて一人の夜だったが、ボスが食事に連れて行ってくれた。しかし帰ったら一人である。ぼくは部屋でひとりで寝るのもいつも怖いのだが、建物にひとりとなるともっと怖い。だからぜんぜん寝つけなかった。トトロの中国語版を最後まで見て、心を安心させて、やっと眠ることができた。たぶん午前3時くらいである。
 朝は8時に目覚ましをかけていたが、寝るのが遅かったので、8:45までスマホなどさわりながらだらだらする。しかし、おとといはたくさん寝たためか、意外と大丈夫そうだと思い、支度をする。台南に行くつもりだが、プールに入るべきかどうか迷う。家に湯船はないが、私はお湯に浸かるのが日課なので、少し物足りない。そこで、プールに併設しているお風呂に入ろうという考えである。ちなみに住んでいる玉井には体育館はあってもプールはない。一応バスタオルや水着を持って行く。そんなこんなしていると、10時に家を出ることになった。冷蔵庫にあったりんごをかじりながら歩く。歩いて10分ほどでバスターミナルに着く。そこでバスに乗り、70分である。玉井は人口1万4千人しかいないのに、15分に一本という高頻度で出ている。眠くなって寝ていたら、12時ちょうどくらいに台南駅に着いた。料金は350円くらいである。
 台南に来た一番の目的は本を手に入れることである。玉井には本屋がないのだ。さっそく駅前の金色堂書店に入ると、『台湾歴史地図』という地図を参照しながら台湾史を知れる本を見つける。でも重くなるから今は買わない。最近できた王育徳記念館に行く。王育徳という台湾人は、東京帝大に入ったあと台湾に戻るも、敗戦に続く2.28事件で兄が殺されたりえらいこっちゃということで日本に亡命して、台湾独立運動台湾語研究に活躍した人である。
 王育徳記念館前の公園で、着物を着た人たちが何やらイベントをしており、横で話しを聞いていると、茶道を紹介するために京都から来たそうである。その中の女子学生っぽい人と話したいと思うも、タイミングがつかめずあきらめる。人に話しかけるのってむずい。
 ひとつ書店に行くも収穫なし。次に林百貨に行く。前に行ったときは、屋上に戦前の林百貨の前に立つ少女を描いた萌え絵で彩られた、世間の奇異な目を浴びるという意味で実用性がなさそうな水筒が売っていて、ぼくのロマンティシズムにぴったしはまったのだが、その時は売り切れで買えなかった。それで今回行ってみたが、そもそも売られてすらいなかった。販売は終わったのだろうか。「つながれる人とはつながれるうちにつながっとかないとね」と当事者研究の仲間が言っていたが、その通りである。
 林百貨の隣の慰安婦像を見る。ここに建っているのは、林百貨と土地銀行という日本時代の建物が残るエリアだからだろうか。前に日本人がこれを蹴って、地方選挙で民進党が少し不利になったのではとかいう文章を読んだ気がするが、本当だろうか。
 やはりさっきの茶道の日本人と話したいと思い、また王育徳記念館の前に行く。ご飯をただで振る舞っているので、食べる。茶道の実演を見て、しかし話しかけるの無理やなと思っていると、子ども相手にコマなど日本の遊びを教えるブースにいる30歳くらいの女性が、向こうからこちらに気づいてくれて、「日本からいらっしゃったんですか」と聞いてくれる。それで、ボランティア(事実上の食客)で来ているとか、色々話す。茶道を教えに来ているのは龍谷大の学生が主で、その女性は同志社卒で茶道を生業にしているらしい。少し話した後に、「ぼくは京大卒業してるんですよ」と、身元を明らかにするのと、話しをふくらませるきっかけになるかと思って言うと、「えーすごいですね」とただびっくりされてしまった。意図としては距離を縮めることだったが、逆効果になった。前にもこういうことがあった気がする。ぼくは京大から左京区などの地理の話しになったり、京大にも茶道部があるわけで交流があるかもしれないから、「○○さんもしかしたら知ってたりします」みたいなことがあるかと思って言ったのだが、テレビのクイズ番組で見るような、高学歴=選民の意味になってしまった。関西の外の人にはあまり京大だとかは言わないが、特に京都の人には言いたくなるのだ。だって京大・立命館同志社龍谷・精華・造形などそれぞれの文化や地理があるわけで、話が盛り上がりそうだからだ。なのにうまくいかなかった。むずかしい。
 その女性に別れを告げ、本屋めぐりを再開する。台南駅南の古書街に向かうも、特にほしいものは見つからなかった。教科書の古本を売っている店があって、小学校の国語の教科書を見たが、ぜんぜんほしいと思わない。施設にある’70年代の国語の教科書はシンプルでたいへん美しいのだが、今のはごちゃごちゃしている。
 台南駅東の、成功大学の学生街の本屋へ向かう。日本語の古本を売っている店を知っているので、そこに行く。台南は2ヶ月住んだことがあるから、少し詳しいのだ。日本語世代の台湾人が作った歌集『たんがら台湾』(2000年号)が10元(35円ほど)で売っていて買う。野坂昭如の『軍歌 猥歌』なる80元の本と、1970年発行の女性自身の皇室特集号(100元)も買う(なんでそんなもの売ってるんだ?)。トトロと魔女の宅急便を特集した150元の本もあって買ったが、それのみ袋がしてあって、いま開けると日本語の翻訳ものだとわかった。買った意味がない。施設の誰かジブリ好きな人のクリスマスプレゼントにしよう。主に日本語の本を買っているのは、いま持っていてもうすぐ読み終える本の他に、日本語の本がなかったためである。
 他にもうひとつ古本屋に行くも成果なし。その時点で5時をまわっている。駅前の書店に戻り『台湾歴史地図』を買う。玉井行きのバスに乗り、YouTubeクレヨンしんちゃんドラえもんの中文版を見る。19時半に玉井に着くと、広場でクリスマスの音楽会をしており、それを21時すぎまで聞く。楽しかった。

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玉井 広場でのクリスマスの音楽会

 台南の林百貨(日本時代からの百貨店)などは人気ではあるが、そういう観光スポットにばかり行っても、台南政府や観光局お仕着せの旅行なわけで、少しずつ消耗する感じがする。に対して、玉井のような観光地化されていない場所で、地域にふれあえると、満たされる感じがする。
 家に帰るために鍵を開けようとすると、台湾版セコムの解除を間違えたらしく、警報が鳴り、正しく解除した後に台湾版セコムから電話がかかってきて、吃音&外国語ということで最悪の条件なのだが(吃音者はたいてい電話が苦手)、問題はないことと、名前を聞かれたので名前を答えた。この家の玄関は、3重に鍵をかけた上にセコムをしている。いくら障害者をあずかっているからといって、台湾という世界で最高クラスに治安のいい国の、人口1万4千人の田舎町でそれはやり過ぎだろうと思う。しかし、ボスやおじいさんは、出る前にセコムちゃんとかけといてと言うので、従うことにする。
昨日の夜、店で残して包んでもらったやつの残りと、冷蔵庫のネギやらショウガやらで鍋を作ったが、あまりうまくなかった。料理うまい人はすごい。

第13日目 12月16日(日)
 玉井の長老派の教会に行く。9:45に礼拝がある。朝ごはんを教会近くの朝食店で食べる。肉粽(ちまき)と豆乳の小を頼む。豆乳はたくさん出てきた。たぶんこちらが外国人(日本人)なのでサービスである。それで35元=120円くらい。ぼくは飲み物は日本では、水とハーブティーと酒くらいしか飲めないのだが、台湾や大陸では豆乳が飲めてありがたい。安いしどこででも売っている。ちなみに、日本の豆乳は飲めない。日本のは味が違う。
 教会の礼拝は台湾語で、さっぱりわからなかった。自己紹介の時間があるかと思ったがそれもなく、台湾語の通じないよくわからない若者がひとり来たというだけで終わってしまった。日本人だとわかったらもう少し歓待されたと思うのだが…。去年、花蓮の長老派教会に行ったときは、そこも台湾語での礼拝だったが、かなり歓待された。日本語世代のお年寄りとたくさん話すことができた。
 終わったのが11時で、バスターミナルのあたりを歩いていると、施設のキッチン担当の障害者の人に出会った。どこに住んでるんですかとか、少し話す。それからパタニー事件の記念館に行く。パタニー事件というのは、1915年にここ玉井で起きた、日治台湾最大の死者を出した抗日事件である。しかし、少し見たところで、果物に含まれている何らかの成分が足りないため集中力が落ちていて字が読めないことに気づく。そのため、農協のマンゴーを出す大きな店に行く。150元の、玉井名物のマンゴーとアイスが入ったものを頼むと、マンゴーの下に大量のかき氷である。ぼくはお腹を冷やすのがダメなので、ミスったなと思いつつ、少しずつ溶かしながら食べる。なんにせよ果物を摂取でき、記念館に戻ると字が読めるようになっていた。展示を見る。日本軍は「清郷」といって、敵対する可能性のある集落の皆殺しをしている。満州事変(撫順の抗日への報復)や日中戦争で集落皆殺しをしたことはよく知られているが、その前にもやっていたのだなぁ…と思う。
 記念館を出ると猫がいて、一時間くらい遊んだ。猫との距離感をはかるのが気功っぽいというか恋愛っぽいというかでおもしろい。
 昨日たくさん歩いたためか、疲れたので家に帰る。15時ごろである。少しネットなど見てから、ひと眠りする。起きると18時半であった。ドイツ人が帰ってきていた。聞くと、小琉球に行ったという。ウミガメのいるところで、ぼくも3年前に行った。彼は疲れたから寝るといい、ぼくはご飯を食べに出た。前に入った店の前を通ると、おっちゃんが覚えててくれていて、入る。奥さんがぼくでもわかるようにはっきりと中国語を話してくれたから、すんなり注文する。魚のスープと上に煮込んだ豚の細切れが乗った米と、空心菜を食べる。全部で145元(500円くらい)である。そんなに安いわけではない。が、うまい。9つくらいの娘さんがいて、ティッシュを取ってくれたりなんとなく気にかけてくれる。ぼくが奥さんと中国語でやり取りするのを見てその子は、「彼は国語が話せるのね」みたいなことを奥さんに言ったところ、「せやで〜。勉強しはったんや。あんたもしっかり勉強して日本とか行きなさい」(よく聞き取れなかったので意訳)みたいなことを言っていた。その子が「好吃」は日本語で何というのか聞くと、奥さんは「おいしい」と答え、ぼくが出るときも「さよなら」と言ってくれた。台湾の人はたいていこのくらいの日本語を基礎教養的に話すのですごい。今日は人と話するのが少なかったので、少し暖かい交わりができて助かった。

第14日目 12月17日(月)
 昨日昼寝をしたので7時起きでも大丈夫かと思ったが、目覚ましがなっても起きられなかった。結局8時に起きる。遅刻である。それでもだるい。
もうすぐクリスマスの出し物があるということで、その練習である。子どもがいてかわいい。ぼくは東方の三博士のひとりである。
 昼ご飯を食べてから、部屋に戻り布団のカバーを洗濯する。どうもダニがいるらしく、腕や手を噛まれてかゆい。かけ布団のみ干す。洗濯の待ち時間に、台南で買った歌集<たんがら台湾>(二〇〇〇年号)を読む。日本語世代の台湾人たちが、日本語で短歌を読み続けたことは心動かされる。いくつか心惹かれる短歌をみつける。刺激を受けて、自分でもいくつか詠む。
昼からはジングルベルの歌に合わせたダンスの練習をする。
 家に帰って疲れ気味ながらリビングでパソコンやテレビを見ていると、いつも話しかけてくれる人が話しかけてくる。知的障害などない人だと、疲れているとか、何か作業をしているとかを察してそっとしておいてくれるだろうが、そういうのはおかまいなしで、いささかイライラする。
 今日は疲れたので早めに眠る。

2週目終わりです お疲れさまでした 次のページから3週目です

台湾ボランティア記・第1週

台湾は台南の郊外で、知的障害者の施設に2018年の12月から1月にかけての一ヶ月間滞在した。その日々を「台湾日誌」と名づけて随時Facebookに載せていたのだが、ここにも載せることとする。ほとんど毎日付けていたので長いです。まず第1週目です。

12月4日(火) 台湾一日目
 朝6:36の目覚ましで起きて、昨夜の鍋の残りを食べ、家を出発した。ジャンパーを着ていくつもりだったが、大阪の最高気温が20℃にもなる日だったので、家を出る直前に玄関に放り出してきた。高雄や台南は30℃なので、着いて鞄の中にジャンパーを見るのは、文字通り「見るのも嫌」だろうと思ってのことだ。しかし1月末という一年で一番寒いときに台北や馬祖、福州に行くつもりなので、やはりジャンパーは持ってくるべきであったかもしれない。こちらで買うこともできるが、お金がもったいない。安いのを見つけよう。
 ずっと、現実感がない。朝起きたときからずっと。今日自分が台湾に行くなんてことは信じられなかったし、これを書いている今も台湾にいることが信じられない。信じられなかったけど、乗り慣れたJRに乗って、何度も繰り返した出国手続きをし、座り慣れたピーチの狭い座席にいて、高雄空港から地下鉄と鉄道に乗るという、目の前のひとつひとつの作業をしていたら、本当はとても遠いはずの台湾にすぐに着いてしまった。
 昨日までは世界がリアルだったのに、今は映画を見ているみたいだ。
村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』に、「ぼく」とキキ(「ぼく」の恋人だ)が飛行機で北海道に行ったら、早く着きすぎて(羽田−千歳は一時間だ)気持ちが追いつかず、映画館で時間をムダにするために見たくもない映画を見つづけるというシーンがあった。鉄道ならしっかり時間がかかっていいけれど、「いまはまだ心が福島あたりまでしか来ていない」とか「そろそろ青森」だとか言っていたような気がする。それがすごくよくわかる。ぼくも本当は大阪−台湾はフェリーで移動したいのだが、悲しいことにその便はない。フェリーで3泊くらいかけたら、体と心が一緒に来ることができるのだが…ぼくの心はまだ屋久島あたりである。奄美と沖縄と八重山を経てやっと台湾に来るのだ。
 さて、台湾の障害者施設では思いの外に歓待された。台湾人はやはり優しいし、クリスチャンはホスピタリティが厚い。来る直前はコミュニケーションができるか不安でならなかったが、来てみるとなんとかなりそうに思えてきた。
 なぜ退屈かというと今夜はインターネットがないからで、ネットがないのは泊まっているところにWi-Fiがないからだ。Wi-Fiはあると思って空港でSIMを契約しなかったが、明日携帯会社に行って契約することにした。ネットがないと日本と連絡が取れないので困る。本当はネットなんて邪悪なものはない方がいいのだ。便利さに気を取られ時間も取られる。そういうわけでひょんなことから、何年かぶりのインターネットなしnightである。落ちついて過ごせるかと思ったら、パソコンを開いてこんな文章を打っている。しかしネットがあるよりはやはり落ちついているように思える。

12/5(水) 2日目
 日本を発つ前から少し風邪っぽかったが、やはりいささか風邪っぽい。今日は早めに休むことにする。施設の人々は優しい人たちである。わたしはボランティアというよりは、食客という感じだ。利用者がひとり増えたようなものである。静岡のかなの家でもそうだった。慣れてきたらもう少し手伝おう。
 子ども(幼稚園よりも小さい人たち)のところか大人(18歳より上という印象)のところかどちらで過ごしたいか聞かれ、少し見学して大人にしたが、やはりそれでよかった。人に話しかけるよりも話しかけてもらえるほうが好きだからです。
 1970年代の小学校一・二年生用の国語の教科書を図書室で見つけた。文章が美しくて感動した。日本の小学校の一二年用の国語の教科書も、きっと美しい文章だろうと思った。すっかり忘れているので、帰ったら探して読みたい。竹内敏晴という大正14年生まれの演出家が、小学校の教科書が、自分の時代は白黒だったのがひとつかふたつ下の弟の代で改訂されて、色付きで「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」と桜が一面に広がる絵になっていて、「なんであと少し遅く生まれなかったんだろう」と泣けてきたという話をしていたが、すごくよくわかる。小学校の最初のころの教科書はそれくらい心にまっすぐに入ってきた。教科書って、子どもに伝えたいことを、多くの大人たちが力を合わせて考えたのだから、愛がいっぱいつまっていると思う。国民国家はクソやなって思うことよくあるし、文科省の検定済みの教科書(戦前は国定教科書)なわけで国民国家に都合のいい人物として子どもを「教育」するという面があるから、例えば七〇年代の中華民国台湾の教科書でも国旗に敬礼していたりするわけだけれど、でもやっぱり愛を感じる。間違った愛もあったと思うけれど、書いた人たちの真剣な気持ちが伝わってくる。今日は暇な時間はこの教科書を読んで感動していたのだった。
夜市に行こうかと思ったが疲れたからやめた。

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国語の教科書



3日目 12/6(木)
 昨晩の話から。なかなか眠れず、しかし神経は高ぶって、1時前くらいまで日本語のインターネットサーフィンをした。台湾では中国語や台湾についての勉強をしたいのだが。なぜそうなったというと、昼にもらったお茶をぜんぶ飲んだからだとわかった。600mlくらいのタピオカティーを施設の人がくれて飲んだのだが、わたしはカフェインはダメなのだ。むろんわかっていたが断れなかった。これからは飲まないようにしよう。
 今朝はしかし気持ちよく起きた。晴れていたら多少寝不足でも大丈夫である。気温が最高気温30℃くらいなのだが、わたしはこのくらいの気温が合っているように思える。逆に日本の冬はいつもけっこうきつい。
 一日でわりと慣れたように思える。知的障害の人たちは気軽に話しかけてくれて、楽である。朝は新年のカードを作った。流れ作業で同じものを大量生産であるが。
 昼ご飯の後はいつも昼寝があるようで、わたしはその習慣はないが、寝不足だったからみなと一緒に寝た。机の上に突っ伏して寝る。台湾は小中高でも昼寝の習慣があるらしいが、やはり机に突っ伏して寝ているようだ(最近出た岩波ジュニアの本『台湾の若者を知りたい』に書いてあった)。一眠りするとスッキリした。昼寝の習慣はわたしも取り入れるといいかもしれない。
 3時すぎにプログラムが終わり、後は自由なので、市立の図書館に行った。市立というのは台南市立のことだが、ここ玉井というのは人口1万4千人の小さな町であるから、図書館も一階だけのシンプルなものである。しかし、映像作品がたくさん置いてあって、これを泊まっている家のテレビで見るといい勉強になりそうだ。基本的に夜は暇だから、借りて見たいのだが、日本のパスポートがあるだけで借りられないので、別の日に施設の人にカードを借りるなどしようと思う。
 一緒の家に19歳のドイツ人がいる。彼は今年2月からで、1年間いるらしい。明日からは休みなので、利用者の知的障害の人たちは家に帰っているらしい。障害者の人たちと、ぼくら外国の食客の世話をしてくれるおじいさんがいて、その人と三人である。夕食はいつも施設の人が作ってくれるようだが、今日はないので、外で食べるかなと思っていたら、おじいさんがドイツ人に何か作ってやと無茶振りし、ドイツ人は無茶振りや〜という表情をしつつもわかったと言い、大量のチーズと玉ねぎを炒めた何かを作った。おじいさんはスープと、肉とパプリカの炒め物で、ぼくは野菜を切ったりした。ぼくも料理ができたらいいのにと思う。25歳にもなってろくに作れないというのはなんともつまらない。
 図書館のおもしろそうな映画などを見て、映像を見たくなり、テレビを付けたらドラえもん(多拉A夢)とクレヨンしんちゃん(蠟筆小新)がやっていた。ドラえもんは「もしもボックス(假如電話亭)」の回で、のび太(大雄daxiong)がアメリカに引っ越すという「もしも電話」をかけたら、直後にボックスが壊れてしまい、本当に引っ越す直前までいくという話だった。静香ちゃん(jingxiang)が本気で泣いてるのにうるっと来てしまった。くれシンは2001年ごろの、おもしろい時期のだった。愛ちゃんが出てくる時代だ。
 現在9時で、おじいさんに疲れているだろうからテレビを消して休むように言われた。しかし9時は早くないかと思う。このおじいさんは日本語もけっこうできる。夕方に会ったときは「こんや…料理、ない」と簡素な言葉で、施設の厨房で作る食事が運ばれないことを教えてくれた。「料理、ない」は使いたい日本語だと思った。台湾人はかなり多くの人が簡単な日本語はできる。さきほど行った玉井区の図書館にも、日本の漫画がずらりと置いてあったし、小説も日本のがかなりある。知的障害の人の中にも日本語を勉強していて、日本語能力検定試験4級に何年か前に受かったという人がいた。
 いまテレビを見ていたら、ベトナム語ニュースの時間とインドネシア語ニュースの時間があった。図書館にも東南アジア諸語の本のコーナーがあった。台湾は介護の労働者として東南アジア諸国から多くの女性労働者と移民を受けいれているのだ。2016年現在で移民は14万人、労働者は68万人をこえたらしい。日本も来年から外国人労働者を多く受けいれるようだが、台湾は先を行っているのである。

4日目 12/7(金)
 社員旅行のようなものに混ぜてもらって台東へ。車で4時間もかかってびっくりである。高速道路は屏東県(高雄の東の県)までしかないようで、そこからの山越えはくねくねした道だった。
 東海岸に出て海があったが、みなが泳いでなかったので泳がなかったことを、後になって悔いた。泳ぐべきだったが、波が高かったこともあって躊躇した。仲がいい友人であるFはどこの海でも泳ぐと言って、誰も泳いでいないところでも空気読まずに泳ぎ出すのだが、彼は立派だと改めて思った。夏に東北で震災のボランティアをしたとき、漁港でFと一緒に泳いだのがすごくいい思い出になっている。ぼくはなんでも躊躇して機を逸してしまうから、彼のように素早くやりたいことができるようになりたいものだと思う。
子ども食堂兼勉強を教える場所のようなことをしているところの話を聞いて、台東夜市に行った。台東の夜市ではクリスチャンがもうすぐクリスマスですねのパフォーマンスで踊ったり歌ったりしていて、感動した。今後台湾社会に入り込むにあたって、キリスト教のコミュニティはぜひ活用させていただこうと思う(德蘭中心もキリスト教なのですでに活用させていただいている)。キリスト教は「外の人」にもウェルカムだ。日本のカトリック教会もベトナム人が多くいるらしい。それでこそ宗教だと思う。
 夜市では施設の若者が射的を7発7中あてて、好きなの選んでいいと言われたので、クレヨンしんちゃんのぬいぐるみにした。兵役があるからうまいのかと聞くと、12歳から親父とBB弾で練習してたと言われた。「ハワイで親父に…」(by工藤新一)を思いだした。
 ホテルに温泉があったがお湯が汚くて、上がったら目が赤く腫れていた。
疲れたから今日は短めに終える。

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台東県南部の海

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台東の夜市 クリスチャンたち


5日目 12/8(土) 副題:親切にされるとすぐ好きになります
 朝7時に起きて、朝食を食べて8時にバスで出発する。池上のあたりで自転車に乗るが、風が強くて河原の砂塵が空を舞っていた。このあたりはちょうど去年も自転車で友人Fと来たところでなつかしい。昼ご飯の後、自然公園へ。
 移動はすべてバスだが、バスの中では本が読めず暇なので、昨日からYouTube夏川りみの歌を聴いている。通信制限なしなのでネットし放題である。台湾の風景を見ると沖縄を思い出す。台湾も差別されてきた地域だが、90年代から台湾人は自治を獲得した。沖縄はかつては独立があったが、いまは日本の国内植民地のような状態である。沖縄と台湾は自然も文化も似ているし、距離も近い。近年、沖縄と台湾の間の交流はどんどん盛んになっている。国境線という強力な力での断絶を乗り越えようとしている。そのことを思うと感動する。夏川りみは、雨夜花という台湾の歌を歌ったり、テレサテンの中国語の歌を日本語で歌ったり、与那国と宜蘭の間の見えない国境線を飛び越えて活動している。中国語で夏川里美と検索するとたくさん動画が出てくる。台湾人のファンも多いようである。そういえば3年前に台南にいたとき、台南で夏川りみのコンサートがあって聞きに行ったのであった。沖縄がいつの日か、いまの台湾のように自治や独立を獲得できるように願う。日本人としてその責任を感じる。
 夏川りみをずっと聴いていると、Youtubeの「あなたへのおすすめ」欄でメリッサ・クニヨシという日系(沖縄系)ブラジル人の歌手を見つけた。まだ子どもである。「瀬戸の花嫁」や一青窈の「ハナミズキ」、「涙そうそう」などを歌っていた。広島も移民を多く出した地域だし(by神戸の移住ミュージアム)、一青窈は台湾系日本人だ。中島みゆきの「糸」も歌っていた。日本(沖縄)という縦の糸と、ブラジルという横の糸が組み合わさって彼女がいるのだと思うと、泣けてくる感じがした。
 夕方に台東の糖廠跡に行った。日本時代からの歴史がある。第二次大戦の防空壕跡や記念館やらがあるが、戦前に台湾の原住民研究をした日本の学者の本が置いてあった。ほしいが、日本円で3000円する。買おうか迷っているうちに、バスの時間が来てしまい諦めた。買えばよかったかなとも思うが、そういうときにとっさの判断ができないのだ。綾屋さつきさんが『発達障害当事者研究』で発達障害というのは「(意味の)まとめあげに時間がかかる」ということなのではと書いていたが、発達特性をいくらか感じる身としては、よくわかるのである。昨日の海に入るかどうかについてもそうである。昨日の海については、当事者研究の仲間が詳しいコメントをくれているので、読まれたし。
 その後、旧台東駅のあたりを1時間半くらいぶらつくことになった。それならもう少し糖廠跡にいさせてほしいところだが仕方がない。施設で働いている、同い年くらいの女性と2度すれ違い、どちらからともなく会釈する。いや、会釈というのは日本的な表現で、実際はほほえみかけると言った方が正確である。すみません、そういう西洋的なことをたまにします。障害者施設というのはそういうものなのかしらないが、そこで働いている女性は30代半ばより上くらいがほとんどで、20代なのはごく少数である。その人は今回の旅行ではじめて知り、同い年くらいで気になっていたのだが、同じ家に泊まっていていまホテルの同部屋のベッドにいる19歳のドイツ人と親しげに話していたから、内心ふんと思っていたのだ。しかし、その女性と3回目に会ったとき、話しかけてくれた。それが、かなり親しく話してくれたので、ふつうに一瞬で好きになってしまった。親切にされるとすぐ好きになっちゃうんだよな(サークルクラッシュ同好会の人も同じようなことを言っていた気がする)。
 夕食のあと、みながバスでホテルに行くなか、ぼくはレストランに残って、台東で一年前にAirbnbで泊めてもらった人と待ち合わせた。台湾的ぜんざい屋に行き、湯圓(つまり台湾的ぜんざい)をごちそうになる。キリスト教の話など聞く。明日、教会があるらしいが、ぼくはいまの施設の人と一緒に行動するから行けない。しかし来月、日本に帰る前に寄ろうと思う。台東糖廠跡の本も、その時までにどのくらいレアな本かを調べて、必要があれば買うことにする。ちなみに、夕食のあと知人に会いたいと言うと、快くオッケーしてくれた。台湾人はこういうところ自由ですばらしい。やたらと心配してきたりもしない。
 体が冷えたので、昨夜入っていまいちだったホテルの温泉に、また入ることにする。明石家さんまだか所ジョージだか忘れたがそういう感じの人が、「オレはまぐろが好きなんだけど、うまいまぐろしか食べないってわけじゃないんだよ。本当に好きだからまずいまぐろでも食べるの」と言っていたのが、風呂についてはよくわかるくらい、ぼくは風呂ずきである。旅行先はホテルの部屋の狭い風呂ではなく、銭湯を探して入るし、家でも毎日お湯につかる。お風呂へのこだわりはあるのだが、しかし多少汚くても入れないよりは入れる方がいいのである(お湯やっぱ濁っていた…)。
 夜は当事者研究仲間とチャットしたり、トランプをしたりした。同い年くらいの人たちと話したりするのは楽しい。京大にいたこともあって、中国人にせよ台湾人にせよエリートばかりと付きあう機会があったが、やはりぼくにエリートは合わない。英語があまりできない人もいて、英語できないのかわいいなとか思う(なんかそれって植民地主義的やな。でもぼくもあまりできないからいいか)。
 12月8日といえば先の大戦の開戦の日である。ちょうど一年前のこの日に、台湾に来たのであった。特にそこに意味はない。
 日誌はオチがないことも書けて楽だな。しかし読む方はたいへんじゃないかしらん。

6日目 12/9(日)
 昨夜は眠いのに「台湾日誌」を書いたので、いささか寝不足である。しかし9時出発なので助かった。朝は海が見える「風景区」に行き、昼食である。バスを降りて気づいたが、台東旅行1日目に泳ぎたくて泳げなかった砂浜のあるレストランである。食後に隣の人に何時に出発か聞くと、あと10分という。しかし10分あれば全身海の水に浸すことくらいはできると思い、バスに水着を取りに行こうと思ったが、運転手さんがどこかに行っていて入り口が閉まっていたので、断念せざるを得なかった。せめてもの思いで、足だけ浸かりに入った。台東は3回目だが、3回ともすべて波が高いので、そういう地域なのだろう。時折大きめの波が来る。危険といえば少し危険だが、気をつければ大丈夫にも思える。天命なのか愚かなだけかわからないと思いつつ、その後も6時間くらい後悔しつづけた。バスを降りて、泳げるところと気づいたときに、戻って水着を取ればよかったとか、早く出発時間を聞いていれば早めに食べ終えて泳げたのに、とか何度も考えてしまう。『発達障害当事者研究』の言を借りると、「意味のまとめあげがゆっくり」なので、急に何かの選択をせまられてそれを適切にこなすのは苦手なのだと思う。大学受験とかは得意だったわけだが、あれは瞬時の選択を大量にこなしていくものの、かなりの程度パターン化されているので、パターンを覚えてしまえば大丈夫なのだ。どの状況でなら海に入るかは、経験値が圧倒的に不足しておりパターンなど何も知らないので、固まってしまった。と、発達障害的解釈をしてみる(自分にどのくらい発達特性があるかもよくわからないし、かなりテキトー)。
 バスの中では昨日に引き続き、沖縄系ブラジル人メリッサ・クニヨシの歌を聴いていた。メリッサは8歳のときにブラジルのテレビ番組に出て、有名になったようだが、その時のは本当に神がかっている。子どもは神さまに近いというが、彼女の当時の第一言語ポルトガル語で、おそらく意味がわかっていない日本語の歌詞を歌っているのに、心に響く。言霊が形を成したようである。能楽師の安田登が『神話する身体』で、能は演者が意味わかってなくても、形をなぞれば意味が勝手に立ち上がってくるみたいなことを書いていたが、ちょうどそのようなものだと思った。対して10代になってからのメリッサは、正直かつてのような輝きは見えない。しかし、そのくらいの年は子どもから大人に急激に変わる時期だから、神がかった才能が見えなくなることもあると思う。大人になってから、成長の苦しみを糧にした、以前にも増してすばらしい歌を歌ってくれるのか、それとももうその才能は見ることができないのか、わからない。神さまがほほえむかどうかは神さまにしかわからない。
 近代人はみな望郷の徒だ。ぼくも3世代さかのぼると血縁的に縁のない、大阪のベッドタウンに生まれ育った。近くを流れる川は、上まで一面コンクリートで覆われていて、その水にふれたことは一度もない。故郷は書物などを読んで再発見するしかなくなっている。メリッサのような、日本を離れた人たちに、かつての日本が見える。ぼくが台湾に惹かれているのもそれが大きな理由である。ぼくが愛する日本は、日本の中を探していてもたどり着けないのではないか、そんな思いがする。本当はあるのだろうけれど、深く埋もれてしまっている。日本を探して台湾に行くというのはいかにも色んな人に怒られそうだが、しかし日本人ということに当事者性を見出しているから、台湾(や沖縄や朝鮮)に関心を持っていることは間違いないのである。ぼくがフランス人だったら、ドイツやアルジェリアのことを学ぼうとしていると思う。
 夜6時ごろに玉井に帰ってきた。バスが着くと挨拶もなく解散していく。日本なら集合して一言あるところだけに、文化が違うなと思う。いったん荷物を置きに帰ったら、誰もいなくなっていて、「八方雲集」というチェーンの餃子の店で、ひとりでご飯を食べた。これまで人と一緒に食べてきたので、気づかなかったが、旅行先でひとりでご飯を食べるというのはさびしいものである。旅行で一番苦手なのはそれだ。台湾に来て6日間、すべて他の人と一緒に食事をしていたことに気がつく。それってとてもありがたいことなんだなと気がついた。台湾の店では店内で食べるか、持ち帰るかを選べることが多い。ドイツ人が家でパンケーキを焼くというのに、外で食べると行って出たが、買って持って帰ればよかったなと、食べ終わってから思った。
部屋にいると近くで花火が盛大に打ち上がり、何事かと見に行った。ロケット花火のヒュンヒュンという音もする。見ると、葬式の告知か何かのようで、子どもが3人くらいと大人が2人だけいて、玄関に花と名前が飾ってあり、葬儀の車が泊まっていた。あたりは花火の煙で、デモ隊と機動隊が闘った後のような感じがした。
 3日間、移動しまくりの旅行だったので、かなり疲れた。そして海に入りたかった。台湾いる間に入れたらいいな。

7日目 12/10(月)
 7時に起きる。昨晩疲れていたわりには、目覚めはよい。足湯と首の目の湯あてをする。湯あてとは気功用語で、要はタオルにお湯を浸して絞って、体に当てることです。今朝は朝食が出ないので、買いに行った。60元(約200円)で、魚と米の入ったスープである。うまい。施設の庭で少し気功をしたりする。
 朝のプログラムは、庭の掃除から始まった。掃除って気功になるな〜と思いながら気分よくする。次は庭をぐるぐる歩く。これも気功っぽくやる。次に、体操のようなことをする。ストレッチもやる。こういう西洋式のは嫌いなので、換骨奪胎して力を抜き、気功っぽくやる。気功は週に1回、4年やってるので、知らないうちに身についてきている気がする。人間には、特に障害者や発達特性の強い人には、気功など東洋医学的なものが合うことが多いと思う。発達障害の綾屋紗月さんが『当事者研究当事者研究』で、東洋医学と相性がいいと書いていたけれど、それはよくわかる。
 その後は工作と手芸をする。昼食のとき、天井からつり下げるタイプの扇風機が回っていて、あまり気分が優れなかった。ぼくは風に弱い。しかし台湾では多くのところで扇風機か冷房がかかっている。昼寝の後は、運動の時間で、ぐるぐる歩いた後ストレッチである。障害者の人たちは、ほとんど誰も真面目にやっていない。やってるのは先生たちくらいである。ストレッチなんて体を硬くするだけじゃないか、それより気功とかやって体をゆるめた方がいいのに、と思う。帰る前に、気功を4年やってるから、みんなと一緒にやりたいんですけどどうでしょう、と聞いてみたら、喜ばれた。20分でやってくれと頼まれたので、楽しみである。
 施設では結構暇で、手伝うことないかと聞いても、障害者の人たちと一緒に過ごす他は特に何も求められていないようである。掃除しようとしても、今度するからしなくていいよ、とか言われる。
 SIMの初期契約は短期間しかできなくて、それが切れたので、セブンイレブンで、30日間使い放題900元(約3000円)のSIMを契約し、次に地域の図書館で本をDVDを借りる。しかし泊まってるところのDVDデッキが壊れていて見れない。
 夕食後、一緒にテレビを見た。テレビはいい中国語の勉強になる。それから、ネットで中国語の音楽を流して一緒に歌った。テレサ・テンなんかは、同じ曲を日本語と中国語で歌っていたりする。文化を共有しているのっていいなと思う。

一週間分読んでくださりありがとうございました お疲れさまでした 続き(2週目)は次のページへ

ふれること・ふれられること

ふれることもふれられることも、生きていくのに大切なことだ。赤ちゃんは親や周りの人にふれられて育つ。ある程度大きくなっても子どものうちは、からだがふれることは自然なこととして受けとめている。赤ちゃんや子どもにふれることで、おとなも気持ちよく感じる。気持ちよさは一方ではなくて、両方にある。

ある程度の年齢同士になると、からだがふれる機会は減ってしまう。そこには何か必然性のようなものがあるのだと思う。性的なパートナーとはからだがふれあうが、その他の人とはほとんどふれなくなる。赤ちゃんや子どもとかかわることがなかったり、恋人がいなかったりすると、下手したら何ヶ月も人にふれてなかった、みたいなことが起こる。

ぼくはというと、赤ちゃんや子どもとかかわることはあまりないが、同居している祖父が子どもみたいなものなので、よく頭や背中にふれている。ふれているというのはちょっと嘘で、実際は、ぼけていてリビングの真ん中をうろうろしているので、「邪魔や、のいて」と押している。「調子どう?」と背中を軽くたたくこともある。人にふれるのはそれくらいなもので、だから人のからだを慈しむ機会はほとんどない。まれに、人の赤ちゃんを抱いたりすると、その心地よさに後から気づく。

その心地よさを、自分に対してしようというのが、気功である。信頼している気功の先生がいて、4年ほど通っている。しかし、自分の家では、痛かったり凝っているときに応急処置をするくらいが精いっぱいで、なかなか真面目にやる気になれない。人というのは、自分のからだを大事にするのは苦手で、他人のからだに対する方が丁寧になれるのだろうか、などと思うこともある。

信頼しているマッサージの人と整体の人がいて、それぞれに数ヶ月に一度だけ行く。人に、からだを大切に扱ってもらうのは必要なことだ。先日、マッサージを受けたが、その人は「人はお腹のなかで羊水に包まれているわけでずっとマッサージを受けているということね」と言っていた。赤ちゃんや子どものうちは、からだに大切にふれられることがいつも欠かせないが、おとなになってからも、時々はそういうことを必要とする。

20代の男性が「セックスがしたい」と述べる言説はよく見かけるが、実際に求めているのは、人のからだを慈しむこと、慈しまれることではないかと、我が身をふりかえっても思う。それが結果として、セックスにつながる。結果的にたどり着くセックスを目的化すると、むなしさを感じることになる。

というわけで、恋人がほしいなあと思う。人のからだを愛でたいし、愛でられたいと思う。赤ちゃんや子ども相手とか、あるいはおとな同士でも気功とかマッサージとか、あるいはそういうワークショップとかでふれたりふれられたりはできるし、そこで回復するのだが、性愛の強さにはかなわないな、と先験的に思っている。

吃音になった不思議な理由

先日 吃音の仲間とお泊まり会をした
そこで 当事者研究ばっかりしてるヤバい人が 吃音になったきっかけになってる不思議な記憶 ありません? と言い出した
はじめ何のこっちゃと思っていたが ぼくもあったのを思いだした

小2の夏 祖父母と父と妹と広島の宮島に旅行した 母はたぶんいなかったと思う
祖父母の岡山の家にいたときで 在来線にやたらと長い間乗った記憶がある まさか岡山から在来線で3時間あまりかけて行ったのだろうか さすがに新幹線で広島まで行きそこから在来線に乗りかえたが なにぶん子どものときだから広島宮島口の20分ほどが長く感じたのだろうか それはよくわからないが どこかで快速に乗るべきを間違えて普通に乗ったことを覚えている

宮島はJRの宮島口からフェリーで行く 8月の広島の暑い日差しと 大きなフェリー(実際はそんなに大きくないはずだが小2のときなので大きく感じられたのだろう)が重なる記憶がある

その時なのだ 吃音になったのは
その時何かがあったはずだ

小2のときからずっとそう思ってきた

あまりにわけがわからないので 人に話そうなんて思わなかった しかし実はそう信じているのだ

その時一体何があったのだろう 祖母に話し方について言われたのだろうか 暴力的なことがあったのだろうか それらはありそうなことだが 推論の域を出ない

だが事実 その旅行が終わってほどなく大阪に帰り2学期になると 不思議なくらいどもるようになったのであった 夏休みの宿題としてこの旅行のことを絵日記にしたのも トリガーになっているような気がする

1学期の終わり 7月に国語の教科書の『スイミー』を授業で読んだとき 喉につっかえる感覚があったのは覚えている*1 タイトルの「スイミー」の「ス」がなかなか言えなかった(うまくごまかしたので先生やクラスメイトにはバレなかった) しかしタイトルさえクリアしたら 後はスラスラ読めた

お泊まり会で その宮島旅行の話をしたら 別の友人は「村上春樹の小説みたいに 半身を宮島に忘れてきたんじゃないですか」と言った

宮島に着いて 厳島神社の鳥居に行ったところまでは記憶にある ちょうど潮が引いているときで 鳥居のフジツボをさわったりした しかしそこからどうやって帰ったのかはほとんど覚えていない だから宮島に着くまでがキーなのだと思う ぼくの半身は宮島に行ったまま帰って来れなくなっているのかもしれない 帰りのフェリーに乗せてあげたいが どうしたらいいものかわからない

*1:吃音は3歳からあったが連発型のもので意識せずにすんだ これが難発のはじめでこの時はじめて吃音的現象を意識したように思う

体があるから恥ずかしい

「恥ずかしいという感情は規範から外れるときに起こる」と友人が言っていた。にしても、この体さえなければと思うことは多い。誰だってそうだがぼくも、この体に望んで生まれたわけではない。やたらとどもるし、同年代男子に比べて小さいことで、昔から悩んできた。今は折り合いをつけてしまっているが、小学生のころは神社にお参りしては「ことばがつまるのが治りますように。背が伸びますように」とお願いしたものだ。

体がなくて、認識の世界だけで人と関わることができればいいのにと思う。もし発言主体を何らかの形で実体化させないといけないとしたら、ヴァーチャルYouTuberを使えばいい。それならどもらないし、背も自由に選べるし、見た目もかわいくできる。映像技術はまだ進歩途上にあるから、ちょっとダサいところがあるかもしれないけれど、どうせ自分の体じゃないから恥ずかしくない

などと言ってみたが、先に書いたようにぼくは自分の体と折り合いをつけてしまっており、自分の体いいなと思うところもあるのである。どもるのはふつうに不便だが、研究対象としてはおもしろいと思う。背が低いというか正確には背が低く体重が軽いのだが、これもミニマリストっぽさが気に入っている。筋トレというものを多くの男子は中学生~大学生のころにしたくなるらしいが、ぼくは全くしたくならない。自分の体に筋肉がついている状態を美しいと思えないのである。筋トレするのは、今の体より理想とする像が他にあり、それに近づけようということであろうから、ぼくはこのミニマリスト的体が実は好きだとすら言えるかもしれない。

テレビでみる海外旅行の紀行番組に憧れていた。そこではビデオカメラが海外の町並みや自然を映していた。自分も海外に行き気づいたのが、そうだ、体があるんだった、ということだ。つまり、テレビではビデオカメラという体のない存在が町を歩いていたので、自分も海外に行ったら体がなくなると思っていたのだ。しかし体はやはりあるから、町の人に見られたり、物を買うときにコミュニケーションで手間取ったりしないといけない。海外に行けば恥ずかしい体から解放されると無意識に思っていたのだが、やはりどこに行っても付きまとうのであった。

体が恥ずかしくないのは、部屋にいるときがひとつである。野山でひとりでいるときもそうだ。プールで無心で泳いでいるときもそうだ。つまり、人がいなければ(あるいは気にならなければ)いい。人と関わるにしても、インターネットを介して文字で人とコミュニケーションをしているときである。文字ってすばらしい。それについても、文体という形で「体」が出ると友人は言っていたが、文字だとどもらないし、やはり恥ずかしさは減るように感じる。もっとも別種類の恥ずかしさが生まれる気はするが(好きな人に書いた手紙を何度も読み返して、ここは書き直そうとか何回もするやつとか)。

かつてぼくはコミュニケーションに悩んでいて、人前に出ると体をずっと気にしないといけなくて疲れきっていたから、多くの時間を部屋で引きこもってすごしたが、今はそうでもない。自分の体のことをあまり考えず人と関わる時間も増えてきている。いくらか、他の人に気に入ってもらえている感覚はあるのだが、人がぼくのどこを気に入るかというとそこにはこの体が含まれている。ぼくが他人に好感を、あるいは嫌な感じを持つときも、当然体は含まれている。

ぼくがこの世の中で何かするというときに、やはり体があるから意味があるのだと思う。抽象認識だけなら、ぼくよりよくできる人はゴマンといる。この体をしたぼくがこう言うから意味があるということは多いだろう。という当たり前の結論で終わってしまった。オチのない文章で申し訳ない。

吉田の小さな庭 Little Yoshida Garden

香港で様々な路上空間の実践をしているマイケル・ルン*1さんが、京都大学の立て看や吉田寮*2についての物語を書いてくれました。私、八木智大がマイケルと出会ったのは、彼が主催する大阪の刺繍ワークショップ*3においてでした。マイケルは香港で、再開発の危機に瀕している布市場「棚仔(広東語読みでPang Jai)」*4保全運動に関わっています。そこの布を使ったハンカチに、好きな刺繍をするというワークショップでした。京大卒業生で、当局の立て看や吉田寮への弾圧に怒っている私は、ハンカチに「自治」と記した立て看を刺繍することにしました。マイケルは数日後、立て看と吉田寮について英語で書いた物語を送ってくれました。許可を得て、日本人の友人の手を借りながら、日本語に訳しました。訳文と原文を以下に載せます。

 

Michael Leung*5from Hong Kong, wrote a story on Kyoto University Yoshida Dormitory*6 and the controversy regarding the Tatekan*7, free public speech on wooden boards. Michael is back home working with alternative usages of streets. I met Michael in Osaka at an embroidery workshop offered by him*8. In Hong Kong, Michael is engaged in the protection movement of the Pang Jai*9, the cloth market, which is facing the danger from the redevelopment of the city. This workshop was about making embroidery on Pang Jai handkerchiefs. I tried to draw on the handkerchief a Tatekan with the word Jichi, which stands for self-governance, because as a graduate of Kyoto University I was furious about the oppression from the University on the Takekan culture and Yoshida Dormitory. Some days later Michael sent to me a fiction written in English about Tatekan and Yoshida. With his permission, I translated it into Japanese with the help of my Japanese friends. Here I put the translation and the original.

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刺繍ワークショップで作った「立て看」 The "Tatekan" I made at the embroidery workshop

 

 

吉田の小さな庭

マイケル・ルンによる物語

 

2018年5月13日の日曜日京都大学当局は突如キャンパス周辺にあった立て看板、通称「タテカン」を警告なしに撤去した*10。壁に立てかけられた看板が、市の条例に違反しているという理由だった。タテカンは、ほかの学生たち、一般の人々、そしてまだ出会っていない人たちに向けて発せられた私たちの集合的な声だ。私たちは言論の自由を支持する意味で、車や人々が行き交う東大路今出川百万遍交差点に、新たにいくつかのタテカンを設置することにした。数週間後、不眠症でいつも夜中に赤毛の柴犬を散歩させているはるかおばあさんが、懐中電灯とワイヤーカッターを持った大学の警備員たちが、百万遍に残っていたタテカンをこっそり撤去したと教えてくれた。次の朝、5000人を超える学生たちが百万遍の交差点を占拠し、交通を完全に止めてしまった。私たちは救急車や消防車といった緊急車両だけは通したが、警察は決して通さなかった。

それからちょうど24時間後、私たちは交差点の中心からヒューマンマイクロフォン(*皆で一斉に声をあげることで、遠くの人に聞こえるようにする手法)で要求を伝え、必要なときにまたすぐに集まれる準備をして解散した。大学は一旦は立看板の規定を撤回し、公式の謝罪文をホームページ(日本語のみ)に載せたが、それらは翌日には消えていた。

大学はさらに、吉田寮の学生たちに対して、寮生の新規受け入れを中止させるよう圧力をかけている。築105年の木造の建物は、ネオリベ化し、教育システムが崩壊しつつある大学における、学生の権利と完全な自治の最後の砦だ。

この運動と勉学(私は食料環境経済コースの最終学年にいる)で疲れて果ててしまってはいるが、それでも進み続けなければならないことがある。以前、友人のあつこは僕に「未来は決心した人のものだ」と語っていたが、彼女は全くもって正しい。

大宮草山から京大に向かうバスのなかで私はさらに疲れてしまっていたが、香港から来た活動家たちの報告会が吉田寮であると聞いたので、寮に向かい、ベジタリアンの人たちが集う夕食の会に参加した。参加費は自分で自由に考えて支払う仕組みだった。私は香港は横洲*11のバラミツ酒を飲みすぎて、世界中の漫画と雑誌であふれた部屋のなかで眠りについた。目が覚めてから、部屋に貼ってあるZAD(フランスの空港建設反対運動キャンプ)のポスター*12が、開いた窓から入る日光を覆い隠していたことに気が付いた。

部屋にはふたりの学生がいた。彼らは寮の声明文*13の日本語版と英語版を小声で話しながら編集していた。あきことしんたろうだった(しんたろうはオリエンテーションキャンプで会った友達だ)。あきこは以前、百万遍の交差点で私に応援の言葉をかけてくれた女性だ。私はどうすればいいのかわからなかったが、私の代わりに、外のニワトリのうちの一羽がコケコッコーと答えてくれた。私たちはみな一緒に笑った。

皆でブラックコーヒーを飲んだあと、しんたろうは私に向かって「部屋を片付け終わったので、もし君が望むならタダで部屋をシェアしてもいいよ」と話した。私が実家からはるばる通学していることを覚えてくれていて、さらに私のたくさんの荷物とぼさぼさの髪に気がついたのだろう。こんな髪なのは自分の好みなのだが!

私は彼の提案に乗り、その翌日に引っ越した。しんたろうの部屋、今では私たちの部屋は2階にあった。その部屋は、ゆったりしていて、清潔で、物の配置もよく考えられていることに驚いた。その雰囲気は私に、トラン・アン・ユン監督の映画「ノルウェイの森」を思い起こさせた。

一週間後、ベジタリアンの人たちから、アヒルやニワトリがいる場所の隣にある誰も使われていない草地を耕そうと誘われた。あきこが彼らに、私が農業を学んでいる半農半X*14の実践者であったことを伝えていたに違いない。

私たちは毎週恒例の寮会議—建物の秘密の部屋で行われる—で、その耕地を「吉田の小さな庭」と名づけることにした。それは、東京は渋谷の宮下公園の外で食べ物を育てている友人たちにちなんだ名前だ*15。私たちが自らを組織化し団結するとき、未来は私たちのものであり、運命は共有されるのだと確信している。ガンバッテ!

 

2018年5月31日 京都

 

日本語訳 八木智大とその友達

 

 

Little Yoshida Garden

A fictional story by Michael Leung

 

It began on Sunday 13th May 2018 when without warning Kyoto University removed students’ signs around the campus. Apparently the signs, flat against the wall, breached a city ordinance. The signs are our collective voice: to other students; the public; and those we have yet to meet. We support free speech and installed a few new signs, now visible on the busy intersection of Higashioji-dori and Imadegawa-dori.

A couple of weeks later, we were told by obaasan Haruka, an insomniac grandma who walks her red Shiba Inu (dog) at night, that the university's security guards brought torches and wire cutters to quietly dispose of the few remaining signs on the intersection. The following morning over 5,000 students occupied the intersection, bringing traffic to a complete standstill. We only let the emergency services past – ambulances and fire engines only. No police.

After exactly 24 hours, we amplified our demands using a human microphone from the centre of the intersection and then dispersed, with the potential to reassemble, if necessary. The university retracted their signage policy and even wrote a formal apology on their website homepage (Japanese only), which they only displayed for one day*16.

Further down the road, the university is now putting pressure on the Yoshida dormitory students to stop accepting future residing students. The 105-year-old wooden building is the last bastion of student rights and full autonomy in the neoliberal university, a collapsing education system.

All this campaigning and studying (I'm in my final year of my Food and Environmental Economics course) has left me exhausted, but I know that I have to keep going. My friend Atsuko once told me that the future belongs to the determined. She's completely right.

My long bus journeys between Omiyakusayama and the university have further drained me. When I heard that there was a sharing from Hong Kong activists at Yoshida dormitory, I visited and stayed at the end for the give-what-you-think dinner that was cooked by a vegetarian cooperative*17. I drank too much of the Wang Chau jackfruit mead and fell asleep in a room that was filled with manga novels and zines from all over the world. When I woke up, a ZAD*18poster*19 eclipsed the sunlight coming in through the open window. 

I saw two students in the room with me, whispering and editing the Japanese and English versions of the dormitory's manifesto. It was Akiko and Shintaro (a friend that I met during orientation camp). Akiko recognised me first from the intersection and gave me some words of encouragement. I didn't know how to respond, and instead one of the chickens outside timely clucked and answered for me. We all laughed together.

After a pot of black coffee, Shintaro told me that he has finally tidied up his room and that if I wanted to, I could share the room with him for free. He remembered that I lived far away with my parents and could see the bags forming under my eyes, and my scruffy hair. The latter is a personal choice!

I took him up on his offer and moved in the following day. Shintaro's room, now our room, was on the second floor. I was amazed by how spacious, clean and well-curated the objects in the room were. The atmosphere reminded me of Trần Anh Hùng's Norwegian Wood.

After a week, I was invited by the vegetarian cooperative to farm on the unused green space next to the ducks and chickens. Akiko must have told them that I was studying agriculture and was a FarmerX*20.

At the next weekly dormitory meeting, in the secret room of the building, we decided to call the farming area 'Little Yoshida Garden' in reference to friends who are growing food outside Miyashita Park*21 in Shibuya, Tokyo.

When we are organised and unite in solidarity, I know for certain that the future belongs to us – a shared destiny*22. Gambate!

 

31st May 2018, Kyoto

 

Translated Japanese by Tomohiro Yagi and his friends

 

 

 

訳文を作ったのは、遠く香港にも応援してくれている人がいるということを示したかったからです。マイケルの物語中にもありましたが、世界中の様々な場所で権力による人々への弾圧がなされています。国境や言語の壁をこえて、共に闘っていくことができたらいいと思います。

 

八木智大

 

 

I made this translation because I wanted to show that even far away in Hong Kong there are people who are supporting us. As is shown in his story, in many parts of the world people are being oppressed by authorities. I hope that we can all unite and fight together, beyond boundaries and language barriers.

 

Tomihiro Yagi

夜寝るのが怖い/嫌だの当事者研究会

だいだいハウスの当事者研究のお知らせ

 

こんにちは。八木智大と申します。

 

突然ですが、ぼくは夜寝るのが怖いです。特に夜の1時半~2時半くらいに、部屋の南側にご先祖様の気配を感じます。それが怖いので、布団は部屋の北側に、東西に長くなるように置いて、部屋の南側は黄色い豆電球をつけて、そっちの方を向いて寝ています。反対側を向いて眠りにつくのは、見ていないすきに襲われることを考えると、怖くてできません。昔、金縛りに遭ったことがあって、それが本当に怖かったので、また遭うのではないかといつもビクビクしています。

 

ご先祖様には、怒られているような感じがするのです。心当たりがあるのは、同居している祖母ばかりに家事をさせて全然手伝っていないことです。だからそれをしたらいいのかもしれませんが、めんどうくさくてする気になっていません。布団に横になって電気を消すまでは、怖さを忘れているためです。

 

ということについて、テーマに共感した方、聞くだけでもおもしろそうだと思われた方、いらしていただけますとありがたいです。

 

日時 6/7(木)19時から

 

場所 だいだいハウス(叡山電鉄茶山駅から徒歩30秒なので場所がわからない方は茶山駅に着いたら連絡ください。迎えに行きます)

参加費なしですが、場所のためのカンパを集めています。

 

ご飯 ご飯と味噌汁だけあります。

材料費適当にカンパ

食べる人は事前にお知らせくださったら助かります。

マイノリティ性を自ら語ること−−バリバラ「どきどきコテージ」の批判から−−

 ぼく自身が出演したNHKのバリバラ「どきどきコテージ」について、批判文を書きました。そのことについて記します。(ツイッターに載せた文章を編集しています)

choyu.hatenablog.com

 バリバラの批判文に書いたことは、本来は収録前に制作者に伝えられたらよかったし、それが筋だとは思います。収録・放送で違和感を感じたことはいくつかありましたが、そのうちのひとつ、恋愛っぽさがあることは打ち合わせのときから聞いていて、その時から違和感を持っていました。でも、ほとんど伝えられませんでした。それはぼくのコミュニケーション力不足もありますが、「恋愛っぽさ」は制作者の中では確定事項で、どう言ってもぼくの意見は取り入れられないだろうと感じたからでもあります。強く言っても、「考えておきます」と流されるか、「わかりました」と嘘を言われるか、「なら出なくていいです」と言われるかだと思いました。

 テレビはそういうものと思われるかもしれませんが、少なくともぼくが前回(2016年秋)に出たバリバラでは違っていて、吃音でぼくについて撮るということを決められてからは、何度も打ち合わせをし、ぼくの提案も検討し取り入れてくれました。もちろん限界はありましたが、今回とは全然違いました。

 前はぼくがメインの人物であったのに対し、今回は8人もいたという状況の違いがあります。今回は一人一人の意見をしっかり聞き、打ち合わせもするというのは難しかったかもしれません。けれども、制作者があらかじめ決めた番組の型の中で役割をこなすのみというのは、無力感が強かったです。収録の中でできることは精一杯しました。けれど、番組をどう作っていくかというところから関わりたい、関わらないといけないと思いましたし、それでしかバリバラが言う「マイノリティのための」番組にはならないと思います。

 「恋愛色を出すなら出演しない」と言って断ることもできたのに、そうしなかったのは、私のことになりますが、収録してそれが放送されること自体は楽しく学ぶことも多そうだったからで、実際にそうでした。場面緘黙の人とちゃんとかかわったのは小学校以来でしたし、放送をきっかけにSNSを介して親しくなった人もいます。これらの出会いは本当に貴重であり、今後も多くのことを学ぶことができると予感しています。

 ぼく自身について言えば、出てよかったです。にもかかわらず今回批判文を書いたことは、機会を与えてくれた制作者を裏切ったようで心苦しさはあります。制作者はおそらく裏切られたと感じているでしょう。しかし同時にぼくも、収録での設定と放送された番組などから、裏切られたという感覚を持ちました。

 それはぼく個人が裏切られたということにとどまらず、社会がつちかってきたマイノリティ性への意識が裏切られたということです。番組への人々の反応—差別や偏見が再生産されていることを無視して、すばらしいものとして受容してしまうこと—もまた、それを裏切っていました。

 今書いていて「無力感」という言葉が出てきましたが、我が言葉ながらその通りだと感じ入ります。(打ち合わせ時からうすうすわかっていたこととはいえ)いいように使われた感じは放送後さらにつのり、胸の内がずっともやもやしていました。それに耐えられず、批判文を書きました。そうせずには回復できない感じがしました。

 ちなみにバリバラ制作者たちはぼくが見る限り、「マイノリティ性に関心がある→バリバラの仕事をする」ではなく、「バリバラの仕事が与えられる→番組になりそうなマイノリティ性に関心を持つ」という印象です。与えられた仕事を、NHKや今の社会の枠を超えて、本当に誠実にこなしていただけるといいのですが、やはり当人に当事者意識を伴ったマイノリティ性への洞察がないと、それは難しいのだなというのが、バリバラに3度(3度目はもうすぐ放送される)出た印象です。

 ぼくはマイノリティ系の集まりが好きで、吃音以外にも色々行っているのですが(当事者研究会、非モテの会、在日コリアンの会など)、そういうところで出会った人たちの方が、バリバラの制作陣よりマイノリティ性についてよほどしっかり考えています。あるいはツイッターやブログなどで発言されている方にも、すばらしい洞察をされると思う方が大勢います。それは今のぼくにとっては当然ですが、バリバラに出てちゃんと番組を見るまでは、「しっかりした意識を持っている人が作っているんだろうな」と思っていました。でも、マイノリティ性への真摯な意識があれば、あのような番組は作れないはずです。

 何が言いたいかというと、当事者の語りこそが最も信頼できるということです。自分たちでどんどん語っていくのが、遠回りなように見えて、最も確実で本質的な社会変革となるのです。バリバラのようにテレビを介すると、普段はマイノリティ性を考えないような大勢の人に一気に伝えられて、近道であるように見えますが、実際はその過程で多くのマイノリティ性を損なってしまうのです。権力や権威に頼るのではなく、自らの力を信じそれを使うのです。その力を誰しもが持っています。

バリバラ「どきどきコテージ」の問題点

 毎週日曜日の夜7時から、NHKEテレで「バリバラ」という番組が放送されています。バリバラとは「バリアフリー・バラエティー」から来ていて、障害者などマイノリティーが直面させられている「バリア」の解消を目指す、バラエティー番組と解釈しています。その中の企画で、2018年の1月21日と28日の二週にわたって放送された「どきどきコテージ」というものに、ぼくは吃音の当事者として出演しました。

 どういう企画か、ホームページから引用します。

NHK バリバラ | 「どきどきコテージ」前編 ~ぎこちない出会いの巻~

ある海沿いの町に不思議な力をもつ宿がある。その名も「どきどきコテージ」。ここに8人の男女が集い、2日間をともに過ごす。彼らは、吃音(きつおん)や場面緘黙(かんもく)のため、修学旅行で輪に入れなかったり、恋愛に一歩を踏み出せなかったり、“コミュ障”のレッテルを貼られた経験を持つ若者たちだ。彼らに共通する参加動機は、人と前向きに関われるようになりたい、ということ。沈黙が続くぎこちない出会い・・・果たしてどんな交流が生まれるのか?2回シリーズでお届けする。

 NHKという多くの人が目にする媒体で、吃音や場面緘黙を取り上げてくださったことは、すばらしいことだと思います。当事者として吃音についていえば、世間の認知度があがると、どもったときに笑われたりすることは少なくなるでしょう。

 しかし、今回の取り上げ方は様々な問題をはらんでいると、出演し放送を見て思いました。以下に指摘していきます。

 まず、いま引用した文章について述べます。「吃音や場面緘黙のため、修学旅行で輪に入れなかったり、恋愛に一歩を踏み出せなかったり」とありますが、これは世間の偏見をそのまま引き継ぐ文章となっています。吃音や場面緘黙だと友達や恋人ができにくいというのは、傾向としてはあると思いますが、出演者がその当事者であるからそうであったと、当人に聞きもせず決めつけるのはまさしく障害に対する偏見であり、またこのような文章を公開することは、偏見を世間に広めることになります。

 他に、「参加動機は、人と前向きに関われるようになりたい、ということ」とありますが、これも場面緘黙や吃音の人たちは「人と前向きに関わ」ることができていないという決めつけです。ぼくはそんな参加動機は言っていませんし、人と前向きに関わることができていないという自覚ではありません。

 また今回は、恋愛っぽさのある演出がされていましたが、それには違和感がありました。確かに、吃音や場面緘黙の人が、恋愛関係を作るのが難しいという傾向はあると思いますが、だからといってテレビ局に恋愛の場を提供してもらうことは望んでいません。恋愛要素が入れられたのは、障害ばかりでは「重い」から「リラックスできるほほえましいものを」という意図だったのかもしれませんが、ぼくにとって恋愛は生きるか死ぬかの問題であり、取り上げるならもっと誠実にしてほしかったです。収録では男女別に部屋に集められ、「誰が一番いいと思った?」などという質問がなされました。それが全国に公開される可能性を考えるとぼくは答えませんでしたが、質問すること自体が失礼だと思います。

 そもそも、どうして男性=吃音、女性=場面緘黙となっているのでしょうか。確かに番組中で説明されていた通り、吃音が男性に多く、場面緘黙が女性に多い傾向にはあるのですが、場面緘黙の男性や吃音の女性も充分な割合がいるわけです。なぜ多数派に合わせるのか説明がほしいところです。ディレクターに直接問うたところ、吃音=男性、場面緘黙=女性となっていた方が、視聴者が「この人は吃音だったか場面緘黙だったか」と混乱せずにすむからと言っていましたが、やはり「恋愛ありき」になっているから、そのような設定がなされたのかと思います。

 また、自己紹介や皆の前で食事をする場面がありますが、それは健常者社会で「そうするもの」と決まっているのにすぎないのであって、吃音の人と場面緘黙の人とが関わるなら、必ずしもしなくていいし、するにしてもやり方がもっとあるように思います。「障害を紹介する」という番組の性質上やむを得ない面もありますが、わざわざ緊張しやすい場面を設定して、顕著に現れた症状を撮るというのはどうかと思いました。

 最後に、本編中の事実的な改変を指摘して終わります。

  • 「参加者はみな志願してくれた」とありますが、ぼくはディレクターからの出演依頼を受けて出ています。
  • みなで食事をする場面で、かぶりものをして場がなごんだ結果、それぞれの悩みを話すことができたとなっていますが、実際は「悩みを話そう」というコーナーがあってのことです。
  • 水族館で男女の出演者2人が「いつのまにか2人に」なったとナレーションが入っていますが、これは事前に「ここからは2人ずつに別れましょう」と決めたものです。
  • 写真が好きな場面緘黙の人が、「これまでほとんど撮ることができなかった、人の写真」を、水族館での関わりがあって撮ることができたという描写がされていますが、実際はその写真を撮った後に水族館に行っています。

 こういった事実的な改変は、この番組が一応「バラエティー番組」であるから演出の一部として許容されると考えているのかもしれませんが、ぼくら出演者は役者でもタレントでもないのです。バリバラは市井の障害者を取り上げる以上、本質的にドキュメンタリー性を持つでしょう。バラエティー要素を入れることは決して悪いことではありませんが、それを言い訳に制作者が真実性の追求を捨てるとしたら、本末転倒です。企画も編集も、当事者である出演者はほぼ関わることができずになされています。バリバラ制作者は、話題になることばかりを志して、一番大切なものを忘れているのではないかという危惧を申し上げて、終わりにします。