「吃音という言葉使っていいですか?」丁寧な配慮に感動した話

先日、当事者研究の仲間と話していたとき、何かの流れでぼくが吃音のことを少し話した。

すると相手は、自分も意見するというときに、「吃音という言葉使っていいですか?」とことわりを入れてきた。

ぼくはこれに感動してしまった。

ぼくは今でこそ、吃音をある程度は受け入れているが、高校生までは全くそうでなく、吃音のことを誰かに言われるだけで、泣きそうになっていた。

「吃音についてネガティブなことを言われたときに泣きそうになっていた」ではなく、ただ話題に吃音が出ただけで泣きそうになっていた。

今でも、「吃音」と他の人から言われるだけで、ちょっとびびる。自分でその言葉を言うときも、一瞬ためらう。

何らかのマイノリティ性を有する人に対して、それを表す言葉を言うだけでも、実はちょっと危うさのあることだと思う。

けど、その危うさを乗り越えないと語るのは難しい。言葉を避け続けるのもまた、当事者自身も発言しにくくなるという抑圧を生む。

だから、非当事者も、当事者がその言葉を使っているのを確認してからに限ってだが、使っていいと思う。ぼくの意見をいえば、使ってほしい。が、そのときはできるだけ慎重に使いたい。

最近USAなどに「文化の盗用」という言葉があるようだが、非当事者がたとえば吃音について安易に語るのもまた、文化の盗用だと思うのだ。正確には「当事者性の盗用」と言うべきか。当事者はおそろしいまでの時間そのことに悩んで、ぎりぎりのところで言葉や論理を組み立て納得してきた(そして今も多くの部分で納得できないでいる)のだから、非当事者がその場の思いつきやせいぜい本を二冊読んだくらいで、当事者に意見することはかなり失礼である。

が、それでも、非当事者の意見が有効なことはある。その当事者でない人の語りでも、それがマイノリティの目線で語られるとき、普遍性を持って訴えかけてくることがある。吃音でない人の意見で、吃音について考えがより深まることがある。だから、意見してはいけないというわけでは、全然ない。

だがそのときは、相手の当事者性という文化にできるだけ敬意を払うことが必要だ。そのときに、最初に述べた、「『吃音』という言葉を(非当事者のぼくが)使ってもいいですか?」という問いかけは、丁寧of丁寧なものだったと思う。

みなにそうしてほしいとは、個人的には思わない。心にもないのに形だけされても困る。「○○という言葉使っていいですか?」はぼくも言ったことがない。まだそこまで、他者の当事者性に敬意を払えていない。でも願わくば、そのくらいの丁寧さを持ちたいと思う。